2013年11月27日 (水)

Ipadでみる ウォン・カーウァイ

あのAmazonが、映像配信を始めることになったそうで、すでにGyaoやTSUTAYA、また各テレビ局の参入も始まっており、何万本という映画や番組のコンテンツが、インターネット上を行きかうことになるのでしょうか。ちょっと選ぶ方は大変そうですが。

考えてみると最近あんまりレンタルビデオ屋さんに行ってないですね。まあ、わりと最近のたいていのものは、iTunes Storeでみつかるし、やはり特別のものはないのだけど、というか、そういう意味では肝心なものはなかったりするのだけど、だんだんにipadで観れる映画のラインナップは充実してきてる気がしますね。

レンタルビデオ屋をウロウロしてるうちに、意外な掘り出し物を見つけたりすることはなくなるけど、題名がわかれば探し出す手間はないし、出演者や監督の名前で検索かけるのは楽ですよね。

Brigitte_lin

先日も、ウォン・カーウァイで呼び出してみると、わりとズラッと出てきて、久しぶりに次々と観なおしました。前に検索した時には、見つからなかったので、最近そろったのだと思います。

1994年の「恋する惑星」は、香港の雑居ビルを舞台に若者たちを描き、クエンティ・タランティーノに絶賛されアメリカでの配給を決めた彼の出世作で、たしか私も、これを最初に映画館で観たと思います。この映画は2つのエピソードでできており、本来この映画で描かれるはずだった3つ目のエピソードが、次の「天使の涙」となり、これらの映画には映像作家としての彼の新しい試みがあふれています。そして忘れてはいけないのが撮影のクリストファー・ドイル。ほぼ全部の作品を担当していて、その映像が当時、相当斬新だったことを覚えています。

「欲望の翼」は、今回のラインナップには入っていませんが、1990年に公開されたデビュー2作目で、カーウァイ独特の映画スタイルを完成させたといわれています。1960年代の香港を舞台に恋愛模様を描いており、その続編といわれている2000年の「花様年華」も、これは今回のラインナップにはまだ入ってませんが、2004年の「2046」も続編とされており、このあたりは映画としてかなり見応えがあります。

この人の映画は、常に実験的で新しいという評価はもちろんあるのですが、その前に、映画としてかなりしっかりした骨太さがあります。それは、たとえば俳優が演じるキャラクターの存在感の強さだったりします。映画が俳優をどう捉えているかということに集約されるのですが、このあたりがどの映画を観ても非常に興味深いです。

「欲望の翼」の俳優たちは、当時、香港のアイドルのトップスターたちですが、映画俳優として確実にハイレベルに成立しています。監督は彼らとどのようにかかわったのか。

かつて日本でも、相米慎二監督がアイドルたちを次々にスクリーン上で映画俳優にしていったことを思い出します。

ウォン・カーウァイと関わった俳優は、多くが一流の映画俳優になっています。中国には、かつての日本もそうでしたが、映画俳優という職業が、専門職として間違いなく現存しているという背景がありますが、ウォン・カーウァイの映画における俳優には、観客をスクリーンに引っ張り込む、気のようなものがあります。

もう一つの大きな特徴は、それはもう音楽の使い方のうまさです。これは、映画を観るたびに思いますが、ものすごく生理的に音が浸みこんできます。これはたぶん多くの人が感じてることだと思います。

既成曲の使い方も見事で、「恋する惑星」の ママス&パパス(夢のカリフォルニア)とか、「花様年華」の ナット・キング・コールの3曲(アケージョス・オホス・ベルデス)(テ・キエロ・ディヒステ)(キサス・キサス・キサス)、「2046」の ディーン・マーチン(スウェイ)や コニー・フランシス(シボネー)など、60年代の曲がここぞというタイミングでかかります。しびれる。

昔、影響を受けた映画は、今見直してもやっぱりすごかったですね。

また、新たな発見もありました。「花様年華」で、トニー・レオンとマギー・チャンが密会するホテルのルームナンバーが、2046号室になってて、次回作の「2046」にちなんでたりしてます。

やってくれはります。

2013年10月24日 (木)

ちょっとどうかしてる寿ビデオ

9月28日に、たぶん今年の我社にとっては、もっとも重要と思われるイベントが行われたんですね。何かっていうと、社員同士の結婚式だったんです。小さな会社ですから、誰かが結婚するだけでけっこうな騒ぎになるのだけど、適齢期の男女がたくさんいるわりには、このところ結婚話がなくて、久しぶりの結婚式だったし、加えて社内結婚ということで、否が応でも盛り上がり、もうこのことがわかってからは、ずっとそのこと中心に会社がまわっておりました。

まあそれだけ愛されてる二人なのですが、これがどういう二人かというと、新郎は社歴7年のT田くん、新婦は社歴9年のN田さん、ちょっと姉さん女房ですけど、T田くんは入社した時から美人の先輩のN田さんのことが、ずっと気になってたんだそうです。それで、皆まったく知らなかったんだけど、3年ほど前から二人は密かにお付き合いを始めたんだそうなんですよ、これが。よく3年間もマル秘を守ったものだと感心しましたが、少なくともオジサンたちは全く気がつきませんでした。

そして、9月28日という日取りが決まり、二人は夏ごろから徐々に社内に結婚の報告を始めます。

会社の中では、オジサン達が集まる役員会というのがあって、まずそこで正式な報告がありました。8人ほどの会議で、ほとんどの人がそこで初めて聞いたのですが、皆一様に驚き、その中でも代取で親分格のマンちゃんは、完全にしばらく絶句してます。

マンちゃんは、この新婦のN田さんのことは、同郷で富山ということもあり、気が合うみたいで、新入社員のころから可愛がってたんです。

「いや、それ、認めるわけにはいかないよ、それ。」と申します。

親じゃないんだからそういうこと言う権利ないと思うし、その上、N田さんがこれを機に寿退社するということを聞いた時には、

「それ、N田じゃなくてT田が辞めるわけにはいかないの?」などと、無茶苦茶なことを言ったりする始末です。

ともかく他のメンバーで説得しましたが、この人の場合、リアルに適齢期前の一人娘さんがいらっしゃるわけで、そのことを思うとため息が出ます。

 

さて、ここから当日に向かって怒涛の準備が始まります。本来の仕事のほうもけっこう忙しかったんですが、結婚パーティーの演奏や余興の練習、それと大作寿ビデオの制作など、仕事が終わった時間に、しかも本人たちに気付かれぬようにやるわけですから、

ずっと寝不足、本番の当日には、誰も寝ないで来ております。前にも申しましたが、この会社の人たちは、そういうことには絶対に手を抜かないのですね、まったく。

だいたい、パーティーで流される寿ビデオが2本もあります。連作とかタイプ別とかじゃありません。全く別なものが、まあどちらも渾身の力作です。しかも、全社員が出演します。笑えます。

この忙しい時に、いつの間にこんなものを作っとたのだろうか。感動しますが、あきれもします。

パーティーの後半で流れたビデオは、テーマが「挑戦」ということになってるんですが、どうなんでしょう、二人でこれからの人生に挑戦して下さいってことなんでしょうか。ビデオの中身は、社員たちが次々と自分自身の限界に挑戦していくシーンがつながっていきます。いろいろです、マラソン走ったり、鯛釣ったり、息止めたり、バンジーしたり、なかなか良くできてんですけど、そのラストを飾ったのが、なんと、あのマンちゃんのスカイダイビングだったのですね。・・・圧巻です。

僕の長い友達のマンちゃんが、空飛んでます。生まれて初めて、還暦直前に。

やってくれます。・・・笑った。

その後、会社では、寿退社したN田さんが来なくなり、ちょっとさみしいですが・・

一方、競馬麻雀好きのT田くんのことを、筋金ギャンブラーのマンちゃんは、可愛がりながら指導しています。義理の父と息子のように。

ま、今年一番の良いニュースだったことは確かです。またしてもエネルギー使い切ってますけど。

Skydiving

2013年8月26日 (月)

神宮外苑花火大会

毎年、夏になると8月のどこかで、神宮の花火大会があるのですけど、

これが、うちの会社の屋上から見ると、方角といい、距離といい、ものの見事にベストポジションなんです。

そのことは、約10年前にわかったんですけど、うちの会社が六本木から今の場所へ引っ越す少し前に、仲良しの音楽プロデューサーのWナベさんに、引っ越し先の場所の説明をしたら、Wナベさんが予言者のように、

「その場所は、夏の神宮の花火がすっばらしく見えるところです。」

と言い放ったのですね。ちなみに、その時は真冬だったんですけど。

この人が神宮花火大会に関して、相当詳しいマニアックな情報を持ってらしたことは、間違いないです。で、引っ越して来てみて最初の夏、弊社がほんとに見事な花火見物ポイントであることがわかりました。

そして、それから年々私たちも盛り上がり、評判が評判を呼び、このイベントは人数的にも内容的にもエスカレートしていきました。この数年、来て下さるお客様は300名近くを数えるようになり、けっこう大量に用意をする生ビールも、他酒類も、ソフトドリンクも、毎年テーマを決めて作るツマミ各種も、ものの見事になくなります、イナゴの大群が通り過ぎた後のようにです。仕掛ける側としては、イベントが盛り上がるのは大変うれしいことなのですが、3年ほど前に300人をはるかに超えたことがありまして、その時はちょっとあわてました。そういう時って、不思議と私たちが誰も知らない人が一緒に見物してたりしてるんですけど。

花火は、19:30~20:30で、10000発が打ち上がりますが、その間、街は大混雑でして、みな、その後しばらく飲んで騒いでいかれます。

これは、恒例化している夏の大イベントです。会社としての大きなパーティーは、年に2回ありまして、一つはこの花火大会、一つは年末の忘年パーティーです。

どちらも、それなりの数のお客様が来られますが、その人数が収容できるのは、4階の屋上スペースがあるからなのです。それほど大きな建物ではありませんが、4階は半分が屋上、半分がペントハウスのようになっていて、けっこう大きめのキッチンが内包されています。このスペースがないと、いっぺんにたくさんのお客様を招くことはできないのですね。

なんで、こんなものが会社の中にあるのかというと、会社が神宮前に越してきた頃に話は戻ります。10年前、会社は六本木にあったんですが、長く暮らすうちに、少しずつ人も増えて、だんだん部屋を借り足していたら、6か所くらいに家賃払うことになってて、おまけに六本木は、六本木ヒルズの再開発で、街中取り壊されて、違う街になろうとしてました。そこで思い切って、みんなで一つの建物に入れる物件を探すことになったのです。そこで、不動産担当役員のマンちゃんが探し当てたのがこの物件でした。

実はこの時点でまだ建物は建っておらず、まさにこれから建築というところでしたが、3階建てのビルになる予定で、我々が求めていた面積に対してもちょうどよくて、一軒まるごと借りられればベストだなあということになって行きました。いろいろと賃貸契約の話をしていく中で、大家さんから、どうせなら使いやすいように、間仕切りとかの希望も言ってくださいと言われて、担当の建築家さんを連れてきてくださったんですね。

確かに、どうやって使うかを、あらかじめ自由に決めさせていただくとずいぶん助かります。

で、いろいろ相談してた時に、ふと、

「屋上はどのようになる予定でしょうか?」と聞いてみたんです。

六本木に借りてた事務所のうち、ほんとに小さな一軒家があって、それに6畳くらいの小さな屋上スペースがあって、たまにそこで詰め詰めの宴会すると楽しくて気持ちよかったので、なんか気持ちのいい屋上になったりするといいなと思ったんです。

聞いてみると、予定では、空調の室外機や、電気の変圧器とかが置かれた、普段は使うこともない何の変哲もない場所になるとのことでした。

「それ、たとえばですね、なんか夕方ちょっとビールとか飲んで、気持ちのいいスペースになったりしませんかね。」

まあ、何でも言うだけは言ってみようかと思って、などということを話してみたらですよ、すっごいこの建築家と話が盛り上がってですよ、いつの間にか、屋上は4階と呼び改められ、半分は気持ちのよい板張りの屋根なしスペースと、もう半分は屋根つきのペントハウスで、エレベーターは4階まで上がるという計画に書き換えられたんですね。

「いんですかね。」

「いいです。いいじゃないですか、これでつめていきましょう。」

みたいなことになっちゃいました。

ただ、完成した時、4階分の家賃が新たに追加されたのは当然のことでしたが、それはまあそうですよね。

そこから、4階スペースが今の状態になっていくには、何段階かがあるのですが、初めのころは、わりと普通に会議に使われてたんですね。まずだんだんに、台所の調理能力をものすご強化しました。これは、火力、冷蔵力、調理道具力、食器力、すべてです。そして、4階で料理する時の材料の仕入れは、その都度大変な量になってきました、酒もしかりで、発注の仕方もすでに玄人っぽくなってきています。仕事の流れの中でよくある、親睦の会とか、打ち上げとか、ふつうだとどこかのレストランを借りるようなことがあっても、そういう時は、まず4階で自分たちでやります。屋上の板の床は、使用頻度の多さに耐えかねて、抜けましたので補修もしております。

そして昨年、こうなったら徹底的にと開き直ったわけではないのですが、4階責任者のO桑君の発案のもと、私たちのマインドをすごくわかってくださっている、ある有名なデザイナーの方が、4階大改装をやってくださいました。4階すべての、壁、床、天井、照明、机、テーブル、家具、キッチンなどを、本当にただただ居心地よく楽しくなる形にしてくださり、おまけに、屋上部分には、これも嬉しい炭焼きコンロ台と、いっぺんに大量のベーコンを作ることのできる大型燻製窯を設置してくださいました。

もういつでも完璧に私たちの宴会ができる風景になっています。

どちらかというと、もうここであまりシビアな打ち合わせはできないかなとも思いますけど。

えらく大好評だし、まあいいかなと。

Kunseigama_9

 

2013年7月12日 (金)

わたしと自動車のこと 余話・ヤマちゃんのシビック

このまえ、車のこと書いてて、いろいろ思い出したことがあって、そのうちの一つなんですけど、最初に就職した会社にある先輩がいて、その人が乗っていたホンダシビックという車のことなんです。当時HONDA CVICって、CMもかっこよくて、ルイ・アームストロングのWhat a Wonderful Worldの歌声が印象的で、若者にすごく人気があったんですね。

この先輩は、皆から親しみをこめてヤマちゃんと呼ばれてるんですけど、私が会社に入って一年くらいは、ほとんど会社で会うことがなくて、たいてい南の島でロケしてるか、そうじゃない時は、個人的にスキューバダイビングに行ったりして、いつも日焼けしてて、基本的にあんまり会社に来ない人だったんです。

ところが、一年くらい経った時に急に呼ばれて、この人の仕事に着くことになり、そのあと、かなりたくさん仕事をさせてもらうことになります。それから、かれこれ35年くらいになりますが、ずっと師弟関係で、いまだに同じ会社で仕事してますから。

それはいいんですが、その頃この先輩ヤマちゃんが乗っていたのが、ちょっとCMのイメージと違うHONDA CIVICつやなし紺色バージョンだったんです。

私はこの人の仕事の助手であり、部下というか子分のようなことなので、このシビックで2人でどっか行く時には、私が運転することになるんですね。

はじめてこの車のハンドルを握った時、ヤマちゃん先輩から、

「えーと、この車、信号待ちとかで停まってるときもアクセル軽く踏んどいてね、そうしないとエンジン止まっちゃうから。」と云われました。

ためしに、クラッチ切ってアクセルから足を離すと、エンジンは止まってしまい、

「いや、だから、右足は常に軽く踏んでなきゃ。」みたいなこと云われ、エンジンを掛け直すことになります。ま、ようするにアイドリングが低すぎるんですね。

まあ、これはやってるうちにコツがわかってくるので、慣れればいいんですけど。

実は、運転席の窓に問題がありまして。高速道路の料金所で、料金払おうとして窓あけるじゃないですか。パワーウインドとかじゃないから手動でハンドル回すんですけど、するとどうでしょう、一回ししたとたんに窓のガラスがストンと落ちて閉まらなくなってしまいました。料金所のおじさんが笑ってるのはいいんですけど、そのあと高速道路走ると、ものすごい勢いで風が入ってくるわけです。ちなみに真冬です。

ヤマちゃん氏は、

「前にもこうゆうことあったんだよな。」とか云ってます。

それで、また一週間ほどしたときに、私、またシビック運転することになったんですが、窓見ると、ガラスがガムテープで固定されてるわけです。氏は、

「応急処置ね。」とか云ってます。

で、また高速道路に乗るんですが、料金払う時は、私、車降りてからお金払うわけです。

ETCとか発明されてない頃の話です。料金所のおじさん爆笑してます。

そんなことがあって、先輩の車もいろいろ変わっていくんですけど、ある時、中古ですけどベンツを買われたことがあったんですね、突然。

いやあ、直属の上司がついにベンツかあ、と、感慨深かったんですが、このベンツにもやはり弱点がありまして、いつだったか、伊豆の山の中の坂道を登っていた時に、後ろから来たみかん満載した軽トラックに、おもいっきり抜き去られたことがあって、わりと登り坂に弱かったんですね。

私も人のことは言えませんが、あの頃、私の周りには、いろいろに面白い車に、だましだまし乗ってた人、わりといました。

先輩の名誉のために言っときますけど、今は、それはそれは立派な、パキッとした車に乗ってらっしゃいますよ。パワフル高速安定走行、窓はもちろんパワーウインド、ドイツ製ですから、ほんとに。Civic_2

2013年6月18日 (火)

わたしの自動車のこと

この前、何かの本読んでたら、自動車の歴史のことが書かれてたんですけど、いわゆるガソリン車は明治維新のころにはすでに、ヨーロッパで発明されており、その後着々と進化を続け、ご存知のように20世紀から今日に至るまで、人類の歴史に多大な影響を与えてきました。

というようなことはともかく、そこで自分と車のことを考えてみたわけです、ふと。

私が運転免許を取ったのは、大学生の時で1974年頃だったと思います。その10年前、1964年の東京オリンピックの前から日本はものすごい勢いで道路を整備し始め、自動車先進国の仲間入りを目指します。そして自動車産業は国の根幹をなす産業となり、車の保有台数も年々増え続けました。

私が小学生のころには、一般の家庭に自動車などなく、運転免許を持ったお父さんも、あんまりいませんでした。たまに親戚のおじさんが仕事で使ってるオート三輪車の荷台に乗せて走ってくれたりすると、ほんとに嬉しかったもんです。多分その頃から10年ほどで自家用車というジャンルの車がすごく増えたんじゃないかと思います。なんか18歳になったら運転免許は取っとかなきゃみたいな世の中になって、男は大人になったら酒と煙草と運転免許証がセットということになってた時代です。

でも、運転免許取ったからすぐに乗る車があるわけでもなく、友達が自宅から乗ってきた車に乗ったりしてたんですね。そのうち車好きな仲間が増えてきて、やたら改造した車を自慢する奴とかがいて、そんなに云うんなら運転させてみろよみたいなことで、首都高速一周タイムトライみたいなこと始めるわけです。それからちょっと調子に乗って、「首都高の銀狐と呼んで。」などとバカなことを云ってる時期があって、そのうち、第三京浜の入り口のカーブでスピンして、1回転半して反対向きになって止まっちゃったことがあって、そのあとちょっと大人しくなったような気がしますね、わかりやすいです。

で、ちょっと熱も冷めた頃、大学の友達が自宅で乗ってた車を廃車にするんだけど、まだ走るし、車検も1年残ってるから買わない?って云うから、いくら?って聞いたら、「5万円で」という話があって。

当時4万円の仕送りで、家賃1万円で暮らしてたから、けっこう無理なんだけど、彼も金にしたかったみたいで、分割でいいってことになって、バイトで何とかするかって、軽はずみな決断をしてしまうわけです。

そして私のアパートの脇の路地に停められることになった車が、スズキフロンテ360という軽自動車でした。排気量360ccのかなりの年代物でしたから、高速なんて乗れませんし、なんだかトコトコ走る感じでしたが、はじめてのマイカーでもあり、可愛い奴でしたね。Suzukifronte360_2

でも、それから3カ月くらいした頃、代官山のわりときつい坂道登ってたら、突然バキッと音がして動かなくなり、いわゆる車軸が折れて、オシャカになりました。

それが、はじめてのマイカーとの出会いと別れでありました。

それからしばらくして、まだ学生だったんですけど、ある自主上映の映画団体で、16mmの映画を一本撮ることになり、そこで助監督兼、撮影計測兼、スチール担当をやることになったんですね、いろいろあって。撮影の準備しながら、軽トラでもいいから荷物運ぶ車がいるなと思いつつ、多摩川淵を歩いてた時に、小さな中古車屋に置いてあった小さなジープと目が合っちゃたんです。ちゃんと4輪駆動にも切り替えられるし、屋根はホロだから、はずせばフルオープンにもなります。カメラ載せれば移動も撮れるなと思った瞬間、店のオヤジに交渉を始めてました。値切りに値切って、粘りに粘って、30万位にしたかな、それから、考えられる最も長いローンを組んでもらったんですね。映画の事務所には相談できません。監督以下スタッフはみんな社会人だけど、持ち出しで映画作ってるんです。ガソリン代払ってもらうのがやっとです。でも、思った通りこの車は大活躍し、映画が終わっても長いこと私のアパートの脇の路地におりました。この車がスズキジムニー360。またしてもスズキさんの軽自動車なんですけど、360ccでジープっていうのがすごいですよね。スピードならでません。ジムニー君には私が社会に出て働きだしても乗っていて、仕事でもよく使いました。でも、就職して1年くらいの時、五反田の東洋現像所から現像したフィルムを受け取って、品川の御殿山を越える坂を登っていたら、車軸が折れたんですね。車軸が折れるってあんまり聞かないですけどね、このごろ。

その次は、いすゞの117クーペというのを買いました、これは知る人ぞ知る名車なんですね、はじめて軽じゃない車だし。ただ恐ろしく年代物で、カーステレオのカセットが8トラックでしたね。こんなこと云っても今の若い人知らないと思いますけど。値段は20万でしたか。

そういうことだから、この車の寿命も長くはなく、その次に乗ったのが、先輩のCMディレクターの方から譲り受けたAudi、すでに10kmは走ってましたけど、外車です一応。この車はよく煙が出た記憶があり、時々突然止まってしまうことがありました。首都高速のトンネルの中で急にエンジンがとまってかからなくなった時には、後ろから来たタンクローリーに思いっきりクラクションを鳴らされて死ぬかと思いました。

ここまで書いてみて思いましたけど、東京に出てきて30過ぎまでに4台の車に乗って、

その値段の合計が100万円に届いてないのもすごいなと。

でまあ30代も半ばになって、5台目にして中古車ですけど世間でいうところの人並な、値段もそれなりにまともな車を買うことにしました。

ボルボ240エステートGLというワゴンタイプの、当時いいなと思ってた車で、シルバーグレーメタリックっちゅう色も、気に入りました。あのころ、ボルボは世界のボルボだったし、頑丈で重厚で足回りも良く、いい走りするんですけど、電気系統に当たり外れがあったんですね。私のは外れでした。毎年夏にエアコンつける頃になるとエアコンが壊れるわけです。スエーデン製の車だから日本の夏の暑さに合わせたエアコンになっていないという中古車屋のオヤジの苦し紛れの言い訳も、聞くたびに腹立たしかったなあ。

そういえば、ちょうどその頃、「危険な情事」という映画があたっていて、主人公のマイケル・ダグラスが、偶然関係を持ったちょっと異常な女グレン・クローズから、超おっかない目に会う話で、その中で女に燃やされちゃうマイケル・ダグラスの車が、型も色も全く私の車と一緒だということを、ある知り合いのディレクターが教えてくれてました。映画観にいったら僕の車がほんとに燃やされてて、悲しかったですね。

そんなことで、ふた夏ほどでこの車とも別れ、その後4台乗り継いで今の車に至るのですが、一台一台それぞれに思い出とかエピソードがあります。そのほかにも、知人の車のことや、長年かかわった車のCMのことなど、いくらでも話のネタはあるんですけど、きりがないのでこれくらいにしときます。

それにしても、最近の車って、あんまり壊れませんよね。やっぱり着実に進化してるんですかね。私の場合、車の思い出って、まず故障の思い出なんですけど。

 

2013年4月30日 (火)

歩くということ 登山編

新入社員研修キャンプというのをやったんですね、うちの会社らしいんですけど。たしかに山の中に行って、いろんな共同作業とかやると、キャラクターもわかるし、仲良くもなるし、お互いゆっくり観察したり、話をしたりするには、いい機会になるんですね。

新入社員は6名、新入社員以外は、仕事もあるし行ける人だけでやりましたが、キャプテンは、O桑君とW辺君です。この二人は山の中に行ったりキャンプするには不可欠な人なんですね、経験上。

今回は金曜日の朝に出発して、昼過ぎにはいつもの山梨のキャンプ場に到着しました。ここは、ほんとに何もないところなので、これからすべての設営が始まります。テント張って、火熾して、机や椅子出して、買い出しして、晩飯の下ごしらえして、いろいろやってるうちに日は暮れていきます。4月とはいえ、南アルプスの山の中は寒く、焚火と酒であったまります。他にやることもなく、ただ深酒するんですね。はじめ緊張気味だった新人君たちも、そこそこにほどけてきますね。初日は10名そこそこなので、いつもの社員旅行キャンプの騒々しさはなく、なかなか風情のあるキャンプらしい夜となります。

次の朝、ちょっと宿酔の頭で歯を磨いていると、だんだん後発のメンバー達が到着してきます。昨日は仕事していて、今朝東京を発った人たちです。

人数も増えて、盛り上がってきたところで、今回の企画の目玉でもある登山となります。日向山という標高1650mの山で、恒例の登山なんです。前回の社員旅行キャンプの時には、私、登山コースを選ばず、麓のサントリー白州蒸留所で一日中ウイスキーの試飲をするコースにいて、この登山が意外とハードだったという話は後で聞いてはいたのですが、実際のとこよくわかってなかったんですね。

ただ、キャプテンのW辺君いわく、                            

「今回はハイキングコースの入り口まで車で行きますから、そんなにきつくないですよ。前回は下から行きましたから。」みたいな話で、

確かに看板にはハイキングコースって書いてあるしで、油断してたんですが、これが登り始めると相当こたえたわけです。なんせ、ひたすらきっつい登りっぱなしで、ハイキングってこういうことだっけと。そう思ってるのはどうも私だけで、若い人たちは冗談言いながら和気あいあいと笑いながら登ってますし、二人のキャプテンは、もともとこういううことが大好きな人達ですから、私とは違います。

O桑君はニコニコしながら、

「まだ700mしか歩いてないですよ。」などと励ましてくれますが、

私からすると、7kmは歩いたんではないかと思えるのです。

「いや、自分にはかまわず、みんな先に行ってください、マイペースで追いかけるから、頂上で弁当食べてるとこに追いつくから。」

などと申して、最後尾を歩いてたんですが、相変わらず道はきつい登りっぱなしで、まだ行程の半分にも至っておりません。

ふと、回れ右したら楽になるなという誘惑と向き合い始めた時、気になって引き返してきたO桑君が呼びとめました、さわやかな笑顔で。・・行くしかないです。

なさけないですが、あごが上がるというのはこういうことだとわかりました。おかしいなあ、これでもかつては、仕事で屋久島の急勾配を縄文杉まで6時間かけて登ったのになあなどと思いましたが、考えてみれば、あれはもう10年前です。それから10年間自分を甘やかせ続けたむくいです。老化もありますが、ひどいもんです。

なんとか頂上に着きました。晴れわたった日向山山頂は、死ぬおもいして登った甲斐のある(おおげさですが)素晴らしい景観でした。でしたが私は、しばらくただ仰向けになって天を仰いでいました。涙目でした。塩のきいたお弁当、美味しかったです。Sanchou

みんなで記念撮影して、自分もここで一緒に写れてよかったなあと思っていた頃、

W辺キャプテンから下山の合図がありました。

「帰りは今来た道じゃなく、別の、もう少し険しい道をおります。ときどき鎖にぶら下がったりしながら下ります。頑張ろう。」

えっ、今来た道、じゅうぶん険しくないですか? しかし、こうなったら自棄です。

新人たちに背中を見せるわけにはいきません。さっき見せかけたけど。

帰り道は、私に言わせれば、道とは呼べませんでした。わかりやすくいえば、崖です。そこにもハイキングコースという表示が出てました。この辺、どうかしてます。

崖を転がるように降りた私たちは、キャンプ場近くの温泉につかりました。浸みました、生きててよかった(おおげさですが)。露天風呂に入っていたら、ポツポツと顔に雨があたり始めました。今夜のキャンプは雨です。

ただ、二人のキャプテンは全く動じません。まあ、あらゆるケースを経験してる人達です。むしろ新人たちにとっては、予期せぬこの状況は、よい研修になるとおっしゃってます。そうですね。そうかもしれませんね。

せまいけど屋根の付いた洗い場を利用して、その周りに何枚もターフを張って作られた会場で、雨の夜の大宴会が始まりました。参加の人数もうんと増え、キャンプファイアーは燃え盛り、いよいよ盛り上がってまいります。昼間の疲れから先に寝てしまうかと思いましたが、山登りとは違って酒宴には強いようなんですね、私。

しょうがないなあ。

 

 

 

2013年4月 2日 (火)

春、家族、旅

この春、久しぶりに家族で旅行したんですが、4人そろって旅したのって、いつ以来だったか、すぐに思い出せないくらいなんですね。子供も大きくなると、それなりに自分の都合で忙しくしてるし、親と一緒に行動しなくなりますから。

ただ、この春に上の娘は就職して社会人になることになり、下の息子も高校卒業して大学行くことになって、そういえば、しばらく広島の祖父母にも顔見せていないなということがあり、そろって帰郷したわけです。

私と妻は同郷でして、妻の父は7年前に、母は4年前に他界いたしましたので、こちらの祖父母へは、お墓参りをして、就職と進学の報告をし、伯父伯母にも久しぶりに顔を見せることができました。また、私の方の父母は、おかげさまで、まずまず元気にしておりまして、しばらくぶりに孫に会えるのを楽しみにしておりました。

広島に着いて1日目はお墓参りをして、2日目は九州の太宰府へ向かいます。孫が受験するときには、祖父母が学問の神様である太宰府天満宮へお参りに行ってくれており、まあ今回はそれのお礼参りということになります。

広島から博多は新幹線でほぼ1時間、そこから太宰府までが20分くらいなので、ちょっとした小旅行です。その日はお参りをすませた後、父母がこちらに来た時に何度か泊まったことのある温泉宿にお世話になることにしました。古いけどなかなか良い宿で、みんなで温泉に浸かってゆっくりすることができました。

夕食の前に、私の父母が子供たちにお祝いを渡してくれたんですけど、そのときにある話をしてくれたんですね。

父は昭和3年生まれの84歳、母は昭和4年生まれの83歳です。

二人ともさすがに高齢で、足腰も弱くなっており、ペースメーカーが入っていたりもして、かなりゆっくりしか歩くことができないんですが、でも、なんとかこうやって孫たちと旅ができたことは、本当に嬉しいことだと云いました。そして、80歳を越えて生きていられることはありがたいことですが、これもいろいろな偶然の積み重ねなんだと云いました。

それから、昭和20年の8月6日の話をしてくれました。

Genbakudomu_3 その時、父は17歳、母は16歳です。二人とも広島に住んでいました。この日は、月曜日だったそうです。父は広島の旧制高等学校の学生で、学校の寮にいて、その朝早く広島市内に用事があってバス停に並んでいたら、バスが満員で乗り切れなくて、仕方なく反対方向のバスに乗って実家に向かったそうです。実家に着いて少ししてから、原爆が炸裂しました。実家の窓ガラスは全部割れたそうですが、爆心地から10km離れていたので、命は助かりました。後から、父が乗れなくてあきらめたバスに乗った方たちは全員亡くなったことがわかったそうです。

母は女学校の生徒でしたが、広島市のはずれの工場に動員されて、そこで武器や軍服などを作っていたそうです。でも爆弾がピカッと光った時は熱かったと云っていました。当時、学校の授業はほとんどなく、みんな工場にいたらしいですが、月曜日の午前中だけは、勉強をしたい生徒が希望すれば授業を受けることができ、その日市内の校舎で授業を受けた女学生はやはり全員被曝して亡くなってしまったそうです。母は勉強が苦手で、その授業を希望しなかったことが運命の分かれ目になりました。

80歳代の祖父母と、大人になるかならないかの孫たちとは、普段なかなか接点がありませんが、祖父母が青春時代に体験した戦争の話には、痛く感じるところがあったようでした。86日、歴史に残ったこの日に、ひとつ間違っていれば、自分の存在すら無くなってたかもしれないわけですから。

そのあと食事して、その夜に感謝して、みんなでカラオケをやりました。

娘はなぜか中島みゆきを何曲か熱唱してました。息子はミスチルを唄い、じいさんは、小林旭の「昔の名前で出ています」を唄っていました。

選曲にはまったく接点ありませんでしたが、やはり。

2013年3月22日 (金)

歩くということ

この冬、年末年始のあたりに、どうも身体が重くなったかなあという自覚と、なんか身体が硬く曲がりにくくなったかなあという実感があり、また客観的にも、妻からの「ますます腹が出てきた」という警告と、娘から「おデブちゃん」とあだ名をつけられたことなど、まあ、どう考えても太ってきたわけです。

意を決して体重計に乗ってみれば、数字的現実が否応なく突き付けられます。

なんとかしなければ。

原因はわかりきっていて、不摂生と運動不足です。

運動不足で思い当たるのは、最近自転車通勤がちょっと億劫になっているのと、秋に大切なゴルフ友達を亡くしてしまってから、ゴルフのラウンドと練習がめっきり減っていることが考えられます。

で、よしっ、歩こうと思ったわけです。この体重で走るのは危険だし、O桑君やW辺君のようにフルマラソンを走るというのは目標が遠大過ぎて現実的でないし、ただ朝1時間ほど歩くのであれば何とかなりそうな気がしたんですね。それで、春になったら始めようなどと云ってると、結局やんなくなっちゃうことも、自分の性格上わかっていることなので、思いついた日の真冬のまだ雪が残っていた朝から始めてみたわけです。寒かったですけど。

でも、やってみると、意外に前向きに取り組めたんですね。

歩くコースということで云うと、わりと環境的に恵まれていて、私、杉並に住んでるんですけど、うちから神田川にも善福寺川にも5分で行くことができ、この二つの川の川沿いは整備された遊歩道になっていて緑も豊富なんですよ。

これを利用して、おおざっぱに4つの歩きコースができます。

神田川を西に行くコースは、環八を越えて久我山まで行って、久我山にいくつかある運動場の周りを通って帰ります。東に行くコースは、明大前の手前を北上し、大宮八幡宮の境内を抜けて善福寺緑地に出て帰ります。

善福寺川を西に行くコースは、桜並木をひたすら荻窪方面に行って、川の反対側の歩道を帰ってきます。東に行くコースは、和田掘公園を抜けて環七の手前から大宮中学のとなりのやたら大きなグランドを一周して帰ってきます。

どのコースもこれでだいたい1時間。1時間歩くとだいたい8,000歩から9,000歩くらいです。歩幅を測ってみると85cm前後なので、約67km歩くことになり、真冬でもみっちり汗をかきます。何か身体にはいいんじゃないかと思えるんですが、この程度ですぐに体重が減るほど甘くはないです。せいぜい増加を食い止めるくらいですが、まあ続けてみようと思ってます。

去年、会社で支給されたipad2で、ウォーキング用のBGMも編集しました。このところ聴いているのは、中島みゆきと浅川マキと和田アキ子と都はるみと加藤登紀子がはいった全51曲のロール、これちょっとすごいんですね。あと、ちあきなおみ全59曲というロールもあります。こういうお姉さまたちの唄には、なんかこう、みっちりと人生が詰まっております。

こういうの聴きながら、もくもくと無心に歩くんですね。

それから、歩き始めて1ヶ月くらいのころから桜のつぼみが膨らんできました。そのあと、今年は急速に暖かくなりあっという間に咲き始めたんです。あらためて思いますが、日本人て桜が好きなんですね。どのコースにも見事な桜がそこここにあります。早朝の陽の光にうかぶ桜は、ちょっと感動的にきれいです。若い頃、桜も早起きも大嫌いだったのに、変わるもんです。歳とったってことでしょうか。

朝、こうやって黙々と歩いていると、急に涙がハラハラと出てきてしまうことがあります。サングラスの下から出てきて止まらなくなります。理由はわかっていて、去年の晩秋から今年の冬にかけて、大事な仲間が急病で次々に4人逝ってしまいまして、かなりこたえていて、なにかのきっかけで急にこみあげてきてしまうんです。本当によくしてもらった人たちでしたから。朝の景色が日に日に春めいてくると、今年も元気でいたなら一緒に花見をしたりしたんじゃないかとか思っちまうわけです。春がきれいならきれいなぶん、切ないですね。Aruku3

寺山修司が愛した「花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生だ」などという詩を浮かべてみたりしますが、なかなか気持ちのおりあいはつきません。

やがて桜も散って、新緑になって、雨の季節が来て、蝉が鳴くのでしょうが、私の朝の散歩はいつまで続くでしょうか。

 

2013年2月 8日 (金)

冬景色

今年の冬は、のっけからすごい寒波で、1月には10何年ぶりの大雪が降ったかと思えば、たまに春のような日があったり、相変わらず東京の冬はいろいろな表情をします。いろいろな土地の冬を見てきましたが、やはり、長く暮らしている東京の冬が私にとっての冬です。

この自分にとっての東京の冬を、聴いたとたんに思い浮かべる曲があります。

これは、あくまで私の感じ方であって、誰でもということではないと思うのですけど。

1977年に出された荒井由実の4枚目のアルバムに入っている「さみしさのゆくえ」という唄です。

 

「さみしさのゆくえ」

さいはての国でくらす あなた帰って来たのは

おだやかな冬景色が なつかしかっただけなの?

どこかで会おうと言って 急に電話くれたのも

昔の仲間のゆくえ ききたかっただけなの?

悪ぶるわたししか知らず

あのとき 旅立って行った

お互い自分の淋しさを抱いて

それ以上は持てなかったの

こんなわたしでもいいと 言ってくれたひとこと

今も大切にしてる私を笑わないで

したいことをしてきたと 人は思っているけど

心の翳は誰にも わかるものじゃないから

悪ぶるわたししか知らず

あなたはまたすぐ行くけど

他人の淋しさなんて救えない

夕陽に翼を見送る

残った都会の光 見つめてたたずめば

そのときわたしの中で 何かが本当に終わる

 

Yuhi2_3 歌詞で冬のことを言っているのは、最初の2行だけなんですけど、この詩の背景になっている物語といい、メロディといい、編曲といい、聞くたびに東京の冬を想います。

ある女の子の、昔の恋人との再会と別れ、そして青春との決別。

というようなことなんですけど、そのあたりちょっと切なくて、浮かぶ風景はあくまで冬の東京です。

この曲が入ってるアルバムは、荒井由実さんが荒井さんとして出した最後の一枚で、1976年末には、結婚して松任谷さんになってるんですけど、このころ、22歳くらいなんですね。私もほとんどこの方と同い年なんですが、この当時、個人的にはあまり曲のこと知りませんでした。どちらかというと同世代の女性から圧倒的な支持をされてましたね。

それから今に至るまでの活躍は言うに及びませんが、荒井由実時代の3年間も、そのあと松任谷由実になってからも、このころ、いわゆるこの人の代表作が目白押しです。

20代の前半、結婚の前後、彼女はすでに天才の名をほしいままにしていました。

「さみしさのゆくえ」という曲は、10年くらい前にたまたま車でCD聴いてて出会ったんですけど、たぶん、荒井由実のたくさんの名曲の中では、それほど上位にはなかった曲かもしれません。しかし、詩も曲もこの人の作家性が溢れています。

あの頃、というと、この曲が作られ、荒井さんが松任谷さんになって新婚の頃ですけど、私はある仕事で、毎年真冬の北国に2週間くらい行っているのが習慣になっていました。10年ほど続いたと思います。

雪の中、磐梯山からの吹き下ろしで、飛ばされないように斜めになってこらえながら畦道を行く幼稚園児たちや、一晩に1メートルの積雪で、景色が一変してしまった富山の山間の村や、地吹雪で一瞬にして視界から消えた富良野の馬たちや。今までに見たこともない北国の風景のあとに、帰りついた東京の冬は、ほんとうにおだやかな冬景色でした。あの頃この曲を聴いてたら、もっと沁みたかもしれません。

でも、最初に聞いてからずっと忘れない曲になりましたから、きっと私の記憶の何かにグサッと刺さったんだと思いますね。音楽と人の関係ってそういうとこありますよね。

 

2013年1月23日 (水)

「想い出づくり。」と「北の国から」と「幸福」というテレビドラマ

年末に会社のF井さんから、「お正月休みにどうぞ」と云われて、DVDのセットを貸していただいたんですが、これ、前から是非みたかったもので、1981年にTBSで毎週金曜の10:00から放送されておった「想い出づくり。」というドラマでして、当時大変評判になったものです。このF井さんという人は、こういう歴史的に重要なドラマなどのDVDを手に入れては貸して下さる、非常にありがたい方なんです。

シナリオは山田太一さんが書かれていて、かなり昔に読んで、すごく面白かったのを覚えています。放送された当初も、山田さんはすでに「それぞれの秋」や「岸辺のアルバム」や「男たちの旅路」などを書かれた有名な脚本家であり、このドラマは放送開始から話題になっていたようです。

ただ当時、私はこのドラマを一度も観ていないんですね。それは、仕事が忙しかったこともあるんですが、金曜の10:00といえば、フジテレビの「北の国から」を観ていたからなんです。たいてい街はずれの飲み屋やラーメン屋のテレビで仲間と観てたと思いますが。

こちらのシナリオを書かれているのは倉本聰さんで、この方もすでに「2丁目3番地」や「前略おふくろ様」や「うちのホンカン」を書かれ、大河ドラマも書かれていて、いわゆる脂の乗り切った頃でした。



TV金曜10:00は、年齢も同じこの二人の売れっ子脚本家の対決となったのですね。ビデオ録画などできなかったこの頃、どちらを見るか迷った人も多かったと思います。調べてみると、「想い出づくり。」は1981年9月18日放送開始で、少しあとの10月9日から始まった「北の国から」は地味な作りでもあり苦戦していましたが、徐々に巻き返していきます。その後、「想い出づくり。」は1クールで先に最終回を迎えたこともあり、このあと2クール目に入った「北の国から」には、一気に火がつき、その後スペシャルドラマとなって、主人公の純と蛍の成長を追いながら21年間続く大ヒットシリーズとなります。

何となく覚えているのは、「北の国から」という作品は、長期ロケで制作費のかかる大作で、先行して盛り上げる意味もあって、脚本を先に出版してたと思うんですね。私はついつい先に脚本を買ってしまい、なんだか仕事で移動中の飛行機でシナリオ読んでたら、ちょうど別れたお母さん役のいしだあゆみの乗った機関車を、小学2年生の蛍が全力で追っかけるクライマックスで、こらえきれずにおいおい泣いてたら、スチュアーデスさんが、おしぼり持ってきてくれたことがありました。

そんなふうに、こっちにはまっていたので、当時「想い出づくり。」のことは、よく知らなかったんですけど、その後出版されたシナリオを読んで、やっぱり山田さんの脚本は面白いなあと思いました。キャスティングも興味深かったです。主役の3人は、森昌子、古手川祐子、田中裕子でした。脇役では佐藤慶と加藤健一も良かった。



Omoide1そもそも山田さんが何故この話を書こうと思ったかと云うと、その頃、桂文珍が落語で、女の人はクリスマスケーキと同じで、25過ぎると売れなくなるというのを枕で使って笑いを取っていて、ご自身に適齢期前の娘さんが二人いらしたこともあって、それをすごく不愉快に思ったことがきっかけだったそうです。

今と違って、当時の20代前半の女性にとって、将来の選択は平凡な結婚というのが常識的でした。そういう世の中の空気に反発して、結婚前の24歳の女性を主人公に、彼女たちのそれぞれの家族を含めた群像劇の中で、現実から一歩踏み出そうとする娘たちの物語を書きたかったんだそうです。そして、この全員主役の群像劇のスタイルは、その後「ふぞろいの林檎たち」へ踏襲されていきます。

これは山田さん本人が言われてるんですけど、テレビドラマの脚本て、かなり個人的な思いが強くないとだめなんじゃないか、合議制とかじゃなく、個人の気持ちから作られたものの中にしかほんとの名作はないんじゃないかと。

「北の国から」も、倉本さん一人の頭の中で起こった話です。ご自身で移り住まれた北海道での生活や体験も大きいですし、物語の骨格もキャストのイメージも一人の作家の中から紡ぎだされています。

企画会議とやらを重ねて、最近の流行りとか、視聴者の好みを探ったり、今当たっているコミックスの傾向を話し合ったり、なんならコミックスそのままドラマ化しようかとか、大勢で集まって揉んでみても新しいものは生まれません。やればやるほど中身は平均化して、ありきたりなものになっていきます。

表現というのは、誰か個人から発せられて、個人に届くから面白いわけで、よってたかって作るのはいいけど、基本的なアイデアはきわめて個人的なものでなければつまらないものです。例外はあるでしょうけど、多くの場合そういうものです。

この1981年の夏、あの向田邦子さんが飛行機事故で亡くなっています。51歳でした。その前年の1980年の夏から秋にかけて、金曜日の10:00TBSでは、向田さんの連続ドラマとしては最後の作品となった「幸福」が放送されていました。しばらくあとに再放送を観ましたが、本当によくできた向田さんならではの大人のドラマです。どう考えても、会議室で生まれたドラマではありませんでした。

こんなことを書いてたら、どうしてももう一度観たくなって、実は先日このDVDを入手してしまいました。

こういうことは癖になりますなあ。

 

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