2013年4月 2日 (火)

春、家族、旅

この春、久しぶりに家族で旅行したんですが、4人そろって旅したのって、いつ以来だったか、すぐに思い出せないくらいなんですね。子供も大きくなると、それなりに自分の都合で忙しくしてるし、親と一緒に行動しなくなりますから。

ただ、この春に上の娘は就職して社会人になることになり、下の息子も高校卒業して大学行くことになって、そういえば、しばらく広島の祖父母にも顔見せていないなということがあり、そろって帰郷したわけです。

私と妻は同郷でして、妻の父は7年前に、母は4年前に他界いたしましたので、こちらの祖父母へは、お墓参りをして、就職と進学の報告をし、伯父伯母にも久しぶりに顔を見せることができました。また、私の方の父母は、おかげさまで、まずまず元気にしておりまして、しばらくぶりに孫に会えるのを楽しみにしておりました。

広島に着いて1日目はお墓参りをして、2日目は九州の太宰府へ向かいます。孫が受験するときには、祖父母が学問の神様である太宰府天満宮へお参りに行ってくれており、まあ今回はそれのお礼参りということになります。

広島から博多は新幹線でほぼ1時間、そこから太宰府までが20分くらいなので、ちょっとした小旅行です。その日はお参りをすませた後、父母がこちらに来た時に何度か泊まったことのある温泉宿にお世話になることにしました。古いけどなかなか良い宿で、みんなで温泉に浸かってゆっくりすることができました。

夕食の前に、私の父母が子供たちにお祝いを渡してくれたんですけど、そのときにある話をしてくれたんですね。

父は昭和3年生まれの84歳、母は昭和4年生まれの83歳です。

二人ともさすがに高齢で、足腰も弱くなっており、ペースメーカーが入っていたりもして、かなりゆっくりしか歩くことができないんですが、でも、なんとかこうやって孫たちと旅ができたことは、本当に嬉しいことだと云いました。そして、80歳を越えて生きていられることはありがたいことですが、これもいろいろな偶然の積み重ねなんだと云いました。

それから、昭和20年の8月6日の話をしてくれました。

Genbakudomu_3 その時、父は17歳、母は16歳です。二人とも広島に住んでいました。この日は、月曜日だったそうです。父は広島の旧制高等学校の学生で、学校の寮にいて、その朝早く広島市内に用事があってバス停に並んでいたら、バスが満員で乗り切れなくて、仕方なく反対方向のバスに乗って実家に向かったそうです。実家に着いて少ししてから、原爆が炸裂しました。実家の窓ガラスは全部割れたそうですが、爆心地から10km離れていたので、命は助かりました。後から、父が乗れなくてあきらめたバスに乗った方たちは全員亡くなったことがわかったそうです。

母は女学校の生徒でしたが、広島市のはずれの工場に動員されて、そこで武器や軍服などを作っていたそうです。でも爆弾がピカッと光った時は熱かったと云っていました。当時、学校の授業はほとんどなく、みんな工場にいたらしいですが、月曜日の午前中だけは、勉強をしたい生徒が希望すれば授業を受けることができ、その日市内の校舎で授業を受けた女学生はやはり全員被曝して亡くなってしまったそうです。母は勉強が苦手で、その授業を希望しなかったことが運命の分かれ目になりました。

80歳代の祖父母と、大人になるかならないかの孫たちとは、普段なかなか接点がありませんが、祖父母が青春時代に体験した戦争の話には、痛く感じるところがあったようでした。86日、歴史に残ったこの日に、ひとつ間違っていれば、自分の存在すら無くなってたかもしれないわけですから。

そのあと食事して、その夜に感謝して、みんなでカラオケをやりました。

娘はなぜか中島みゆきを何曲か熱唱してました。息子はミスチルを唄い、じいさんは、小林旭の「昔の名前で出ています」を唄っていました。

選曲にはまったく接点ありませんでしたが、やはり。

2013年3月22日 (金)

歩くということ

この冬、年末年始のあたりに、どうも身体が重くなったかなあという自覚と、なんか身体が硬く曲がりにくくなったかなあという実感があり、また客観的にも、妻からの「ますます腹が出てきた」という警告と、娘から「おデブちゃん」とあだ名をつけられたことなど、まあ、どう考えても太ってきたわけです。

意を決して体重計に乗ってみれば、数字的現実が否応なく突き付けられます。

なんとかしなければ。

原因はわかりきっていて、不摂生と運動不足です。

運動不足で思い当たるのは、最近自転車通勤がちょっと億劫になっているのと、秋に大切なゴルフ友達を亡くしてしまってから、ゴルフのラウンドと練習がめっきり減っていることが考えられます。

で、よしっ、歩こうと思ったわけです。この体重で走るのは危険だし、O桑君やW辺君のようにフルマラソンを走るというのは目標が遠大過ぎて現実的でないし、ただ朝1時間ほど歩くのであれば何とかなりそうな気がしたんですね。それで、春になったら始めようなどと云ってると、結局やんなくなっちゃうことも、自分の性格上わかっていることなので、思いついた日の真冬のまだ雪が残っていた朝から始めてみたわけです。寒かったですけど。

でも、やってみると、意外に前向きに取り組めたんですね。

歩くコースということで云うと、わりと環境的に恵まれていて、私、杉並に住んでるんですけど、うちから神田川にも善福寺川にも5分で行くことができ、この二つの川の川沿いは整備された遊歩道になっていて緑も豊富なんですよ。

これを利用して、おおざっぱに4つの歩きコースができます。

神田川を西に行くコースは、環八を越えて久我山まで行って、久我山にいくつかある運動場の周りを通って帰ります。東に行くコースは、明大前の手前を北上し、大宮八幡宮の境内を抜けて善福寺緑地に出て帰ります。

善福寺川を西に行くコースは、桜並木をひたすら荻窪方面に行って、川の反対側の歩道を帰ってきます。東に行くコースは、和田掘公園を抜けて環七の手前から大宮中学のとなりのやたら大きなグランドを一周して帰ってきます。

どのコースもこれでだいたい1時間。1時間歩くとだいたい8,000歩から9,000歩くらいです。歩幅を測ってみると85cm前後なので、約67km歩くことになり、真冬でもみっちり汗をかきます。何か身体にはいいんじゃないかと思えるんですが、この程度ですぐに体重が減るほど甘くはないです。せいぜい増加を食い止めるくらいですが、まあ続けてみようと思ってます。

去年、会社で支給されたipad2で、ウォーキング用のBGMも編集しました。このところ聴いているのは、中島みゆきと浅川マキと和田アキ子と都はるみと加藤登紀子がはいった全51曲のロール、これちょっとすごいんですね。あと、ちあきなおみ全59曲というロールもあります。こういうお姉さまたちの唄には、なんかこう、みっちりと人生が詰まっております。

こういうの聴きながら、もくもくと無心に歩くんですね。

それから、歩き始めて1ヶ月くらいのころから桜のつぼみが膨らんできました。そのあと、今年は急速に暖かくなりあっという間に咲き始めたんです。あらためて思いますが、日本人て桜が好きなんですね。どのコースにも見事な桜がそこここにあります。早朝の陽の光にうかぶ桜は、ちょっと感動的にきれいです。若い頃、桜も早起きも大嫌いだったのに、変わるもんです。歳とったってことでしょうか。

朝、こうやって黙々と歩いていると、急に涙がハラハラと出てきてしまうことがあります。サングラスの下から出てきて止まらなくなります。理由はわかっていて、去年の晩秋から今年の冬にかけて、大事な仲間が急病で次々に4人逝ってしまいまして、かなりこたえていて、なにかのきっかけで急にこみあげてきてしまうんです。本当によくしてもらった人たちでしたから。朝の景色が日に日に春めいてくると、今年も元気でいたなら一緒に花見をしたりしたんじゃないかとか思っちまうわけです。春がきれいならきれいなぶん、切ないですね。Aruku3

寺山修司が愛した「花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生だ」などという詩を浮かべてみたりしますが、なかなか気持ちのおりあいはつきません。

やがて桜も散って、新緑になって、雨の季節が来て、蝉が鳴くのでしょうが、私の朝の散歩はいつまで続くでしょうか。

 

2013年2月 8日 (金)

冬景色

今年の冬は、のっけからすごい寒波で、1月には10何年ぶりの大雪が降ったかと思えば、たまに春のような日があったり、相変わらず東京の冬はいろいろな表情をします。いろいろな土地の冬を見てきましたが、やはり、長く暮らしている東京の冬が私にとっての冬です。

この自分にとっての東京の冬を、聴いたとたんに思い浮かべる曲があります。

これは、あくまで私の感じ方であって、誰でもということではないと思うのですけど。

1977年に出された荒井由実の4枚目のアルバムに入っている「さみしさのゆくえ」という唄です。

 

「さみしさのゆくえ」

さいはての国でくらす あなた帰って来たのは

おだやかな冬景色が なつかしかっただけなの?

どこかで会おうと言って 急に電話くれたのも

昔の仲間のゆくえ ききたかっただけなの?

悪ぶるわたししか知らず

あのとき 旅立って行った

お互い自分の淋しさを抱いて

それ以上は持てなかったの

こんなわたしでもいいと 言ってくれたひとこと

今も大切にしてる私を笑わないで

したいことをしてきたと 人は思っているけど

心の翳は誰にも わかるものじゃないから

悪ぶるわたししか知らず

あなたはまたすぐ行くけど

他人の淋しさなんて救えない

夕陽に翼を見送る

残った都会の光 見つめてたたずめば

そのときわたしの中で 何かが本当に終わる

 

Yuhi2_3 歌詞で冬のことを言っているのは、最初の2行だけなんですけど、この詩の背景になっている物語といい、メロディといい、編曲といい、聞くたびに東京の冬を想います。

ある女の子の、昔の恋人との再会と別れ、そして青春との決別。

というようなことなんですけど、そのあたりちょっと切なくて、浮かぶ風景はあくまで冬の東京です。

この曲が入ってるアルバムは、荒井由実さんが荒井さんとして出した最後の一枚で、1976年末には、結婚して松任谷さんになってるんですけど、このころ、22歳くらいなんですね。私もほとんどこの方と同い年なんですが、この当時、個人的にはあまり曲のこと知りませんでした。どちらかというと同世代の女性から圧倒的な支持をされてましたね。

それから今に至るまでの活躍は言うに及びませんが、荒井由実時代の3年間も、そのあと松任谷由実になってからも、このころ、いわゆるこの人の代表作が目白押しです。

20代の前半、結婚の前後、彼女はすでに天才の名をほしいままにしていました。

「さみしさのゆくえ」という曲は、10年くらい前にたまたま車でCD聴いてて出会ったんですけど、たぶん、荒井由実のたくさんの名曲の中では、それほど上位にはなかった曲かもしれません。しかし、詩も曲もこの人の作家性が溢れています。

あの頃、というと、この曲が作られ、荒井さんが松任谷さんになって新婚の頃ですけど、私はある仕事で、毎年真冬の北国に2週間くらい行っているのが習慣になっていました。10年ほど続いたと思います。

雪の中、磐梯山からの吹き下ろしで、飛ばされないように斜めになってこらえながら畦道を行く幼稚園児たちや、一晩に1メートルの積雪で、景色が一変してしまった富山の山間の村や、地吹雪で一瞬にして視界から消えた富良野の馬たちや。今までに見たこともない北国の風景のあとに、帰りついた東京の冬は、ほんとうにおだやかな冬景色でした。あの頃この曲を聴いてたら、もっと沁みたかもしれません。

でも、最初に聞いてからずっと忘れない曲になりましたから、きっと私の記憶の何かにグサッと刺さったんだと思いますね。音楽と人の関係ってそういうとこありますよね。

 

2013年1月23日 (水)

「想い出づくり。」と「北の国から」と「幸福」というテレビドラマ

年末に会社のF井さんから、「お正月休みにどうぞ」と云われて、DVDのセットを貸していただいたんですが、これ、前から是非みたかったもので、1981年にTBSで毎週金曜の10:00から放送されておった「想い出づくり。」というドラマでして、当時大変評判になったものです。このF井さんという人は、こういう歴史的に重要なドラマなどのDVDを手に入れては貸して下さる、非常にありがたい方なんです。

シナリオは山田太一さんが書かれていて、かなり昔に読んで、すごく面白かったのを覚えています。放送された当初も、山田さんはすでに「それぞれの秋」や「岸辺のアルバム」や「男たちの旅路」などを書かれた有名な脚本家であり、このドラマは放送開始から話題になっていたようです。

ただ当時、私はこのドラマを一度も観ていないんですね。それは、仕事が忙しかったこともあるんですが、金曜の10:00といえば、フジテレビの「北の国から」を観ていたからなんです。たいてい街はずれの飲み屋やラーメン屋のテレビで仲間と観てたと思いますが。

こちらのシナリオを書かれているのは倉本聰さんで、この方もすでに「2丁目3番地」や「前略おふくろ様」や「うちのホンカン」を書かれ、大河ドラマも書かれていて、いわゆる脂の乗り切った頃でした。



TV金曜10:00は、年齢も同じこの二人の売れっ子脚本家の対決となったのですね。ビデオ録画などできなかったこの頃、どちらを見るか迷った人も多かったと思います。調べてみると、「想い出づくり。」は1981年9月18日放送開始で、少しあとの10月9日から始まった「北の国から」は地味な作りでもあり苦戦していましたが、徐々に巻き返していきます。その後、「想い出づくり。」は1クールで先に最終回を迎えたこともあり、このあと2クール目に入った「北の国から」には、一気に火がつき、その後スペシャルドラマとなって、主人公の純と蛍の成長を追いながら21年間続く大ヒットシリーズとなります。

何となく覚えているのは、「北の国から」という作品は、長期ロケで制作費のかかる大作で、先行して盛り上げる意味もあって、脚本を先に出版してたと思うんですね。私はついつい先に脚本を買ってしまい、なんだか仕事で移動中の飛行機でシナリオ読んでたら、ちょうど別れたお母さん役のいしだあゆみの乗った機関車を、小学2年生の蛍が全力で追っかけるクライマックスで、こらえきれずにおいおい泣いてたら、スチュアーデスさんが、おしぼり持ってきてくれたことがありました。

そんなふうに、こっちにはまっていたので、当時「想い出づくり。」のことは、よく知らなかったんですけど、その後出版されたシナリオを読んで、やっぱり山田さんの脚本は面白いなあと思いました。キャスティングも興味深かったです。主役の3人は、森昌子、古手川祐子、田中裕子でした。脇役では佐藤慶と加藤健一も良かった。



Omoide1そもそも山田さんが何故この話を書こうと思ったかと云うと、その頃、桂文珍が落語で、女の人はクリスマスケーキと同じで、25過ぎると売れなくなるというのを枕で使って笑いを取っていて、ご自身に適齢期前の娘さんが二人いらしたこともあって、それをすごく不愉快に思ったことがきっかけだったそうです。

今と違って、当時の20代前半の女性にとって、将来の選択は平凡な結婚というのが常識的でした。そういう世の中の空気に反発して、結婚前の24歳の女性を主人公に、彼女たちのそれぞれの家族を含めた群像劇の中で、現実から一歩踏み出そうとする娘たちの物語を書きたかったんだそうです。そして、この全員主役の群像劇のスタイルは、その後「ふぞろいの林檎たち」へ踏襲されていきます。

これは山田さん本人が言われてるんですけど、テレビドラマの脚本て、かなり個人的な思いが強くないとだめなんじゃないか、合議制とかじゃなく、個人の気持ちから作られたものの中にしかほんとの名作はないんじゃないかと。

「北の国から」も、倉本さん一人の頭の中で起こった話です。ご自身で移り住まれた北海道での生活や体験も大きいですし、物語の骨格もキャストのイメージも一人の作家の中から紡ぎだされています。

企画会議とやらを重ねて、最近の流行りとか、視聴者の好みを探ったり、今当たっているコミックスの傾向を話し合ったり、なんならコミックスそのままドラマ化しようかとか、大勢で集まって揉んでみても新しいものは生まれません。やればやるほど中身は平均化して、ありきたりなものになっていきます。

表現というのは、誰か個人から発せられて、個人に届くから面白いわけで、よってたかって作るのはいいけど、基本的なアイデアはきわめて個人的なものでなければつまらないものです。例外はあるでしょうけど、多くの場合そういうものです。

この1981年の夏、あの向田邦子さんが飛行機事故で亡くなっています。51歳でした。その前年の1980年の夏から秋にかけて、金曜日の10:00TBSでは、向田さんの連続ドラマとしては最後の作品となった「幸福」が放送されていました。しばらくあとに再放送を観ましたが、本当によくできた向田さんならではの大人のドラマです。どう考えても、会議室で生まれたドラマではありませんでした。

こんなことを書いてたら、どうしてももう一度観たくなって、実は先日このDVDを入手してしまいました。

こういうことは癖になりますなあ。

 

2012年12月19日 (水)

ハトヤホテル社員旅行

3年ほど前に、社員旅行キャンプというのをやって、それ以来、社員旅行というものをしてなかったんですが、そろそろやろうかという話になり。

行ってきました3年ぶりの社員旅行。キャンプが2回続いていたので、ふつうに旅館に泊まる社員旅行は、実に6年ぶりで、今回が初めてという若い社員もけっこうおります。どうしてこんなに長く社員旅行ができなかったかというと、忙しかったこともあるんですが、だんだんに社員の数が増えたことによって、全員のスケジュール調整が難しくなり、何とか全員参加でやろうとするたびに、延期を繰り返してきたからでした。

そこで、今回は全員参加できなくても決行すること。遅れても後から参加できる関東近郊で、2泊の温泉旅行とすることにしました。

で、どうせならみんなで浴衣着て、昭和の典型的な、お座敷宴会社員旅行にしようということになったのです。

そこで幹事団が選んだ場所が、伊東温泉ハトヤホテルでした。うーん確かにコンセプトには、合っています。そして宴会の企画は、紅白歌合戦です。うーん確かにこれ以上ないベタな企画です。

でもこれが、盛り上がったんですねえ。長く行われなかった社員旅行というものに、皆飢えていたのでしょうか。仕事が忙しい中、歌の練習も振り付けも完璧です。こういうことになると、絶対手を抜かないんですね、この会社の人たち。

唄以外にも様々な芸が繰り出され、旅館の仲居さんたちにも大うけで、その勢いのままハトヤカラオケバーに移動して、歌と踊りが続きました。そのお店が閉店になった後は、部屋に戻って飲み、ギターで唄い、そこが落ち着くと、タクシーで夜の街のラーメン屋に向かう一団となり、少しずつ人数は減りますが、主力は朝までコースです。

Hatoyaなんというか、あきれるばかりのエネルギー。翌朝早めに出発したので、朝の各部屋をのぞきましたが、大半が死んだように寝ております。おおよそ慰労とか慰安とは、ほど遠い社員旅行と相成りました。

考えてみれば、自分が若かったころの昭和の社員旅行というのは、だいたいこういうパターンでしたが、最近こういった風景は、あまり見かけなくなりました。多分若い人にとってはけっこう新鮮で、たいていの人は初体験だったんではないでしょうか。

それに、このハトヤホテルというところが、昭和という時代のテーマパークのようなところなんですね。とにかく何でもサイズがデカくて、ロビーも宴会場も食堂も風呂場も脱衣場も卓球場もカラオケバーも廊下も客室も、子供が全力で走れる広さです。

おそらく昭和の高度成長のころ作られ、たくさんの社員旅行がここで行われ、そしてたくさんの家族がここを訪れたんだと思いました。そういえば、あの頃テレビでは、ふつうにハトヤホテルのTVCMが流れていて、コマソン今でも覚えてますものね。

♪伊東に行くならハトヤ 電話は4126(よい風呂)♪

(野坂昭如 作詞 いずみたく作曲)

いや、今もご健在で何よりでした。

チェックアウトしてホテルを出ようとしたら、担当ホテルマンの方と、女性の事務員の方が駆け寄ってこられまして、この女性社員の方は、昨夜の宴会で仲居さんをしてくださり、うちの社員のしょうもない芸を見て転がって笑ってくださってたのですが、

「この度は、誠にありがとうございました。来年も是非皆様でお越しください。」

と、これ以上なくご丁寧なあいさつをいただき、ややたじろぎましたが、

みんなで、浴衣着て、温泉入って、宴会やって、こういうコミュニケーションもたまにはいいもんでありました。エネルギー使い切りますけど。

 

 

 

2012年11月29日 (木)

心が残るということ

人の縁とは不思議なもので、ある時深くかかわると思えば、疎遠になったり、また近づいたり、好きになったり嫌いになったり。そして、突然の別れがやってきたり。

先日、大切な友を失くしました。54歳でした。

知り合ったのは、30年も前、彼は四つ年下で、新入社員として私の働いていた会社に入ってきました。ちょっと面白い奴でしたが、数年して彼は会社を辞め、その後、私も会社を辞め、しばらく会っていなかったのですが、ひょんなことから、この数年付き合いが再開し、今度はすごい勢いで接近し、しょっちゅう一緒にいるようになりました。

彼も私も年相応に変わったかもしれないけど、昔とは関係がまた違って、なんだか気が合って、4歳違いの兄弟ができたようでした。

でもこの秋、思いもかけぬ別れがやってきました。急病で入院して、何をする間もなく、逝ってしまいました。まだ実感がありません。

こたえました。

運命とでもいうのか、何かの力が人を近づけたり離したり、突然連れ去ったりしているのでしょうか。悲しくていろいろなことを考えさせられて、まだどうやって気持ちの折り合いをつけていいのかわからぬままです。

昨夜、彼を偲ぶ会が行われて、私は司会をすることになり、彼に何かを語らねばと思い手紙を書きましたが、でも、その場で手紙を読むことはできませんでした。彼の二人の息子が、お父さんを語ったところから、私は涙で何もしゃべれなくなったんですね。弟分のヒロシは、清書した手紙を9分もかけてきちんと読んだのに…立派でした。

手紙は彼の奥さんにお渡ししました。

 

 

以下、ちょっと長い手紙です。

 

いまだに君の不在に、何の実感ももてず、受けいれることできずにいます。

いい年をして、いつまでもこんなことを言っている自分をどうしようもなく、そのような気持ちのまま、今夜は、君を偲ぶ会の司会をさせていただくことになりました。

君が大好きだったゴルフを、この数年間は、たぶん最も一緒にプレイしたと思われるので、・・・・・・・、私がやらせていただきます。

君のゴルフは筋金入りでしたね。時間をかけて、それこそきちんと鍛錬し研究して身につけたもので、本当にゴルフというものに対しての造詣が深かったし、全くほれぼれする球筋でした。

プレイのスタイルもファッションもかっこよかった。

何に対しても、興味があることにはきちんと向き合う人でしたよね。

何年か前に、ひょんなことから君とゴルフをやるようになった私はといえば、ゴルフというものに対していい加減で、どうやって取り組んだらよいのかも、分かってない人でした。

でも、君を通して知るゴルフは本当に面白くて、いつの間にか本気でやるようになり、君と君の先生でもあるヒロシプロの特訓を受けて、毎回、目からうろこが落ちる気がしたものです。

結局のところ、100のあたりを行ったり来たりで、君の大のゴルフ友達というにはちょっと恥ずかしくて、君にも悪い気がするのですが、ほんとによく一緒にゴルフをしました。

ただ、よく考えてみると、ゴルフは口実でもあり、私は君に会いたかったんだと思います。

君とゴルフをしながら、つまらない冗談を言って笑ったり、仕事や家族や友達の話をしたり、また次のゴルフの相談をしたりする時間が、私は大好きでした。

きっと君の人柄なんだと思います。

ゴルフの連絡は、いつもメールできましたが、そのたびに顔がゆるみました。君は酒が飲めないのに、一緒に飯食ってるとほんとに楽しかったし、いろいろ旅行にも行きました。君の仲間ともたくさん友達になれました。

本当に世話になりました。

 

ところで、君と初めて出会ったのは、間違ってなければ、1981年の春でした。君が初めて就職した会社に、すでに先輩として私がいたわけで、ずいぶん昔の話ですね。一緒に仕事もしたけれど、君は湘南のサーファーで、波のいい日には波に乗ってから出社するような奴で、私は、毎晩どこかのバーで突っ伏して寝てるような奴だったから、あんまり接点なかったし、そのうちに君は会社辞めて、湘南に帰って事業を始めたから、しばらくご無沙汰していました。

でも、縁というものはつながってて、私にとって、6歳年上の兄のような先輩が二人いるのですが、この二人が昔から仲良くて、15年ほど前に、湘南の君の家のすぐ近くに住み始めたんですね。コーちゃんと、ヤマちゃんですが。

そしてこの二人が、まさに君の10歳年上の双子の兄のような存在になりました。

ほんとに仲良しで、笑いが絶えなくて、わたしはたまに3人を見かけると、

「よっ、湘南三バカトリオ!」などと言っておりましたよ。

君も、「ほんとにしょうがない人たちですよね。」などとぼやきながら、

ほんとに兄さんのように思ってたと思います。

私も君のゴルフの弟子みたいになってからは、よく湘南にも行くようになって、四バカカルテットみたいになって、私、一人っ子だから男兄弟ができたみたいで嬉しかったんですね。

君は、仕事でも地元でもほんとに頼もしいリーダーだったから、気持ちのいい後輩たちがたくさん集まっていて、いつもにぎやかでした。

こんな時間がずっと続くことに、何の疑いもなかったですね。

 

急いで逝ってしまったから、心残りのことも多かったと思うけど、私でよかったらいつでも話しかけてほしい。

君からもらったものは、ずっと大切にしていきます。

ほんとに、いろいろありがとう。 Kazumi

 

 

 

 

 

2012年10月17日 (水)

最強のふたりが、Like someone in loveで、北のカナリアたちだった

このところ、なかなか映画を観る時間がなくって、しばらく映画館に行かなかったと思ったら、ここにきて3本続けて観ることになり、これがまた、それぞれに種類は違うのだけれど、すごくよく出来た映画だったんです。

「最強のふたり」は、私のまわりで実によく映画を観ている友人がそろって、すでに今年のベストワンだと言うだけあって、久しぶりにとても良いフランス映画をみせていただきました。

この最強のふたりの人生には、それぞれすごく重いものを抱えているのだけど、最強のエスプリとユーモアでそれを乗り越えてしまう爽快感と、ただ気持ちがいいだけではない深さがあります。ふたりのキャスティングは実にすばらしく、これからもとても気になる俳優たちで、また、この話が実話であるということも、読後感をより深いものにしました。

当初それほど多くなかった上映館も、途中からどんどん増えていったようで、観客というものは正直で、いい映画がかかれば、口コミでどんどん映画館にやってくるものなんだなあと思いました。

私が観たのは、新宿の武蔵野館だったんですけど、そこで同時にかかっていたのが、

「Like someone in love」で、これは会社のF井さんに、絶対に観るべきだと強く薦められたので観たんですが、(この人に薦められるとわりと観てしまうんですけど)これはこれでとても面白かったのです。

監督脚本がイランの名監督アッバス・キアロスタミなんですけど、この人が日本で日本の俳優とスタッフを使って撮ったもので、ともかく驚くのが、本当に現代の日本をよく捉えていて、おまけにこれ、3人の日本人の会話劇でもあって、イランの人がよく脚本書いて演出してるなっていうところなんです。

観客は日本の日常の中をゆっくりとすすんでいくお話に、なんとなく付き合っているうちに、気がつくとこの監督が作りあげた世界にすっかり連れて行かれた感じがするんですね。この3人の出演者、おじいさんと、若い男と女なんですが、実に造形が見事でリアルなんです。ほんとにこの監督、外国人なんだろうか。だいたい加瀬亮とかにどうやって演出してるんだろうか。でも、俳優はものすごく理解してやってるように見えるし、映画という共通言語は、天才にかかると簡単に国境を越えてしまうのですね。びっくりしました。

それともう一本、これは邦画なんですが、11月に公開予定の「北のカナリアたち」の完成試写会で、できたての初号を見せていただきました。あまり予備知識もなく、油断してたわけではないのですが、ともかく号泣してしまった。後半からラストに向かって、もうどうしようもなく涙が止まりません。最近、歳とって涙もろくはなっているのですが、そういうことではなく、いや、泣きましたよ。ひさしぶりに。

スタッフもキャストも本当によい仕事をされてるんですが、順番に行きますね。

侮ってたわけじゃないんですけど、阪本順治監督はやはりいい監督さんです。この方にはたくさん名作があって、個人的には「どついたるねん」「顔」、昨年の原田芳雄さんの遺作となった「大鹿村騒動記」など好きなんですが、この「北のカナリアたち」も、きっと代表作になると思います。

映画の中で6人の若者たちと、彼らの子供時代の話が行ったり来たりするので、子供のシーンがたくさんあるんですけど、子役の使い方がうまい監督さんなんですね。自論ですけど、名監督って昔から子供のシーンがうまいんですね。





Moriyamamiraiそして、この6人の若者を演じた役者さんたちが皆よかったです。現代日本を代表する頼もしい俳優さんたちです。TVドラマもよいけど、これからは映画にたくさん出てほしいなと思ったのです、おじさんは。

登場順、森山未来、満島ひかり、勝地涼、宮崎あおい、小池栄子、松田龍平、以上。

そして忘れてはならないのが、主演女優のわれらがこの方、この方がいらしたからこの映画はつくられたわけですから。映画の中では、この6人の子供時代の小学校の先生の役で、40歳と20年後の60歳を演じておられます。かつてこの国を代表するアイドルであったこの方の実年齢を、私達観客は知っているだけに、その姿と演技には心打たれます。氷点下-30℃のロケ地での撮影。海を泳いだり、煙突のはしごを駈けのぼったり、本当にこの方はおいくつだったんだっけかと思いました、ほんとに。

キャメラマンの木村大作さんが初めて阪本監督と組んだことも、映画の完成度を上げました。木村さんの大自然の映像には定評があり、今回の雪・海・島の風景も見事です。余談ですけど、あの高倉健さんが雪の中で立っている風景はほとんど木村大作さんがお撮りになってます。それと、ご自身で監督をおやりになるほど映画を知り尽くした方なので、時間軸と人間関係が入り乱れたこの複雑なお話を、非常に分かりやすくしているのは、木村さんと阪本さんによるところが大きいと思われます。

いろんな意味で超大作ですし、情報過多の傾向はあり、つっこみ所がないわけじゃないんですけど、そんなことはどうでもよいほど、観てる方は引っ張り込まれ最後は鼻をすすることになります。お見事なんじゃないでしょうか。はい。

 

久しぶりに続けて映画館で観た3本は、つまり、あたりでした。

こういうことがあると、また映画館に足が向きますね。そういうもんです。

 


2012年9月 5日 (水)

オモダカヤッ!

市川亀治郎という歌舞伎役者を、はじめて見たのは、いつ頃だったか。まだ声変りもしていない子供だったし、この人は生まれが1975年なので、1980年代の前半だった気がします。

そのころ、マイブームというか、仕事仲間のNヤマユキオ、Nヤマサチコ夫妻や、先輩のY田さんたちといっしょに、市川猿之助の大ファンとなり、たしかNヤマサチコさんは「澤瀉会」(おもだかかい)にはいって、皆のチケットを取ってくれてた気がしますが、ともかく市川猿之助の歌舞伎公演は全部観ておりました。

いや、本当に面白かったのですよ。猿之助という人は、役者として、比べようもなくすばらしいのだけど、演出家としてもすぐれた人で、明治以後、疎まれた外連(けれん)を復活させたり、外連とは早替わりや宙乗りのことを云うのですが、他に古典劇を復活したり再創造したり、いわゆる当時の由緒正しい歌舞伎の世界では、ニューウェーブというか、アバンギャルドで、私達は大いに支持してたわけです。

昔ながらの歌舞伎という文化に触れながら、この経験は、相当に楽しかったんですね。

その猿之助さんの弟が市川段四郎さんで、いつも重要な脇役をおやりになっていて、その息子さんが市川亀治郎なんです。子役の時からとても上手で、人気者でしたが、成長するに従ってどんどんうまくなるんですね。私達はそれが嬉しくて、彼のことを親しみをこめて、カメ、カメと呼び、当時30代だった私達は、

「カメの成長を、老後の楽しみにしよう。」などと話し合っておりました。

それから何年もの間、私達の猿之助熱は冷めず、追っかけは続くのですが、1986年には、彼の大事業となるスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」が発表され、この人のスケールの大きさにまた驚かされます。このあと結婚したばかりの私の妻も猿之助ツアーに加わり、古典もスーパー歌舞伎も逃さず観劇する勢いで、1993年の「八犬伝」くらいまでは観たと思いますが、その後少しずつ縁遠くなってゆきます。

ある意味、猿之助の役者としてのピークを見届け、少年から大人になってゆく亀治郎を見届け、私達の澤瀉屋歌舞伎三昧は、一段落します。

そのあと、2000年頃ご縁があって、猿之助さんと幼いころに離別された息子の香川照之さんと仕事をご一緒したことがあって、頭のいい人だなあと思って感慨深かったり、最近になって、大人になった亀治郎さんをテレビで見たりして、やっぱり澤瀉屋の顔だなあと感心したりしていました。

そして今年、あの亀治郎が、四代目市川猿之助を襲名するというニュース。そして、香川照之さんが、九代目市川中車を、香川さんの息子さんが五代目市川團子を襲名、6月7月に披露公演があるということ。

そうかあ、そういうことになったら、久しぶりに猿之助歌舞伎観たいなあ、と思っておりましたところ、うちの奥さんがインターネットで、7月の「ヤマトタケル」の桟敷席をゲットしてくれました。桟敷席かあ、懐かしいなあ、昔よく分不相応な桟敷席で酔っぱらいながら観劇したなあ、などと感激しておりました。

さて、四代目市川猿之助と九代目市川中車の口上にはじまり、私としては26年ぶりの「ヤマトタケル」のはじまり、はじまり。

Ennosuke
いや、驚きました。

舞台に現れたヤマトタケルの姿は、先代の市川猿之助がよみがえったかのごとくでした。

そうなんです、身体つき、身のこなし、声、顔形、完全に私の記憶の中にいるあの26年前の、市川猿之助です。ちょっと怖いほどなんです。

澤瀉屋という血のなせることなのでしょうが、一つの名跡を一族で守る梨園という社会だから起こることです。亀治郎という役者は、少年の時からずっと、この猿之助という役者を凝視して育ったんですね。そう思いました。

「ヤマトタケル」の原作者である梅原猛さんは、1986年の初演の時、一人の少年が楽屋の廊下で竹刀を振ってヤマトタケルの真似をしていたのを覚えています。少年が誰だったかは云うまでもありません。

今更ながら気づいたんですが、歌舞伎のファンには、こういったDNA的とでも云う楽しみ方があるんですね。歌舞伎の世界がどうして世襲制なのかよくわかりました。

「いやあ、先代と生き写し。」などと云って、しびれるわけです。

そこには、一方で、その名跡に足りているかどうかの、厳しい客の評価もあるのでしょうけど。

そういう意味では、四代目市川猿之助襲名は、多くの猿之助ファンをしびれさせました。私もなんだかとても嬉しかった。

そしてもう一つ、澤瀉屋ファンを絶叫させたのが、第三幕、子役の團子がワカタケルに扮して登場するシーンです。もちろん市川團子は、香川照之さんのご子息で、先代猿之助さんの直系のお孫さん、まあ一族のプリンスなのですが、この時の客席からの掛け声がすごかった。

「よお、オモダカヤ!」「オモダカヤ!!」「オモダカヤ!!!」

これはもう、一夜の夢などではなく、はっきりと見え始めた澤瀉屋の未来なのです。

 昔、「成長した亀次郎を、老後の楽しみにしようね。」と語ったことが、

正直、その通りになってきました。そして、その先の未来もたのしみです。

長生きしなくちゃだわ。

 

 

 

2012年8月15日 (水)

真夏のスポーツ観戦記

この夏は、ロンドンオリンピックの年でもあり、例年にも増してスポーツ満載。

ヨーロッパ圏のオリンピックは、寝不足覚悟とはいえ、連日の熱戦にややばて気味ではあります。最近歳のせいか涙もろくもあり、日本選手の活躍に、真夜中に一人涙ぐんでいるのもどうかと思っておるうちに、はやくも閉会式。習慣で朝早くに起きてみると、この日は、全米プロゴルフ選手権の最終日でもあり、復活をかけたタイガー・ウッズが、新鋭のロリー・マキロイを追い、そこに石川遼も参戦の様子が伝えられています。

かと思えば、同じ時間大リーグでは、テキサス・レンジャーズのダルビッシュ有が、デトロイト・タイガースのスラッガー、カブレラやフィルダ-を相手に、12勝目をかけて渾身の投球をしておりました。

そしてふと時計を見れば午前6時半、あと2時間もすれば、今度は夏の甲子園高校野球選手権大会の中継が始まります。こちらは大会6日目、今日も熱戦に次ぐ熱戦です。

思えば、この夏の私のスポーツ漬けは、この高校野球の東東京地区予選から始まりました。7月7日に開幕したこの大会に、うちの息子も出場しており、7月17日に優勝候補の強豪国士舘高校に6-0で敗れるまで、3試合を戦い、高校の野球生活を終了しました。この大会で敗れると3年生の部員は、そこで引退ということになるのが、夏のならわしのようです。全国3985校の球児たちは、たったの一校を除き、3984の敗戦を積み重ねてこの大会を終えることになります。トーナメント戦てそういうことなのだけれど。

息子たちのチームのこの3試合は全部観戦しました。平日には会社も休み、ものすごい猛暑の中、最後まで見届け、どうしちゃったんだというぐらい日焼けもしました。まさに夏の高校野球を満喫したんですね。

なんかこいつらの野球がこれで観戦できなくなると思うと、どうしても観ておきたかったんです。もちろん甲子園に行くずっと手前で負けてしまうだろうということも判ってるんですが。

彼らの学校は中高一貫校で、珍しく中学から硬式野球部があったので、彼らの学年の野球は、6年間見てきたことになります。まだ小学生に近い体型だった頃から見ていると、ずいぶんと身体も技術も成長したように思うのですが、勝負は相手あってのこと、突然見違えるように強いチームになることはありません。でも6年間、暇さえあれば、公式戦も練習試合も観に行きました。負けることの方が多いけど、皆少しずつうまくなってきます。今まで絶対に捕れなかった球が捕れたり、打てなかった球が打てたり、アウトにできたり、セーフにできたり、そういうのを見ているだけで飽きなくて。前より下手になることはあんまりないんです。硬式野球部ってどこもけっこう練習するもんなんですね。練習もきついし、監督もきついです、ものすごい勢いで身も蓋もなく怒られています、いつも。



Kokoyakyu何度も見に行くことで、一人一人の選手たちのキャラクターがわかってくるのも面白いことで、身体の成長も個々に違うし、それぞれ得手不得手があるし、性格も少しずつわかってきます。そういう中で、みんな泣いたり笑ったり、悩んだり調子乗ったりしながらやってきたわけです。残念ながら途中で退部してしまった仲間もいました。うちの息子も、何度かやめることになりそうなことがあったようだし、最後までやり通した連中というのは、それだけでほめてあげたいところがあります。

そして最後の夏、なかなかいい試合を観せてもらいました。だいたい得点力は低いのですが、いい守備をして、エースも踏ん張り、先手を打って逃げ切るパターンを彼らなりに作って頑張りました。最後に戦った国士舘高校は、さすがに優勝候補、格が上で手も足も出なかったけど、8回まで3-0で踏ん張り、エースも8回力尽きて6-0になって敗れたけど、コールドになってもおかしくない相手でしたから、よくやったと思います。

ただ、息子たちのチームがどれほど練習したと言ったところで、あの試合で初回にホームランを打った国士舘の3番バッターは、毎日の練習の後、10km走ることと1000回の素振りを欠かさないと、新聞に書いてありましたから、上には上がいるんです、果てしなく。

その国士舘高校は、東東京代表をかけた決勝戦に進み、大接戦の好ゲームの末、惜しくもサヨナラ負けを喫しました。もうこのあたりになると、どこが甲子園に行ってもおかしくないレベルなんでしょうが、勝負は時の運です。そして甲子園ではもうすぐ、この夏一度も敗れることのなかった一校が決まります。

 

息子の高校野球から、世界でたった一つの金メダルまで、ものすごくたくさんの勝ち負けを見届けては、そのたびに深いため息をつく夏なのです。

 

 

2012年6月22日 (金)

飛行機、こわい

Jetplane
元来、飛行機というものが苦手で、学歴を理系と文系というものに分けると、理系に属する私がこういうこと云うと恥ずかしいのですが、いまだに理解できないんですよね、何であの重ったいものが空飛ぶのか。

いや、何度も乗ってますよ、飛行機。つい先日もチューリッヒまで12時間、その後、国内便で1時間。

そこに行くべき用件があり、それに乗らねば、そこに行けなければ、それは覚悟決めるんですけど、どうしても納得してないんですよ、それに乗って空飛んでることに。

だから、今まで何べん乗っていても、それは仕事だったり、どうしてもそうしなければならない状況かどうかで、しかたなく乗ったというか、いつも、今回は仕方ないよなと、心の中でつぶやいているんですね。今まであれだけ飛行機乗ってて、自分のお金を払って乗ったこと2回しかないんです。なんていうか、自らのせいでそうなったんではなく、誰かのせいでそうなったんだということで、止むを得ずと思うことにしてるわけです。

何か、飛行機のこと好きな人がこういう文読んでると、イライラするというか、じゃ乗るなよお前とか、思うと思うんですけど、すいません。

国内の場合、どこかに行くことになった時に、すぐにどこに飛行場があるか調べる人いますけど、いや、そこに行くのはJRの方が便利なんじゃないかとか、飛行場までの時間や、飛行機飛ぶまで待ってる時間入れると、電車の方が早くない? などと、すぐにJRのまわし者のようになります。駅弁買ってビール飲みながら行こうよなどと言うのも、自分がリラックスできるからそう言ってるだけなんですね。

飛行機好きな人って、すごくいろんな航空会社のことよく知ってて、機内食なんかのいろんなサービスにも詳しくて感心します。自分が好きな会社や便があって、マイルがたまったら、それを利用してまた飛行機乗ったりしますよね。

私も最近になって、周りの人から勧められて、マイルためるようになりましたが、何かこれがたまることによって、また別の飛行機に乗るようなはめになったらどうしようかと、なかばひやひやしていたりします。

見渡してみると身の回りには、私のように飛行機が苦手な人というのもわりといて、私の奥さんもそういう人です。たいていの趣味も性格もほぼ合わない夫婦なのですが、飛行機に関しては同じ気持ちになれます。したがって、うちは家族で飛行機に乗ったことは一度しかありません。たった一度家族でハワイに行ったときに乗りました、その時だけです。家族旅行は、圧倒的に新幹線か車です。

仕事仲間にも、すごく飛行機がダメな人がいます。

いつだったか金沢で撮影の仕事が終わって、3人でタクシー乗って小松空港に向かっていた時、誰からともなく、実は飛行機って苦手なんだよねっていう話になって、聞いてみると全員そうで、3人とも我が意を得たりになって、またこういう人たちに限って、飛行機事故の話にやたら詳しいんですね。そんなこと散々話してるうちに、誰かが運転手さんに言ったんです。

「JRの小松駅って、ここから遠いですか?」

結局、飛行機キャンセルして、電車で東京まで帰ったんですね。ビール飲んで駅弁食べながら、皆ご機嫌でしたね。4倍ほど時間かかりましたけど。

また、私の知ってる人の中でも相当飛行機に弱いカメラマンの方がいらっしゃいまして、二人でロケ地に向かう機内で打ち合わせをすることになった時、

「じゃ、打ち合わせしましょうか。」って声かけたら、

その時、その人が読んでた雑誌は上下逆でしたし、その時打ち合わせしたことは、現地についいたら全部忘れてました。

でもこの人、空撮になるとヘリコプターから身を乗り出して撮影したりするんですよね。

そういうのはいいらしくて、よくわかんないんですけど。

 

そんなことで、きれいで感じのよいキャビンアテンダントさんから、

「どうぞおくつろぎになって、快適な空の旅をお楽しみください。」

とか言われても、基本的に空飛んでるあいだは、緊張しているわけで、あまりよく眠れなかったりします。ただ、海外からの帰りの便では、仕事が済んでちょっとホッとしてたり、疲れてもいるので、寝ちゃうこともあり、むしろそういうときは積極的に寝てしまおうとするんですね。

でも、思い通りにならないこともたまにあり、これも旅の面白さですけど。

ロスから東京に帰る便で、私の席のまわりが、観光とかじゃなくてはじめて日本に行くことになった中国人の団体だったことがあって、たぶん20人くらいいたと思うけど、皆 興奮しててうるさいのと、何かと私に東京のことを聞いてくるわけです。私、あんまり英語できないからわかんないって云ってるのに、なるべく簡単な単語使って、身振り手振りで話しかけてくるんですね。でもまあいろいろ不安なんだろうし、極力役に立ってあげられればと、話してるうちに、何か仲良くなって着くまでしゃべりっぱなしで、

寝るどころかくたくたでした。

こういう人って、基本的に良い人で、初めて日本に行く人のことが多いです。

これもいつだったか、サンフランシスコから帰ってくるときに、やはり隣の席のご婦人が、生まれて初めてアメリカから海外に出る人で、その時、私、飛行機に乗る直前まで、仕事で三日三晩徹夜していて、完璧に成田まで寝て帰ろうと思ってたんですね。

このミセスが、すごくフレンドリーに話しかけてくださるんです。私、英語があんまり話せないんですいませんねって云うと、なんか中学生レベルの英語で私がわかるまで話しかけてくださるわけです。どうも娘さんが北京に留学しているとかで、はじめて母親である私が会いに行くんだと、興奮気味です。あーー北京は行ったことないんでよくわかんないです、すみませんって云うと、じゃ、アジアの話にしましょうって云うんですね。なんかすごくためになる英会話の家庭教師にレッスン受けてるようで、勉強にはなるんですけど、とにかく眠いわけです、こっちは。で、実は、アメリカでの仕事でずっと寝ていないということをやっと分っていただき、寝かせていただいたわけですけど、

彼女、全く悪気なく親切な人で、食事の時間になると、たたき起して下さるわけです。

すごくおいしそうよなどと、ニコニコされております。結局、成田に着くまで国際交流は続きました。眠かったけど。

 

こうやって、何かの縁で袖触れ合った人と、一期一会の時を楽しむのも、旅の醍醐味だし、飛行機ならではってとこもあるんだけど、やっぱなんかくつろげないんだよな。

 

 

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