2014年10月15日 (水)

「寅さん」というプログラムピクチャー

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今さらですが、「男はつらいよ」という映画は、すごいなあと、この間しみじみ思ったんですね。そんなこたあ、お前に云われなくても、1969年の第1作から第48作まで26年間、大ヒットを続けていたわけだし、1995年にシリーズを終了した後も、その評価は変わることなく、ずっと絶大な支持を受けていたわけで、今頃になって何を寝ぼけたこと云ってやがる、などと云われそうで、まあ語りつくされてることではありますが、ちょっと語ってみたくなったのですね。

このところ、BSで毎週土曜日の夜に、ずっとこのシリーズを放送してたのは知っていて、たまに観てたんですが、それほど集中して観ていたわけでもなく、ときどきつまみ観をしてたんですね。何度か観てるうちに、ふと、この映画って、やっぱりちょっとすごいなと思ったんです。

なにかと云うと、この映画にはこの映画にしかない 間(ま)があるんですね。

映画を見始めると知らないうちに、こっちがストンとその間(ま)のなかに入ってしまいますね。山田洋次監督の間(ま)なんでしょうか。渥美清さんの独特の間(ま)なんでしょうか。このシリーズの出演者たちが作ったもんなんでしょうか。それは、映画として語られるお話の間(ま)だったり、登場する人と人との間(ま)だったり、セリフの間(ま)だったり、いろいろなんですけど、観る側は心地よくその間(ま)にのみ込まれてゆくんですね。

第1作が公開された頃、私は中学生でしたが、とくにこの映画を観ることもなく、高校生の時はわりと映画少年だったんですけど、このシリーズにあまり興味もなく、高校卒業するころになって、受験勉強さぼって初めて観たのが、第10作だったと思うんですね。でも、この映画けっこう笑ったんです。マドンナ役は八千草薫さんで可愛らしくて、喜劇映画としてよくできてるなあと思ったんです。

年表を見ると、このころから、このシリーズはお盆とお正月の書き入れ時の公開に定着していきます。確実に観客をつかみ始めたのかもしれません。松竹という映画会社を支えているのは「男はつらいよ」であると言われ始めたのもこのころでしょうか。

それから私は、進学して上京し、このあとも時々「寅さん」を観るようになりました。20代になり、少しは大人になっていったのでしょうか、この喜劇は、何だか少し悲しいなと思うようになります。いつも、地方の風景と、葛飾柴又の風景と、とらやの茶の間が舞台で、いつもの人たちがいつものように出たり入ったりする、これといって何も変わらない、でもおかしくて、なんだか悲しい映画。

特に、このころ観た、吉永小百合さんや浅丘ルリ子さんが出演したシリーズは、名作でした。そのあと社会に出て働き始めて、またあんまり観なくなったりして、でも、出張先の地方の映画館で、一人でフラッと観て、そういう時はやけにしみたりして。

そのうちビデオでも観れるようになり、この映画は、ずーっと何となく付かず離れず存在してたように思えます。

気がつくと、こちらも30代も半ばになった頃、1990年から「男はつらいよ」は、お正月映画として年に1回の公開になり、脚本的にも、この頃から寅さんの甥の満男の恋が描かれるサブストーリーが作成され始めました。これは後になって知りましたが、病気がちになった渥美さんの体力を考えてのことだったようです。

渥美さんは、車寅次郎を、41歳から67歳まで演じて幕を閉じました。

最終回のラストシーンは震災にあった神戸の街でしたから、1995年の年末でした。

このシリーズが終わってから、すでに20年ちかく経とうとしています。

この先も、これだけ続くプログラムピクチャーは、もう作れないでしょうね。

そして、これだけ続くには、続くだけの理由があったと思います。

あらかた笑った後で、ちょっと切なくなる気持ち。

切ないから、ともかく笑ってしまおうという気持ち。

監督の山田洋次さんは、インタビューで、終戦直後、引揚者として毎日つらかった少年時代に、大人たちがその中から笑いを見つけて、笑うことで元気を出して励ましあうのを見て、それが自分の笑いの、喜劇の原点かもしれないと言われていました。

考えてみると、喜劇ってそういうとこありますよね。

2014年9月12日 (金)

リバティ・バランスを射った男という映画

年とると、子供の頃の記憶がどんどん遠くになっていくんですけど、たとえば子供の時に見た映画のことを、どれくらい覚えているのかという興味がありまして、ちょっと考えてみたんですね。

なんせ私の幼少期というのが、映画産業最盛期でして、1950年代から1960年代初頭なんですけど、映画観客数が年間で10億人を超えてまして、人口が1億に満たない頃ですから、1人が1年間に10回以上映画館に通ったことになります。テレビが急激に普及するのが東京オリンピックの1964年頃ですから、その前は娯楽といえば映画だったわけです。その頃、映画館は7000館以上あって、私が住んでいた、当時は中央線のはずれの西荻窪にも、2軒の立派な映画館がありました。

そんな頃でしたから、子供もよく映画館に行ってたんですね。子供向けのアニメーションや怪獣映画も名作がいろいろあったんですが、うちのオヤジがかなりの映画好きだったもんで、自分が観たい映画に行くときに、やたらと私のこと連れていきまして、おまけに、こっちはようやくひらがなが読めるかどうかの時に、ほとんどが字幕の外国映画だったんです。でも、全然いやじゃなくて、非日常っていうか、ホント楽しかったんですよ。ほとんど忘れてると思うんですけど、不思議と断片的に記憶に残ってるシーンとかがあって、これ多分1959年に作られた「刑事」というイタリア映画なんですけど、ラストシーンで刑事と連行される犯人の車を、きれいな女の人が走って追いかけていて、ここでかかってる曲が“アモーレ、アモーレ、アモーレ、アモレミーオ”って唄っていて、この曲、有名な「死ぬほど愛して」という曲らしいんですが、すごくそのシーンだけよく覚えてるんです。ミステリーだし他は意味わからなかったんでしょうけど。で、調べてたら、そのきれいな女の人は、あのクラウディア・カルディナーレで、デビュー作だったようですね。まあ、そんな映画が何本かあってごちゃごちゃに頭の中に入ってるんですね。

そうこうしているうちに、小学校にも上がり、映画鑑賞にも慣れてきたのか、映画に対して妙に理解力のあるガキになっていきます。相変らず字幕はあんまり読めないんですけど、慣れってあると思いますね。

 

その頃「リバティ・バランスを射った男」という映画がありまして、その映画のことすごくよく覚えてるんですね。そこで、その映画観てみようと思ってアマゾンで検索したらすぐあって1254円で簡単に手に入りました。そこで、自分の記憶がどれくらい確かなものか、試してみることにしました。半世紀ぶりですが。

これが、意外と間違ってないんですね。細かいこと云えばちゃんとわかってなかったとこも多々あるんですけど。大筋だいたい正しかったと思います。

これ、どういう話かというと、西部劇なんですが、主人公はランスという青年で、東部で法律を勉強して志に燃えて西部のとある町にやって来ます。しかし、この街は、法律も整備されておらず、たよりない保安官が一人いるだけの無法地帯なんです。この街に暮らす小さな牧場主のトムは、「自分の命は、自分の銃で守る。」という考えの西部の男で、ランスとは対照的なもう一人の主人公です。そして、この土地の無秩序を体現している無法者が、リバティ・バランスと云う男なんです。

物語は、上院議員として大成したランスが、かつて馬車でやってきたこの街に、鉄道で帰ってくるところから始まります。それは、トムの葬儀に出席するためでした。トムの晩年はちょっと寂しいもののようで、時が流れてしまったことを感じさせます。

かつてランスは、弁護士として、この街の法を整えようとしますが、ことごとくリバティ・バランスによって破壊されてしまいます。度重なる暴力の末に、ランスは銃を手に無法者と決闘することになります。とても勝ち目はありません。しかし、ランスはリバティ・バランスを打ち倒すんです。

でも、この時、実は物陰からリバティ・バランスを射ったのはトムだったんです。東部の男と西部の男はずっと相容れない対立軸にいましたが、西部の男は、西部の象徴である銃で東部の男の命を救い、東部の男は政治家として、西部の法治化を進めることになります。

ランスを演じているのは、ジェームス・スチュアートで、ヒッチコックの映画で、数々の重要な役を演じていて有名ですが、洗練されたインテリのイメージが強く、まさにこの役にピッタリです。そして、西部男を代表するトムが、ジョン・ウエインというのもこの上ないキャスティングです。この映画の時代背景は、鉄道の普及とともに西部が開発されて整備されていく時代であり、その時代に置いていかれる西部の男の哀愁のようなものが、ジョン・ウエインに漂っています。

リバティ・バランスを演った リー・マーヴィンもはまり役で、憎むべき悪役を見事に演じ切っています。主役の二人に比べると、年も15歳くらい若く無名でしたが、この役で、ジョン・フォードに認められてスターになるきっかけを掴んだみたいです。

調べてみると、この映画は西部劇の中でも名作と云われていて、名匠ジョン・フォードが、ジョン・ウエインと組んだ20本の映画の最後の作品であったようで、1962年の公開ですが、ジョン・フォード68歳、ジョン・ウエイン55歳、ジェームス・ステュアート54歳と、円熟期で、あらためて観るとよく練られた渋い映画であります。

小学2年生の私は、彼らの現役時代にギリギリ間に合った感がありますが、小学2年生にこの映画のどの部分が響いて、どう感動したのか、今となってはよくわかりません。

ただ、ずっと覚えていて、わりに正しく理解してたのは確かですが。

ちょっと思ったのは、私の中では、西部の男たちの哀愁みたいなものが強くて、たぶん時間が経つとともにそれが醸成してウエットな印象が残ってたかもしれませんが、実際観てみると、もうちょっとカラッとしたアメリカ映画だったわけで、そこは日本人のせいでしょうかね。

DVDを観ていてひとつ気がついたんですけど、リバティ・バランスの子分の一人が、ジョン・ウエインに一発でのされてフレームから消えちゃうんですが、この人が、あのリー・ヴァン・クリーフで、のちにマカロニウエスタンで大スターになって、サントリーのウイスキーのCMにも出てた人なんです。こういうの見つけると、なんか得した気持ちになりますよね。

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2014年8月13日 (水)

やはり暑い 広島篇

えー、毎年この時期になりますと、毎度同じ話で恐縮でございますが、いや、暑いですな。

今年は私、還暦ということもあり、いろいろな方からお誕生日のお祝いをしていただきました。この場を借りましてお礼申し上げます。

しかしながら、7月28日とは、ずいぶんと暑い日に生まれたものだと思います。60回もやってきましたこの誕生日、はじめのころはよく覚えちゃいませんが、覚えてる限り、たいていの場合、酷暑です。まず、梅雨は明けてますし、だいたい晴れ渡った青い空に入道雲なぞありまして、蝉しぐれですな。思えばうちの母親も、ずいぶんと暑い日の出産で大変だったと思います。この場を借りてお礼を申します。昭和29年といえば、エアコンはないですし、一人流産した後の初産ということで、広島の実家に帰ってのお産だったそうで、この実家の縁側の横の畳の部屋で生まれたんですが、この部屋がまだ残ってるんです。考えてみるとすごいことですが。

でまた、広島の夏というのがスペシャルに暑いんです。瀬戸内の夕凪というのがありまして、海風から陸風に代わる無風状態を云うのですが、夏はこれがかなり長時間に及ぶんです。いわゆる夕涼みというのができない。私が広島に住んだのは、中学1年の2学期から高校卒業までなので、6年の経験でしかないですが、どの年も暑かったです。

もっとも暑い、夏のピークは、夏休みが始まる頃の7月の20日くらいからお盆過ぎの約一カ月です。私が生まれた年の9年前の昭和20年の夏のさなか、8月6日に広島には原爆が投下され、そして15日に終戦を迎えます。私の生まれた夏にはまだまだその記憶が濃く残っていたと思います。

最近、爆弾を投下したB-29の最後の乗組員が亡くなったと聞きました。その人のインタビューもありましたが、アメリカの記憶はあくまでも飛行機から見た空からの風景でしかありません。このことを語るとき、やはり地上の生き物として体験したことを記憶としてきちんと残さねばとおもいます。

そんな事をかんがえながら、しばらく前に読んだ重松清さんの「赤ヘル1975」という小説を思い出しました。いい本だったんです。

1975年、広島カープが1949年の球団創設以来の初優勝をする年、原爆投下からちょうど30年後という年の、ひと夏のお話です。この年の春、東京から広島に 転校してきた中学一年の少年が主人公で、広島市内のカープファンの同級生たちとの間に芽生える友情や、原爆とのかかわりの中で暮らす街の人々の悲しみなどを知ることで、広島というある意味特殊な街を、少しずつ理解し、溶け込んでゆく様子が描かれています。

私は、1975年ではありませんが、1967年に中学一年生で、広島に転校してきた少年でして、その前にさんざん転校もしていて、この小説に描かれている少年、マナブ君の気分がとてもよくわかりました。

個人的には、まさにあの頃を思い出す気持ちでした。

私は、広島に5年半ほどおりましたが、この13歳の主人公は半年ほどで広島を去っていきます。広島でいろいろな体験をし、原爆のことも知り、成長をし、せっかくなじんできた頃、カープがついに優勝を達成したところで、また転校してゆきます。この街に来ることになったのも、去っていくことになったのも、お母さんと離れて暮らすことになったのも、父一人子一人で暮らしているマナブ君の父親が原因でして、悪い奴じゃないんだけど、なんていうか調子がよくていい加減な人で、マナブ君は振り回されています。この勝征さんという父親の人物の描き方とかが、重松さんは相変らずうまいです。

私が転校した時もそうでしたが、この街の同級生は全員がカープファンで、まあ街中の人がほとんどそうなんですが。この球団は、この街の復興の象徴でした。1975年、私はすでにこの街を離れていましたが、カープの初優勝がこの街にとってどれほど嬉しいことだったかは、知っていました。

多感な十代を過ごした、広島のべた凪の夏を思い出しました。

作者のプロフィールを読んでたら、マナブ君の設定は重松さんと同級生ですね。

1975年に中学一年生、重松さんはどう考えても、カープファンですね。

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2014年7月 3日 (木)

カンヌ滞在記2014

このまえ、何年かぶりで、カンヌ広告祭に行ってきました。最近正式には、

カンヌライオンズ国際クリエイティビティ・フェスティバル

(Cannes Lions International Festival of Creativity)  云います。

長いですが、今、こういう呼び名であります。

もともと1954年に創設され、はじめは劇場用のCM映像が審査の対象でしたが、その後、世の中の進化とともに広告のジャンルも増え、今ではたくさんの部門に分かれて審査が行われています。それに加えて、多方面のセミナーが連日開かれ、まさにインターナショナル、世界中からたくさんの人たちが、コートダジュールの小さな街に集まってきます。このイベントの一か月前に、有名なカンヌ映画祭が同じ会場で開かれており、高級リゾート地であるこの街そのものは、こういった催し物には慣れてるんですね。

毎年6月の後半に一週間の日程で開かれまして、私たちの会社は、ここ10年くらい、その期間、会場の近くに毎年同じアパートを借りています。広告とか映像にかかわる仕事なので、会社から行ける人が行って、まあ勉強したり、情報収集するといいかなということなんですね。

毎年行ける人数もまちまちだし、その年その年によっていろんなパターンで、云ってみれば視察してきますが、基本的にホテルではなくてアパートなので、自分たちで自炊しながら合宿のように過ごしてきます。今年はわりと人数が多くて、男子社員3名、女子社員3名、社外からコピーライター女性1名、ディレクター男性1名、来年この業界に就職する予定の大学生1名、総勢9名。いつもの部屋では入りきらず、近くに小さいアパート借り足しました。

このベースキャンプにしてる場所が会場から近いこともあり、毎日いろんな人が集まって来てくれます。このあたりは、ロゼのワインが安くておいしく、すぐ近くに毎朝市場がたつので食材も新鮮で、肉屋も魚屋もチーズ屋もあり、O桑シェフの指示のもと、そこらへんで買ってきたものを皆で適当に料理して、けっこう幸せな食卓になります。私は、ワインの栓を抜くだけでなんにもしませんけど。

そんなことなので、否が応でも、毎晩たくさんお客さんが来て盛り上がってしまいます。この盛り上がるところがよくてですね、つまり、日頃はどっぷりと語り合えないことを、同じ業界の身近な人たちと、異国の最新の広告などを肴にしながら、ゆっくり語り合うことは、東京ではなかなかできないことなんですね。

世界中のトップレベルの広告表現を見てくるのと、最新の情報収集をしてくるということもそうなんですけど、実は、そこで毎夜おこなわれる酒盛りこそ重要な時間となってくるわけです。今年は、なんだかすごく良い時間が過ごせましたね。心穏やかな面白くてすぐれた人たちが、たくさん良い話をしに来てくれました。

この旅が実に楽しかったのは、今回の視察団(?)のメンバーの構成によるところも大きくて、特にゲストのコピーライターのH女史と、ディレクターのI氏との旅は楽しく新鮮でした。この方たちとは普段からよく仕事をさせていただいてるんですけど、今回私たちの会社のホームページを一緒に作って下さったことから、一緒にカンヌに行きましょうということになり、超忙しい売れっ子の二人が何とかスケジュールを空けて同行できることになったんです。Hさんは、優秀ですごく忙しい人のわりに、いつもゆっくりしゃべる人で、しみじみと癒される方です。

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Iディレクターは愉快な人です。一言でいうと、落ち着きのない小学生がそのまま大人になったような人で、いつも、東京から持ってきたスケボーに乗って、カンヌの街中を滑走していました。スタイルは、成田からずっと、いつも短パンにTシャツにビーサンです。一緒にどこかに出かける時も、すぐにスケボーでいなくなってしまい、しばらく歩いてると、どこからともなく帰ってきます。飼ってる犬と、リード無しで散歩してるみたいです。

一度みんなで電車に乗って、隣町のアンティーブのピカソ美術館に行きましたが、その近くの魚屋がやってる食堂でみんなでワインを飲みすぎて、酔った勢いでカンヌまでスケボーで帰ることをすすめたら、乗りのよいことにそのまま席を立って行ってしまいました。結局、道を間違えて約20キロの道のりを、左脚をつりながら完走して帰ってきて、その後、みなからスケボー大王と呼ばれ、カンヌスケボー伝説をつくりました。すでに関係者の間では語り草となっています。

まあ、そんな風にやけに楽しい日々なわけですが、そんな中で、きわめつけが、最終日の前日。私たち視察団は、幸運にも、お昼から日没まで豪華クルーザーに載せてもらえることになりました。大はしゃぎで出航し、ワインもバンバン開け、小島の入り江に停泊し、プロヴァンスのお金持ちの暮らしを少し知りました。Iディレクターはその間、街の帽子屋で見つけたキャプテン帽をかぶり、真っ白なシャツを買い、みなからキャプテン大王と呼ばれました。途中、3名ほど船酔いして脱落しましたが、最後は地中海に沈む夕日に無口で涙し、スペシャルな一日を終えました。

そんなこんなで最終日、明日は飛行機早いし、一週間けっこう忙しく楽しかったから、おじさん、疲れたし、荷物パッキングして、パジャマ着てベッドに入りました。みんなは別のアパートに帰ったり、街に遊びに行っちゃったり、早めに帰国したりで、その時間は、私一人だったのですね。

そしたら、夜中にブザーが鳴って、H女史が帰ってきたんですけど、それから次々に、ラストナイトゲストがやって来たんです。この方たちは、日本からフィルム部門の審査をするために来た方とか、日本の広告会社を紹介するセミナーをされてた方とか、私と違って、このカンヌでまじめに働いてらした方々だったんですね。全部で6~7人いらしたんですけど、みなさん疲れ果てて、真剣にお腹空いてるらしいんです。忙しい仕事を終えて、食べるものも食べずに、顔を見せに来て下さったわけです。

ほんとに嬉しかったんですが、さあ困った。さっきだいたいあとかたずけして、みんなどっか行っちゃったし、もうビールとワインしかない。

そうだ、そうめんと学生君が持ってきてくれた秋田稲庭うどんがある、ネギもある、めんつゆ少し残ってたよな。そうだ、O桑シェフが作ったカレーが残ってた。シェフは東京に帰っちゃったけど。そうめんとカレーうどん作りました。

いや、みなさん、ホントによく食べられ、ほぼ完食されて満足そうに帰って行かれました。よかったよかった。

ワインの栓しか抜かなかった私が、最後にちょっと働いたわけです。

それぐらいしないと、毎晩酒盛りしてクルーザーに乗って帰ってきただけということになりますし。

2014年5月14日 (水)

本の題名

このまえ「トイレの話をしよう」という本を読んだんですが、これが実にいろいろなことを考えさせられる本だったんです。副題に「世界65億人が抱える大問題」とあります。

少なくとも日本のそれも都市部に暮らしている私たちには、にわかにピンとこないことではありますが、世界中には、トイレとそれを処理する下水処理設備が備わっている地区は、ごく一部しかなく、トイレがあっても、きちんとした処理がされぬままに、下水が飲料水源に流れ込んでいる場所がたくさんあります。さらに、トイレという形すら持たぬ人々が地球上に26億人もいるそうです。そのような環境下で、糞便によって汚染された飲料水や食物によって引き起こされた下痢が原因で、途上国では、15秒に1人の子供が死亡しています。

衛生問題を語るとき、清潔な水の問題はよく語られますが、その根幹にある排泄物やトイレに関することは、あまり声高に語られることが少ないですね。でもこの本には、世界のトイレ事情がリポートされつくされていて、このことに関して、あまりにも知らなすぎたことを、思い知らされます。

下水設備の整ったこの国での暮らしが、いかに恵まれたものかを再確認し、世界にはトイレを持たず、夜中に人目を忍んで茂みに排泄に行く女性たちがいることや、排泄物を素手で処理する仕事に就かざるを得ない人がいることを知り、そうした人々にトイレを提供するために努力し、あるいは、不衛生な暮らしに慣れてしまった人々の衛生行動を変えるために、試行錯誤を繰り返している人々がいることも知りました。

この本をどういう人が書いているかというと、ローズ・ジョージという名前のロンドン在住のジャーナリストで、この人がまさに世界中のトイレというトイレを、さまざまな街の下水道の中を、そしてトイレのないスラム街等を取材しつくして本にしています。そして、驚いたことに女性なんですね、この人。しかも美人です。

この本のことを知ったのは、ある新聞の読書欄で、椎名誠さんがこの本のことを紹介されてたからなんですが、その中で、世界中のトイレを詳細にルポしたトイレ探索研究本の頂点にあるような一冊と評価されており、おまけに著者が女性で、しかも美人であることを付け加えておられました。そのことは余計なことですがともいわれてましたが。

まあ、その椎名さんの文章を読んですぐに購入したわけです。

椎名さんという方は、昔から本というものに対して、深い洞察と愛情にあふれていて、よく書評も拝読しておりました。この人が本を出され始めたのは、私が社会に出た頃で、次々に話題作になり、特に若者の人気を得ました。初期の作品はたいてい読んでますが、彼が自身の青春期を振り返った「哀愁の町に霧が降るのだ」や「新橋烏森口青春篇」は、自分がその頃新橋烏森口の小さな会社で働いていて臨場感があり、個人的には同じ時代を生きてるような親しみがありました。

その後この方は、本当にたくさんの本を書き続けておられ、小説、エッセイ、紀行、評論など多岐にわたり、240冊くらいの本を出しておられます。そのうちの何冊くらいを読んだかわかりませんが、ここしばらくはちょっとご無沙汰しておりました。

ついこの前、本屋を歩いていて、椎名さんの新しい本を見つけ、題名を見てすぐ買ってしまいました。題名は「殺したい蕎麦屋」。読んでみたくなる題名です。殺したい蕎麦屋のことが書いてあるのはほんの一部で、でもなるほどフムフムという感じで、ほかも変わらぬ椎名節で、なかなか良い本でした。

でも、昔から、題名のツカミが強いんですよね、椎名さん。

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2014年5月 2日 (金)

私的・阪神ファンの歴史

今年は、プロ野球が開幕してから、珍しくタイガースが調子よくて、わりとここ数年にはなかったことなので、久しぶりに書いとかないと、また書く機会を失うかもしれないので、ちょっと書いときますね。

2005年にリーグ優勝して、日本シリーズでロッテにコテンパンにやられて、1勝もできずに4連敗してから、現在に至るまでずっと不調で、これは今に始まったことではなく、私が覚えてる限り優勝したのは、1985年と2003年と2005年と、まあめったに優勝なんかはしないチームなわけです。

では何でこのチームを応援しているかというと、いつも肝心なところでは勝てないんだけれど、その中に肩入れしたくなる、強いチームに(まあ巨人のことなんだけど)立ち向かっていくヒーロー的な選手が、必ず一人いたからなんですね、昔から。

具体的には、最も強かったころの常勝巨人打線からほとんど点を取られなかった、村山実投手、江夏豊投手。この人たちは、巨人に対して異常な闘争心をむき出しにして、剛速球で挑み続けました。有名な話ですが、かつて天覧試合で巨人の長嶋選手から撃たれたサヨナラホームランを、村山はあれはファールであったと最後まで言い張っており、その後、自身の記録である1500奪三振も2000奪三振も、長嶋選手から狙って奪っております。後輩の江夏投手には、

「長嶋は俺がやる、王はお前がやれ。」と、言い放っており、

江夏は日本新記録となるシーズン354奪三振を、狙い澄まして王選手から奪っております。多分、私の年代で阪神ファンを名乗っている人は、少年時代に、この村山か江夏に影響を受けた人です。

チームは優勝とかできないんだけど、この役者たちは試合の中で、必ず痺れる見せ場を作るわけです。云ってみれば、ちょうど幕末に散っていった新撰組の近藤勇と土方歳三のような存在とでもいうのでしょうか。

村山投手が引退をして、その後江夏は球団を追われます。このあたりがこの球団の球団たるところなんですが、ちょっと生意気で扱いにくくて多少ピークを過ぎたと思われる選手は、すぐトレードに出しちゃうんですね。私は江夏の大ファンでしたから、数日間呆然としていました。阪神ファンを辞めようかとも思いましたが、江夏とバッテリーを組んでいた田淵幸一捕手は、見事な滞空時間の長いホームランを打つ選手で、ホームランアーチストと呼ばれ、1975年には、王選手の14年連続本塁打王を阻止し、名実ともにミスタータイガースとなって孤軍奮闘しておりましたので、思いとどまります。

ただ、それも長くは続かず、1978年のオフの深夜、突然トレードに出されます。

1969年からの数年間、江夏・田淵の黄金バッテリーでのセ・リーグ制覇を思い描いたファンの夢は、早くも終わりを告げました。結果的にはその後、二人ともリリーフエースとしてまた4番バッターとして移籍先の球団を優勝に導きます。全く、阪神の球団フロントは何をやっとるんじゃと、いまだに憤ってるわけです、個人的には。

ファンにとっては、ヒーローをすべて失ってしまったかに思われましたが、そのころ、1974年にあまり期待もされずドラフト6位で入団したあの掛布雅之が確実にポジションをつかみ始めます。江夏と田淵を順番に失っていく中で、この高卒ルーキーは成長を続け、本人いわく身長まで伸びるのですが、3年目には、27ホーマーを放ちます。阪神ファンたちの愛情は、すべてこのカケフ君に向かいます。

今もそういうところあるかと思うんですが、あの頃の阪神ファンというのは、ちょっとどうかしてたんですね。

1973年のペナントレース10/22最終戦に、巨人と阪神が優勝をかけて戦った歴史的な試合があったんですが、9-0で阪神は完敗します。その時、甲子園の阪神ファンたちは、なだれを打ってグランドに駆け下り、逃げる巨人の選手につかみかかります。胴上げどころじゃありません。さすがに後味悪かったですね。

まあ一事が万事そういうところがあって、情が深すぎるというか無茶苦茶なとこがあります。友人のK野さんという人は、高校卒業まで甲子園のすぐそばで育って、今ヤクルトファンなんですけど、何で阪神ファンにならなかったかと云うと、阪神ファンを見て育ったからだと言いました。

ヒーローが誰もいなくなったタイガースで、掛布はものすごく愛されたんですけど、不調になるとものすごいブーイングも浴びます。なんか気質として愛憎が激しいんですね。

そういう阪神ファンとは少し距離を置いてるつもりなんですけど、やはり阪神ファンなので、そういうとこありますね、ちょっと。最近掛布さんが本を出していて、当時を振り返ってますけど、好調時は天国、不調時は地獄だったと言ってます。でもあのファンの歪んだ偏愛が、あれだけのホームランを打たせたかもしれぬと言ってます。複雑です。

そして、江夏がいても田淵がいてもまったく達成することのなかった優勝のチャンスが訪れます。

ちょうど、江夏と田淵が球界を去った1985年。4番打者は掛布(30歳)です。そして田淵との交換トレードでやってきた真弓明信(32歳)、1980年にドラフト1位で早稲田から入った岡田彰布(28歳)、そして海の向こうからタイガースを優勝させるためにやってきたランディ・バース(31歳)。この年、この私と同年代の選手たちが200発ものホームランを放ち、1964年以来のリーグ優勝、その勢いで、常勝広岡西武ライオンズを日本シリーズで破り、日本一を達成するのであります。

ただ、強かったのはこの年だけでした。そのあとまた2003年まで18年間優勝から遠ざかります。ま、強いんだか弱いんだか判らんチームなんです。たぶん弱いんですけど。

まあ、そういうチームなんで、自然とチームというより4番打者とか、エースの活躍に関心がいってしまうところがありまして、そういう選手がいない時は、ひたすらよい新人が育つのを待っているわけです。それなので、ファンは昔から二軍の選手のことをよく知っているし、毎年ストーブリーグ(ドラフトやトレードの話題)は大変盛り上がります。

そうこうするうちに、プロ野球界では、FA制度が始まり、4番打者やエースに他球団から来ていただくということが始まります。阪神も広島から金本さんに来て頂いて、優勝できました。思えば、この制度がなかったら1985年からいまだに優勝してなかったりするわけですから、これはこれでありがたいことなんですが。

ただ、掛布さんも書いていますが、やはり、そのチームの4番打者とエースは、そのチームが育てるのが理想だし、だからこそ盛り上がるんじゃないかということも、たしかに言えると思います。

まあ、昔からの阪神ファンとしてはですね。あの江夏や掛布のように、逆境を跳ね返して、胸のすくような勝ちゲームを見せてくれる、筋金入りのスラッガーやエースを待っているわけです。

そう考えるとですよ。今、やっぱ期待するのは、藤浪晋太郎君なわけです。たまたま今打線が調子よくて、マートンもゴメスも鳥谷までもよく打ちますけど、これ常識ですけど、打線は水物なんです。行き先を見失ったチームを救えるのは,やはりエースなんですね。あの村山や江夏のように。

藤浪君は、若いのにしゃべることもちゃんとしていて、賢くて大人だと思いますが、まわりを気にせずに、あの切れの良いストレートを磨いて、圧倒的なエースを目指してほしいです。そして、あの巨人打線からビシバシ三振を奪ってほしい。

思えばこれまで、いろんなことがあったわけですが、ファンとしては、ここんとこ、またちょっと盛り上がっております。

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2014年4月 4日 (金)

走るということ 2

Sakura


今年の桜は、本当にパッと咲いたというか、あんまり一分咲きとか二分咲きとかがなくて、蕾から突然花になったような印象でした。なんだか大雪が降ったりして、けっこう寒い冬だったけど、桜には、一日で冬から春にしてしまう力がありますね。すでに冬の記憶は遠ざかっていきます。

でも、今年も、年が明けてから桜が咲くまで、早かったです。そして、去年の桜から今年の桜までも、なんたる早さか。

去年の今頃は、桜並木をもくもくと歩いていました。きっかけは色々あったのですが、やってみるとこれが意外と続いたんですね。だいたい週に3日くらい、歩く距離も少しずつ増えていきました。初めは、4~5kmのコースからでしたが、だいたい1時間で6kmを歩くようになり、だんだん調子が出てきて、7~8kmになってきました。去年も夏は暑かったので、なるべく朝早く歩きました。そのうち秋のよい季節になり、歩きやすくもなってきて、これはひょっとすると一年続くかもしれないなと思えてきました。少し体重も減ったりして、たいしたことないですけど。

そして冬が来ました。しかし、どうもそのあたりから、ちょっと飽きてきたんですね。性格的なことですが、やはり仕様のないことなのでしょうか。一年続いたら、自分を褒めてやろうと思ってたんですが、ちょっと嫌な予感もしてたので、家族や周りの人たちにも、あんまり言ってなかったんですね、大げさには。もうすぐ一年とか。

うーん、これはいかんなとなった時、考えられないことですが、ふとあることを思いついたのですね。ちょっと前の自分には信じられないことですが、

「歩くのに飽きたら、走ってみたらどうだろう?」

ということなんですけど、何かそれくらいのことしないと、多分やめちゃうなと思ったんですね。ただ、走ったとたんに、すべてやめてしまうことも充分に考えられるのですが。

毎年、東京マラソンを完走して、走るごとにタイムを上げている会社のO桑君に、是非走ってみるように煽られていたこともありまして。

ともかくやってみたわけです。これがつらいんですね、ホントに。いや、本当にゆっくり、歩くように走ってるんですけど、歩くのと走るのは全く違うんです。最初に歩いてた5kmくらいの長さをゆっくり走ってみたのですが、だめだ、もうやめようと、何度も思います。この賭けはやはり間違いだったかなと思いました。ただ、目標のコースをどうにかこうにか完走するとですね、何というか不思議な達成感が芽生えるのですよ、これが。一年ちかく歩くのを続けたことで、多少体力もついたのかもしれません。我ながら、驚いたことに、それからちょっとずつ距離を伸ばし始めたんですね。

いまだにつらいです。特に、走り始めてしばらくの間が、一番しんどいです。だけど、後半はちょっとだけ楽になるんですね。今、1時間で8km位はいけるようになりました。調子こいちゃうと、1.5時間で12kmいっちゃうこともあります。

昨日、朝の6時から善福寺川の桜並木をぬけて8kmも走ってしまいました。ジョギング花見ですよ。早起きも、歩くことさえ大嫌いだったこの私がです。若いころはたいてい毎晩どこかの街のバーのカウンターに突っ伏して寝ておりましたのに。

季節は流れ人は変わりました。

でも、どう考えても12kmが、いっぱいいっぱいです。42.195kmという距離がどういう距離か、初めてわかりました。あれを走る・・・・ありえません。

煎餅かじりながら、マラソン中継見て、

「よし、そこで加速するんだ、ほれ。」

などといった態度で、観戦するのはもうやめます。選手の皆さんをもっと尊敬します、今後。

東京マラソンで、毎年タイムを上げているO桑君は、

「今度ハーフマラソンに出てみるといいですよ。」

などと、ニコニコして云いますが、ハーフって20kmですよねえ・・・ありえません。

ホントに今の状態で、いっぱいいっぱいです。ただ、走ったあとは、走ってよかったと思えるんですよ。これ、私にとっては、かつて想像もつかなかったことなわけです。

 

来年の桜のころは、20kmくらい走れるようになってるかな。

いや、やめよう、バカな想像するのは。ああ、やめよう。

 

2014年3月13日 (木)

「角川映画」の時代

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日本の映画の歴史の中で、「角川映画」というジャンルのあった時代があります。このあいだ「角川映画」をドキュメントとしてまとめた本があって、読んで思い出しながら、なるほどなあと感心したんです。自分の印象よりもずっと長い期間、ずっとたくさんの作品数がありました。

いつ頃かというと、1976年の「犬神家の一族」から始まり、1993年の「REX恐竜物語」までの間なのですが、世の中に大きな影響を与え、個人的にも記憶の中でわりとはっきり残っているのは、初めの10年間くらいかと思います。日本映画界が斜陽化して久しい1975年頃、大映はすでに倒産し、日活はロマンポルノにシフトし、東映は実録路線も息切れして「トラック野郎」とかをシリーズにし、松竹は寅さんで、東宝は百恵ちゃんで、どうにかこうにかという状態でした。洋画はその頃「タワーリングインフェルノ」や「大地震」や「エマニエル夫人」「007黄金銃を持つ男」「ゴッドファーザーPARTⅡ」など、わりと元気いい頃です。

そんな時、出版界から颯爽と現われ、映画業界に次々と新風を吹き込み、日本映画の観客を劇場に呼び戻したのが、角川書店の若社長、角川春樹氏だったのです。角川書店は終戦の1945年に、28歳の角川源義氏によって創業され、1975年に58歳で早世された後を継いで、長男の春樹氏が33歳で社長に就任します。

この人は、すでにアメリカ映画の「卒業」などで起こっていたメディアミックスの現象に目をつけていて、「ある愛の詩」の原作の日本語版権を取得して100万部を売り、映画と主題歌と小説が三位一体となった大ブームの一翼を担ったりしていました。

そして彼は、ついに日本映画の製作に踏み込みますが、そこは出版社の経営者であるわけで、狙いは映画でムーブメントを起こした上での、読者数の拡大です。まず、当時少しずつブームになりかけていた横溝正史フェアを成功させるため「犬神家の一族」を製作します。

ただ、この方、型破りなスケールの方で、仕掛けが大きいです。

映画製作費2億2000万、プラス角川文庫の横溝正史フェアの宣伝も含めた総宣伝費が3億。つまり、宣伝費のほうが製作費より多いという、日本映画の常識を破る映画製作となります。映画公開前、ものすごい数のTVCMが投下されました。これも日本映画界の常識を破るものでした。配収は15億5900万、本も売れて大成功です。

この方式で、翌年からの森村誠一フェアは1977年の映画「人間の証明」1978年の映画「野生の証明」と続きます。「人間の証明」では、日本映画が初めて本格的なニューヨークロケを1カ月敢行し、その製作費6億とも云われ、「野生の証明」では、高倉健を起用し、自衛隊との戦闘シーンをすべてアメリカロケで行ないう超大作で、それぞれ22億5100万と21億8000万の配収を上げて成功しています。

それに加えて、広告に絡めて主題歌をヒットさせることもよく計算されていて、このあと角川映画は、作家の角川文庫フェアと映画と主題歌のメディアミックスのスタイルで、次々とヒットを続けていくのです。

そこには、さまざまな副産物も生まれます。代表的なものとして、「野生の証明」の大オーディションで高倉健の相手役を射止めた薬師丸ひろ子や、「時をかける少女」の原田知世などの、角川映画専属女優の誕生と成長。また、松田優作に代表される才能のあるすぐれた俳優や、映画の制作現場を失いつつあった、多くのベテランや若手の監督たちに場を与えたことなど、出版界に限らず映画業界に残した功績は大きいです。

1976年~1986年の約10年間に、40数本の映画が作られていますが、そのキャンペーンのスタイルとして、TVCMをはじめとして大量の広告が出稿されました。これも明らかに新手法です。

そしてその広告の作りも結構うまいんですね。必ずキービジュアルとキャッチコピーがあって、音楽もあります。CMを見て、映画館に足を運んだり、文庫本やCDを買った人、多かったと思います。

ただ、思うに、私個人としては、あんまり角川映画を観てないんですね。自他共に認める映画好きなんですけど、何故ですかね。角川映画が始まったころ、私はちょうど社会に出たばかりで、やたら忙しい会社だったし、最も貧乏なころだったこともあるかもしれません。結果的に後から観てるものもあるんですけど、封切りを待って映画館に行ったことは少ないかもしれません。もともとひねくれた性格でもあるのですが、やたらと仕掛けっぽいというか、大げさな広告が鼻につくというか、ちょっとそういうことに懐疑的だったような気もします。あまりたいして観ていないのに、いろいろ言うのもどうかと思いますが、どの映画を観てそう思ったのかも覚えてませんし、なんとなく遠ざかったような気がします。

そういえば、ずいぶんしてから友達に誘われて二人で封切りの角川映画を観たことがありました。たしか、薬師丸ひろ子主演と、原田知世主演の2本立てで、そんなに悪い映画じゃなくて、ちょっと偏見もあったかなと思いました。彼は同世代で、出版社の宣伝部にいて、当時私と仕事をしていた人で、いつも二人で飲んでは、映画や広告の話をしていました。彼も若く、出版界で何かをしたいという野心にあふれてましたから、当時の角川映画のことは、いろんな意味で無視できなかったんだと思います。

彼はその何年か後に、事故にあって突然亡くなりました。今でも、いろんな本や映画や広告に触れると、彼だったらなんというかなと思うことがあります。面白い人でしたから、今いれば、出版界で大活躍してたんじゃないかと。

あの映画のことを何と言っていたか思い出せませんが、角川映画のことを考えていたら、彼のことを思い出しました。

 

ありました。「角川映画」で大好きな映画。「蒲田行進曲」と「麻雀放浪記」です。

個人ランキングではかなり上位に来ます。名作です。

 

 

2014年1月17日 (金)

「無重力」という映画

去年の反省の一つとして、映画館で映画を観てないなあ、というのがあります。最近、会社の中で仕事してることが多くて、昔ほど外をほっつき歩いてないし、今なかなか飛び込みで映画館って入れないし、映画館でかからなくなっても、どっか他のメディアで観れるだろうという気持ちもあるし、なんとなく映画館入って映画を観る頻度は、減ってると思うんですよね。

ただ、いい映画を映画館で観ると、やっぱ映画は映画館で観なきゃと思うんですね。去年だと「レ・ミゼラブル」とか、やっぱりスクリーンで観るから伝わることっていうのはあるなあと。そもそも、映画って映画館でかかるってことを前提で作られてるんだから、そりゃそうなんですけどね。

そういう意味でこの映画こそは、映画館で観なくちゃだわと思ったのが、

“GRAVITY”でした。

「重力」まさに観客はこの映画を通して、ものすごい重力の体験をします。

俳優の演技も、それをとらえる光も、CGも、合成の技術も、そして3Dの効果も、音響も、すべてそのために駆使されたものです。

最先端の技術、ただそれは素晴らしいのだけど、この映画の本質はそこではありません。

もっとも適していると思われる映画の技術は、監督やキャメラマンやスタッフたちが選び開発したものです。今更ながら気づかされますが、技術は映画のメッセージを観客に伝える道具でしかありません。だからあんなにすごい技術なのに、それ自体が目立つことはなく、むしろその効果は、あたりまえのように自然に感じます。映画の意図を伝えるために研ぎ澄ました技術は、見事に抑制されているのです。

Gravity1

この映画は、宇宙空間で働くクルーに、ある事故が起きて、たった一人の生存者となってしまった主人公が、絶望の淵から折れかけた自身を立て直し、地球に生還するまでのお話なのですが、非常にシンプルなストーリーながら、その無重力の世界を描く映像表現があまりに見事なため、観客は最後まで主人公から目を離すことができません。

私たちは、このヒロイン、サンドラ・ブロックが生還できることを切に願い、心から祈る気持ちです。その途中、その生還を託して消えていったジョージ・クルーニーも、実に良い芝居をしています。

さまざまの困難の果てに、サンドラ・ブロックが地球の重力で大地を踏みしめた時、私も映画館の床をおもいきり踏みしめていました。

私は、一応映像にかかわる仕事をしているので、この映画のプログラムの解説を読んだり、ウエブサイトのメイキング映像を見たりすると、どんなふうに撮影をしたのだろうかということが、多少想像できるのですけど、これはものすごい執念と、驚異的な粘りの上に、相当な時間をかけて撮影されたこと、出演者はほぼこの二人ですけど、ずっとライトボックスという箱に入れられて、いつも12本のワイヤーで吊られていたことが解ります。

インタヴューの中で、彼女が「二度とやりたくない撮影」といった意味がよくわかります。まさに絶望の淵にいる主人公の表情が、本当に絶望している表情に見えるのは、演技だけとは思えない、酷使された女優サンドラ・ブロックのリアルな顔なんじゃないかとも思えます。ともかく、この変態ともいえる監督アルフォンソ・キュアロンとキャメラマン エマニュエル・ルベツキの要求に耐えた俳優陣(二人ですけど)に拍手を送ります。

そして、この監督とキャメラマンとスタッフたちにも、

「いよっ、この変態!!」と声をかけて、賞賛の意を表したいです。

美女を箱の中に入れて、ひもで吊るし、宇宙服を着せたり脱がしたりして、リモコンのカメラで何日も覗き込む行為は、客観的に見ると変態ですよね。映像の仕事をしていると、このようなタイプの人は、周りにわりといらっしゃるんですけど、スペシャルな方がいらしたもんです。なんか嬉しいですね。

ここまで完成度の高い技術というのは、出来上がった映像をむしろ自然にしか感じさせないものだということがわかります。そして、映画館で観なければ全く意味がないということでもあります。

お見事でした。

Gravity2_2



2013年12月17日 (火)

さて、還暦の年が明けます

この文章は、この前、会社の忘年パーティーにお呼びする皆さんへ書いたものなのですが、まさに私の実感なのですね。

 

みなさま

毎年、似たようなことを申しておりますが、

早いもので、今年も大詰めとなりました。

ついこの前、桜が咲いて、そのあと、今年の夏はスペシャルに暑いねえ、

などと云ってた気がしますが、もう、年末です。

歳を増すごとの、この加速度的な記憶の不確かさです。

最近では、開き直っておりますが…

さて、12月18日 うんぬんかんぬん・・・

 

そおなんですよね。時の流れに身をまかせているうちに、今年もあとわずか。近年そのスピードはますます上がっており、来年は、いよいよ私、還暦という年になってしまいました。

実は、何年か前、たぶん2007年の10月頃に、2014年のサッカーワールドカップがブラジルに決定した時、ドイツ大会の翌年、南アフリカ大会の3年前ですけど、

2014年って、もしかして俺60歳になるんじゃないかと気付いたわけです。私1954年生まれですから、これ当たり前なんですけど。そのあと、油断したわけじゃないんですけど、あれよあれよという間に、今日にいたるんですね。はじめのころは、

「ブラジルワールドカップの年には還暦ですから。」などというと、

へえとか言ってみんな感心してたんですけど、最近は、

「あ、そお。」みたいな、何の意外性もない反応です。年相応ということでしょうか。

このまえ、新聞を読んでたら、今年の12月12日が、小津安二郎監督の50回忌なのですが、この日が生誕110周年にもあたるのだそうです。つまり、小津監督は、お生まれになって、きっちり60年で生涯を終えられたわけです。あれだけの世界的偉業を成されたことを思うに、60年という歳月の重みを感じます。ちょうど自分が来年60歳を迎えるにあたり、比ぶるべきもないことですが、感慨深い記事でありました。

 

そういえば、今書いているこのブログのようなものも、(月に1本位のペースなのでブログと呼んでいいのかということもありますが)書き始めて10年近くになります。

最初は2004年の春に20年以上通ったなじみのBARが閉めることになって、そのことを書いたのがきっかけだったと思います。

ブログというのは、2003年のイラク戦争の時に、バグダット在住のイラク女性が発するブログが有名となり大きく広がりました。まだ、フェースブックもツイッターもない頃でしたね。

自分のを見返してみると、はじめは月に一回も書いてないですね。いまだにいたずら書きのようなもんですが、一応やめないで思いついた時に書くだけで、10年するとけっこうな量になってますね。積極的に人様にお見せするようなものでもなく、多分に自分に向けてですけど、何かいろんなこと思い出すきっかけにはなりますね。付けたことないんですけど、日記の作用ってこういうことと似てるんでしょうか。ただ、ブログは基本的に誰でも見ようと思えば見れる仕組みになってるんで、書いちゃだめなことはありますよね、秘密のこととか。日々暮らしてると、いろいろ面白い事っておきるんですけど、なかなか書いちゃだめなことの方が多いこともわかりますよね。

10年暮らせば10年分の出来事があるわけで、これが記憶となってたまっていくんですが、量が増えれば薄まっても行くわけです。特にこれからは思い出す力が落ちてくるようではありますが。

まあ、そうこうしているうちに、生まれて60年の年が明けようとしています。これといった偉業もなく、ただどうにかこうにかしているうちの60年ですが、無事にここに至ったことに感謝です。

この年が皆にとって良い年でありますよう、お祈りしております。

Nengajyo2014_3



 

 

 

 

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