2014年5月14日 (水)

本の題名

このまえ「トイレの話をしよう」という本を読んだんですが、これが実にいろいろなことを考えさせられる本だったんです。副題に「世界65億人が抱える大問題」とあります。

少なくとも日本のそれも都市部に暮らしている私たちには、にわかにピンとこないことではありますが、世界中には、トイレとそれを処理する下水処理設備が備わっている地区は、ごく一部しかなく、トイレがあっても、きちんとした処理がされぬままに、下水が飲料水源に流れ込んでいる場所がたくさんあります。さらに、トイレという形すら持たぬ人々が地球上に26億人もいるそうです。そのような環境下で、糞便によって汚染された飲料水や食物によって引き起こされた下痢が原因で、途上国では、15秒に1人の子供が死亡しています。

衛生問題を語るとき、清潔な水の問題はよく語られますが、その根幹にある排泄物やトイレに関することは、あまり声高に語られることが少ないですね。でもこの本には、世界のトイレ事情がリポートされつくされていて、このことに関して、あまりにも知らなすぎたことを、思い知らされます。

下水設備の整ったこの国での暮らしが、いかに恵まれたものかを再確認し、世界にはトイレを持たず、夜中に人目を忍んで茂みに排泄に行く女性たちがいることや、排泄物を素手で処理する仕事に就かざるを得ない人がいることを知り、そうした人々にトイレを提供するために努力し、あるいは、不衛生な暮らしに慣れてしまった人々の衛生行動を変えるために、試行錯誤を繰り返している人々がいることも知りました。

この本をどういう人が書いているかというと、ローズ・ジョージという名前のロンドン在住のジャーナリストで、この人がまさに世界中のトイレというトイレを、さまざまな街の下水道の中を、そしてトイレのないスラム街等を取材しつくして本にしています。そして、驚いたことに女性なんですね、この人。しかも美人です。

この本のことを知ったのは、ある新聞の読書欄で、椎名誠さんがこの本のことを紹介されてたからなんですが、その中で、世界中のトイレを詳細にルポしたトイレ探索研究本の頂点にあるような一冊と評価されており、おまけに著者が女性で、しかも美人であることを付け加えておられました。そのことは余計なことですがともいわれてましたが。

まあ、その椎名さんの文章を読んですぐに購入したわけです。

椎名さんという方は、昔から本というものに対して、深い洞察と愛情にあふれていて、よく書評も拝読しておりました。この人が本を出され始めたのは、私が社会に出た頃で、次々に話題作になり、特に若者の人気を得ました。初期の作品はたいてい読んでますが、彼が自身の青春期を振り返った「哀愁の町に霧が降るのだ」や「新橋烏森口青春篇」は、自分がその頃新橋烏森口の小さな会社で働いていて臨場感があり、個人的には同じ時代を生きてるような親しみがありました。

その後この方は、本当にたくさんの本を書き続けておられ、小説、エッセイ、紀行、評論など多岐にわたり、240冊くらいの本を出しておられます。そのうちの何冊くらいを読んだかわかりませんが、ここしばらくはちょっとご無沙汰しておりました。

ついこの前、本屋を歩いていて、椎名さんの新しい本を見つけ、題名を見てすぐ買ってしまいました。題名は「殺したい蕎麦屋」。読んでみたくなる題名です。殺したい蕎麦屋のことが書いてあるのはほんの一部で、でもなるほどフムフムという感じで、ほかも変わらぬ椎名節で、なかなか良い本でした。

でも、昔から、題名のツカミが強いんですよね、椎名さん。

Siinasann

2014年5月 2日 (金)

私的・阪神ファンの歴史

今年は、プロ野球が開幕してから、珍しくタイガースが調子よくて、わりとここ数年にはなかったことなので、久しぶりに書いとかないと、また書く機会を失うかもしれないので、ちょっと書いときますね。

2005年にリーグ優勝して、日本シリーズでロッテにコテンパンにやられて、1勝もできずに4連敗してから、現在に至るまでずっと不調で、これは今に始まったことではなく、私が覚えてる限り優勝したのは、1985年と2003年と2005年と、まあめったに優勝なんかはしないチームなわけです。

では何でこのチームを応援しているかというと、いつも肝心なところでは勝てないんだけれど、その中に肩入れしたくなる、強いチームに(まあ巨人のことなんだけど)立ち向かっていくヒーロー的な選手が、必ず一人いたからなんですね、昔から。

具体的には、最も強かったころの常勝巨人打線からほとんど点を取られなかった、村山実投手、江夏豊投手。この人たちは、巨人に対して異常な闘争心をむき出しにして、剛速球で挑み続けました。有名な話ですが、かつて天覧試合で巨人の長嶋選手から撃たれたサヨナラホームランを、村山はあれはファールであったと最後まで言い張っており、その後、自身の記録である1500奪三振も2000奪三振も、長嶋選手から狙って奪っております。後輩の江夏投手には、

「長嶋は俺がやる、王はお前がやれ。」と、言い放っており、

江夏は日本新記録となるシーズン354奪三振を、狙い澄まして王選手から奪っております。多分、私の年代で阪神ファンを名乗っている人は、少年時代に、この村山か江夏に影響を受けた人です。

チームは優勝とかできないんだけど、この役者たちは試合の中で、必ず痺れる見せ場を作るわけです。云ってみれば、ちょうど幕末に散っていった新撰組の近藤勇と土方歳三のような存在とでもいうのでしょうか。

村山投手が引退をして、その後江夏は球団を追われます。このあたりがこの球団の球団たるところなんですが、ちょっと生意気で扱いにくくて多少ピークを過ぎたと思われる選手は、すぐトレードに出しちゃうんですね。私は江夏の大ファンでしたから、数日間呆然としていました。阪神ファンを辞めようかとも思いましたが、江夏とバッテリーを組んでいた田淵幸一捕手は、見事な滞空時間の長いホームランを打つ選手で、ホームランアーチストと呼ばれ、1975年には、王選手の14年連続本塁打王を阻止し、名実ともにミスタータイガースとなって孤軍奮闘しておりましたので、思いとどまります。

ただ、それも長くは続かず、1978年のオフの深夜、突然トレードに出されます。

1969年からの数年間、江夏・田淵の黄金バッテリーでのセ・リーグ制覇を思い描いたファンの夢は、早くも終わりを告げました。結果的にはその後、二人ともリリーフエースとしてまた4番バッターとして移籍先の球団を優勝に導きます。全く、阪神の球団フロントは何をやっとるんじゃと、いまだに憤ってるわけです、個人的には。

ファンにとっては、ヒーローをすべて失ってしまったかに思われましたが、そのころ、1974年にあまり期待もされずドラフト6位で入団したあの掛布雅之が確実にポジションをつかみ始めます。江夏と田淵を順番に失っていく中で、この高卒ルーキーは成長を続け、本人いわく身長まで伸びるのですが、3年目には、27ホーマーを放ちます。阪神ファンたちの愛情は、すべてこのカケフ君に向かいます。

今もそういうところあるかと思うんですが、あの頃の阪神ファンというのは、ちょっとどうかしてたんですね。

1973年のペナントレース10/22最終戦に、巨人と阪神が優勝をかけて戦った歴史的な試合があったんですが、9-0で阪神は完敗します。その時、甲子園の阪神ファンたちは、なだれを打ってグランドに駆け下り、逃げる巨人の選手につかみかかります。胴上げどころじゃありません。さすがに後味悪かったですね。

まあ一事が万事そういうところがあって、情が深すぎるというか無茶苦茶なとこがあります。友人のK野さんという人は、高校卒業まで甲子園のすぐそばで育って、今ヤクルトファンなんですけど、何で阪神ファンにならなかったかと云うと、阪神ファンを見て育ったからだと言いました。

ヒーローが誰もいなくなったタイガースで、掛布はものすごく愛されたんですけど、不調になるとものすごいブーイングも浴びます。なんか気質として愛憎が激しいんですね。

そういう阪神ファンとは少し距離を置いてるつもりなんですけど、やはり阪神ファンなので、そういうとこありますね、ちょっと。最近掛布さんが本を出していて、当時を振り返ってますけど、好調時は天国、不調時は地獄だったと言ってます。でもあのファンの歪んだ偏愛が、あれだけのホームランを打たせたかもしれぬと言ってます。複雑です。

そして、江夏がいても田淵がいてもまったく達成することのなかった優勝のチャンスが訪れます。

ちょうど、江夏と田淵が球界を去った1985年。4番打者は掛布(30歳)です。そして田淵との交換トレードでやってきた真弓明信(32歳)、1980年にドラフト1位で早稲田から入った岡田彰布(28歳)、そして海の向こうからタイガースを優勝させるためにやってきたランディ・バース(31歳)。この年、この私と同年代の選手たちが200発ものホームランを放ち、1964年以来のリーグ優勝、その勢いで、常勝広岡西武ライオンズを日本シリーズで破り、日本一を達成するのであります。

ただ、強かったのはこの年だけでした。そのあとまた2003年まで18年間優勝から遠ざかります。ま、強いんだか弱いんだか判らんチームなんです。たぶん弱いんですけど。

まあ、そういうチームなんで、自然とチームというより4番打者とか、エースの活躍に関心がいってしまうところがありまして、そういう選手がいない時は、ひたすらよい新人が育つのを待っているわけです。それなので、ファンは昔から二軍の選手のことをよく知っているし、毎年ストーブリーグ(ドラフトやトレードの話題)は大変盛り上がります。

そうこうするうちに、プロ野球界では、FA制度が始まり、4番打者やエースに他球団から来ていただくということが始まります。阪神も広島から金本さんに来て頂いて、優勝できました。思えば、この制度がなかったら1985年からいまだに優勝してなかったりするわけですから、これはこれでありがたいことなんですが。

ただ、掛布さんも書いていますが、やはり、そのチームの4番打者とエースは、そのチームが育てるのが理想だし、だからこそ盛り上がるんじゃないかということも、たしかに言えると思います。

まあ、昔からの阪神ファンとしてはですね。あの江夏や掛布のように、逆境を跳ね返して、胸のすくような勝ちゲームを見せてくれる、筋金入りのスラッガーやエースを待っているわけです。

そう考えるとですよ。今、やっぱ期待するのは、藤浪晋太郎君なわけです。たまたま今打線が調子よくて、マートンもゴメスも鳥谷までもよく打ちますけど、これ常識ですけど、打線は水物なんです。行き先を見失ったチームを救えるのは,やはりエースなんですね。あの村山や江夏のように。

藤浪君は、若いのにしゃべることもちゃんとしていて、賢くて大人だと思いますが、まわりを気にせずに、あの切れの良いストレートを磨いて、圧倒的なエースを目指してほしいです。そして、あの巨人打線からビシバシ三振を奪ってほしい。

思えばこれまで、いろんなことがあったわけですが、ファンとしては、ここんとこ、またちょっと盛り上がっております。

Fujinami2

 



 

2014年4月 4日 (金)

走るということ 2

Sakura


今年の桜は、本当にパッと咲いたというか、あんまり一分咲きとか二分咲きとかがなくて、蕾から突然花になったような印象でした。なんだか大雪が降ったりして、けっこう寒い冬だったけど、桜には、一日で冬から春にしてしまう力がありますね。すでに冬の記憶は遠ざかっていきます。

でも、今年も、年が明けてから桜が咲くまで、早かったです。そして、去年の桜から今年の桜までも、なんたる早さか。

去年の今頃は、桜並木をもくもくと歩いていました。きっかけは色々あったのですが、やってみるとこれが意外と続いたんですね。だいたい週に3日くらい、歩く距離も少しずつ増えていきました。初めは、4~5kmのコースからでしたが、だいたい1時間で6kmを歩くようになり、だんだん調子が出てきて、7~8kmになってきました。去年も夏は暑かったので、なるべく朝早く歩きました。そのうち秋のよい季節になり、歩きやすくもなってきて、これはひょっとすると一年続くかもしれないなと思えてきました。少し体重も減ったりして、たいしたことないですけど。

そして冬が来ました。しかし、どうもそのあたりから、ちょっと飽きてきたんですね。性格的なことですが、やはり仕様のないことなのでしょうか。一年続いたら、自分を褒めてやろうと思ってたんですが、ちょっと嫌な予感もしてたので、家族や周りの人たちにも、あんまり言ってなかったんですね、大げさには。もうすぐ一年とか。

うーん、これはいかんなとなった時、考えられないことですが、ふとあることを思いついたのですね。ちょっと前の自分には信じられないことですが、

「歩くのに飽きたら、走ってみたらどうだろう?」

ということなんですけど、何かそれくらいのことしないと、多分やめちゃうなと思ったんですね。ただ、走ったとたんに、すべてやめてしまうことも充分に考えられるのですが。

毎年、東京マラソンを完走して、走るごとにタイムを上げている会社のO桑君に、是非走ってみるように煽られていたこともありまして。

ともかくやってみたわけです。これがつらいんですね、ホントに。いや、本当にゆっくり、歩くように走ってるんですけど、歩くのと走るのは全く違うんです。最初に歩いてた5kmくらいの長さをゆっくり走ってみたのですが、だめだ、もうやめようと、何度も思います。この賭けはやはり間違いだったかなと思いました。ただ、目標のコースをどうにかこうにか完走するとですね、何というか不思議な達成感が芽生えるのですよ、これが。一年ちかく歩くのを続けたことで、多少体力もついたのかもしれません。我ながら、驚いたことに、それからちょっとずつ距離を伸ばし始めたんですね。

いまだにつらいです。特に、走り始めてしばらくの間が、一番しんどいです。だけど、後半はちょっとだけ楽になるんですね。今、1時間で8km位はいけるようになりました。調子こいちゃうと、1.5時間で12kmいっちゃうこともあります。

昨日、朝の6時から善福寺川の桜並木をぬけて8kmも走ってしまいました。ジョギング花見ですよ。早起きも、歩くことさえ大嫌いだったこの私がです。若いころはたいてい毎晩どこかの街のバーのカウンターに突っ伏して寝ておりましたのに。

季節は流れ人は変わりました。

でも、どう考えても12kmが、いっぱいいっぱいです。42.195kmという距離がどういう距離か、初めてわかりました。あれを走る・・・・ありえません。

煎餅かじりながら、マラソン中継見て、

「よし、そこで加速するんだ、ほれ。」

などといった態度で、観戦するのはもうやめます。選手の皆さんをもっと尊敬します、今後。

東京マラソンで、毎年タイムを上げているO桑君は、

「今度ハーフマラソンに出てみるといいですよ。」

などと、ニコニコして云いますが、ハーフって20kmですよねえ・・・ありえません。

ホントに今の状態で、いっぱいいっぱいです。ただ、走ったあとは、走ってよかったと思えるんですよ。これ、私にとっては、かつて想像もつかなかったことなわけです。

 

来年の桜のころは、20kmくらい走れるようになってるかな。

いや、やめよう、バカな想像するのは。ああ、やめよう。

 

2014年3月13日 (木)

「角川映画」の時代

Kaikan_2


日本の映画の歴史の中で、「角川映画」というジャンルのあった時代があります。このあいだ「角川映画」をドキュメントとしてまとめた本があって、読んで思い出しながら、なるほどなあと感心したんです。自分の印象よりもずっと長い期間、ずっとたくさんの作品数がありました。

いつ頃かというと、1976年の「犬神家の一族」から始まり、1993年の「REX恐竜物語」までの間なのですが、世の中に大きな影響を与え、個人的にも記憶の中でわりとはっきり残っているのは、初めの10年間くらいかと思います。日本映画界が斜陽化して久しい1975年頃、大映はすでに倒産し、日活はロマンポルノにシフトし、東映は実録路線も息切れして「トラック野郎」とかをシリーズにし、松竹は寅さんで、東宝は百恵ちゃんで、どうにかこうにかという状態でした。洋画はその頃「タワーリングインフェルノ」や「大地震」や「エマニエル夫人」「007黄金銃を持つ男」「ゴッドファーザーPARTⅡ」など、わりと元気いい頃です。

そんな時、出版界から颯爽と現われ、映画業界に次々と新風を吹き込み、日本映画の観客を劇場に呼び戻したのが、角川書店の若社長、角川春樹氏だったのです。角川書店は終戦の1945年に、28歳の角川源義氏によって創業され、1975年に58歳で早世された後を継いで、長男の春樹氏が33歳で社長に就任します。

この人は、すでにアメリカ映画の「卒業」などで起こっていたメディアミックスの現象に目をつけていて、「ある愛の詩」の原作の日本語版権を取得して100万部を売り、映画と主題歌と小説が三位一体となった大ブームの一翼を担ったりしていました。

そして彼は、ついに日本映画の製作に踏み込みますが、そこは出版社の経営者であるわけで、狙いは映画でムーブメントを起こした上での、読者数の拡大です。まず、当時少しずつブームになりかけていた横溝正史フェアを成功させるため「犬神家の一族」を製作します。

ただ、この方、型破りなスケールの方で、仕掛けが大きいです。

映画製作費2億2000万、プラス角川文庫の横溝正史フェアの宣伝も含めた総宣伝費が3億。つまり、宣伝費のほうが製作費より多いという、日本映画の常識を破る映画製作となります。映画公開前、ものすごい数のTVCMが投下されました。これも日本映画界の常識を破るものでした。配収は15億5900万、本も売れて大成功です。

この方式で、翌年からの森村誠一フェアは1977年の映画「人間の証明」1978年の映画「野生の証明」と続きます。「人間の証明」では、日本映画が初めて本格的なニューヨークロケを1カ月敢行し、その製作費6億とも云われ、「野生の証明」では、高倉健を起用し、自衛隊との戦闘シーンをすべてアメリカロケで行ないう超大作で、それぞれ22億5100万と21億8000万の配収を上げて成功しています。

それに加えて、広告に絡めて主題歌をヒットさせることもよく計算されていて、このあと角川映画は、作家の角川文庫フェアと映画と主題歌のメディアミックスのスタイルで、次々とヒットを続けていくのです。

そこには、さまざまな副産物も生まれます。代表的なものとして、「野生の証明」の大オーディションで高倉健の相手役を射止めた薬師丸ひろ子や、「時をかける少女」の原田知世などの、角川映画専属女優の誕生と成長。また、松田優作に代表される才能のあるすぐれた俳優や、映画の制作現場を失いつつあった、多くのベテランや若手の監督たちに場を与えたことなど、出版界に限らず映画業界に残した功績は大きいです。

1976年~1986年の約10年間に、40数本の映画が作られていますが、そのキャンペーンのスタイルとして、TVCMをはじめとして大量の広告が出稿されました。これも明らかに新手法です。

そしてその広告の作りも結構うまいんですね。必ずキービジュアルとキャッチコピーがあって、音楽もあります。CMを見て、映画館に足を運んだり、文庫本やCDを買った人、多かったと思います。

ただ、思うに、私個人としては、あんまり角川映画を観てないんですね。自他共に認める映画好きなんですけど、何故ですかね。角川映画が始まったころ、私はちょうど社会に出たばかりで、やたら忙しい会社だったし、最も貧乏なころだったこともあるかもしれません。結果的に後から観てるものもあるんですけど、封切りを待って映画館に行ったことは少ないかもしれません。もともとひねくれた性格でもあるのですが、やたらと仕掛けっぽいというか、大げさな広告が鼻につくというか、ちょっとそういうことに懐疑的だったような気もします。あまりたいして観ていないのに、いろいろ言うのもどうかと思いますが、どの映画を観てそう思ったのかも覚えてませんし、なんとなく遠ざかったような気がします。

そういえば、ずいぶんしてから友達に誘われて二人で封切りの角川映画を観たことがありました。たしか、薬師丸ひろ子主演と、原田知世主演の2本立てで、そんなに悪い映画じゃなくて、ちょっと偏見もあったかなと思いました。彼は同世代で、出版社の宣伝部にいて、当時私と仕事をしていた人で、いつも二人で飲んでは、映画や広告の話をしていました。彼も若く、出版界で何かをしたいという野心にあふれてましたから、当時の角川映画のことは、いろんな意味で無視できなかったんだと思います。

彼はその何年か後に、事故にあって突然亡くなりました。今でも、いろんな本や映画や広告に触れると、彼だったらなんというかなと思うことがあります。面白い人でしたから、今いれば、出版界で大活躍してたんじゃないかと。

あの映画のことを何と言っていたか思い出せませんが、角川映画のことを考えていたら、彼のことを思い出しました。

 

ありました。「角川映画」で大好きな映画。「蒲田行進曲」と「麻雀放浪記」です。

個人ランキングではかなり上位に来ます。名作です。

 

 

2014年1月17日 (金)

「無重力」という映画

去年の反省の一つとして、映画館で映画を観てないなあ、というのがあります。最近、会社の中で仕事してることが多くて、昔ほど外をほっつき歩いてないし、今なかなか飛び込みで映画館って入れないし、映画館でかからなくなっても、どっか他のメディアで観れるだろうという気持ちもあるし、なんとなく映画館入って映画を観る頻度は、減ってると思うんですよね。

ただ、いい映画を映画館で観ると、やっぱ映画は映画館で観なきゃと思うんですね。去年だと「レ・ミゼラブル」とか、やっぱりスクリーンで観るから伝わることっていうのはあるなあと。そもそも、映画って映画館でかかるってことを前提で作られてるんだから、そりゃそうなんですけどね。

そういう意味でこの映画こそは、映画館で観なくちゃだわと思ったのが、

“GRAVITY”でした。

「重力」まさに観客はこの映画を通して、ものすごい重力の体験をします。

俳優の演技も、それをとらえる光も、CGも、合成の技術も、そして3Dの効果も、音響も、すべてそのために駆使されたものです。

最先端の技術、ただそれは素晴らしいのだけど、この映画の本質はそこではありません。

もっとも適していると思われる映画の技術は、監督やキャメラマンやスタッフたちが選び開発したものです。今更ながら気づかされますが、技術は映画のメッセージを観客に伝える道具でしかありません。だからあんなにすごい技術なのに、それ自体が目立つことはなく、むしろその効果は、あたりまえのように自然に感じます。映画の意図を伝えるために研ぎ澄ました技術は、見事に抑制されているのです。

Gravity1

この映画は、宇宙空間で働くクルーに、ある事故が起きて、たった一人の生存者となってしまった主人公が、絶望の淵から折れかけた自身を立て直し、地球に生還するまでのお話なのですが、非常にシンプルなストーリーながら、その無重力の世界を描く映像表現があまりに見事なため、観客は最後まで主人公から目を離すことができません。

私たちは、このヒロイン、サンドラ・ブロックが生還できることを切に願い、心から祈る気持ちです。その途中、その生還を託して消えていったジョージ・クルーニーも、実に良い芝居をしています。

さまざまの困難の果てに、サンドラ・ブロックが地球の重力で大地を踏みしめた時、私も映画館の床をおもいきり踏みしめていました。

私は、一応映像にかかわる仕事をしているので、この映画のプログラムの解説を読んだり、ウエブサイトのメイキング映像を見たりすると、どんなふうに撮影をしたのだろうかということが、多少想像できるのですけど、これはものすごい執念と、驚異的な粘りの上に、相当な時間をかけて撮影されたこと、出演者はほぼこの二人ですけど、ずっとライトボックスという箱に入れられて、いつも12本のワイヤーで吊られていたことが解ります。

インタヴューの中で、彼女が「二度とやりたくない撮影」といった意味がよくわかります。まさに絶望の淵にいる主人公の表情が、本当に絶望している表情に見えるのは、演技だけとは思えない、酷使された女優サンドラ・ブロックのリアルな顔なんじゃないかとも思えます。ともかく、この変態ともいえる監督アルフォンソ・キュアロンとキャメラマン エマニュエル・ルベツキの要求に耐えた俳優陣(二人ですけど)に拍手を送ります。

そして、この監督とキャメラマンとスタッフたちにも、

「いよっ、この変態!!」と声をかけて、賞賛の意を表したいです。

美女を箱の中に入れて、ひもで吊るし、宇宙服を着せたり脱がしたりして、リモコンのカメラで何日も覗き込む行為は、客観的に見ると変態ですよね。映像の仕事をしていると、このようなタイプの人は、周りにわりといらっしゃるんですけど、スペシャルな方がいらしたもんです。なんか嬉しいですね。

ここまで完成度の高い技術というのは、出来上がった映像をむしろ自然にしか感じさせないものだということがわかります。そして、映画館で観なければ全く意味がないということでもあります。

お見事でした。

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2013年12月17日 (火)

さて、還暦の年が明けます

この文章は、この前、会社の忘年パーティーにお呼びする皆さんへ書いたものなのですが、まさに私の実感なのですね。

 

みなさま

毎年、似たようなことを申しておりますが、

早いもので、今年も大詰めとなりました。

ついこの前、桜が咲いて、そのあと、今年の夏はスペシャルに暑いねえ、

などと云ってた気がしますが、もう、年末です。

歳を増すごとの、この加速度的な記憶の不確かさです。

最近では、開き直っておりますが…

さて、12月18日 うんぬんかんぬん・・・

 

そおなんですよね。時の流れに身をまかせているうちに、今年もあとわずか。近年そのスピードはますます上がっており、来年は、いよいよ私、還暦という年になってしまいました。

実は、何年か前、たぶん2007年の10月頃に、2014年のサッカーワールドカップがブラジルに決定した時、ドイツ大会の翌年、南アフリカ大会の3年前ですけど、

2014年って、もしかして俺60歳になるんじゃないかと気付いたわけです。私1954年生まれですから、これ当たり前なんですけど。そのあと、油断したわけじゃないんですけど、あれよあれよという間に、今日にいたるんですね。はじめのころは、

「ブラジルワールドカップの年には還暦ですから。」などというと、

へえとか言ってみんな感心してたんですけど、最近は、

「あ、そお。」みたいな、何の意外性もない反応です。年相応ということでしょうか。

このまえ、新聞を読んでたら、今年の12月12日が、小津安二郎監督の50回忌なのですが、この日が生誕110周年にもあたるのだそうです。つまり、小津監督は、お生まれになって、きっちり60年で生涯を終えられたわけです。あれだけの世界的偉業を成されたことを思うに、60年という歳月の重みを感じます。ちょうど自分が来年60歳を迎えるにあたり、比ぶるべきもないことですが、感慨深い記事でありました。

 

そういえば、今書いているこのブログのようなものも、(月に1本位のペースなのでブログと呼んでいいのかということもありますが)書き始めて10年近くになります。

最初は2004年の春に20年以上通ったなじみのBARが閉めることになって、そのことを書いたのがきっかけだったと思います。

ブログというのは、2003年のイラク戦争の時に、バグダット在住のイラク女性が発するブログが有名となり大きく広がりました。まだ、フェースブックもツイッターもない頃でしたね。

自分のを見返してみると、はじめは月に一回も書いてないですね。いまだにいたずら書きのようなもんですが、一応やめないで思いついた時に書くだけで、10年するとけっこうな量になってますね。積極的に人様にお見せするようなものでもなく、多分に自分に向けてですけど、何かいろんなこと思い出すきっかけにはなりますね。付けたことないんですけど、日記の作用ってこういうことと似てるんでしょうか。ただ、ブログは基本的に誰でも見ようと思えば見れる仕組みになってるんで、書いちゃだめなことはありますよね、秘密のこととか。日々暮らしてると、いろいろ面白い事っておきるんですけど、なかなか書いちゃだめなことの方が多いこともわかりますよね。

10年暮らせば10年分の出来事があるわけで、これが記憶となってたまっていくんですが、量が増えれば薄まっても行くわけです。特にこれからは思い出す力が落ちてくるようではありますが。

まあ、そうこうしているうちに、生まれて60年の年が明けようとしています。これといった偉業もなく、ただどうにかこうにかしているうちの60年ですが、無事にここに至ったことに感謝です。

この年が皆にとって良い年でありますよう、お祈りしております。

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2013年11月27日 (水)

Ipadでみる ウォン・カーウァイ

あのAmazonが、映像配信を始めることになったそうで、すでにGyaoやTSUTAYA、また各テレビ局の参入も始まっており、何万本という映画や番組のコンテンツが、インターネット上を行きかうことになるのでしょうか。ちょっと選ぶ方は大変そうですが。

考えてみると最近あんまりレンタルビデオ屋さんに行ってないですね。まあ、わりと最近のたいていのものは、iTunes Storeでみつかるし、やはり特別のものはないのだけど、というか、そういう意味では肝心なものはなかったりするのだけど、だんだんにipadで観れる映画のラインナップは充実してきてる気がしますね。

レンタルビデオ屋をウロウロしてるうちに、意外な掘り出し物を見つけたりすることはなくなるけど、題名がわかれば探し出す手間はないし、出演者や監督の名前で検索かけるのは楽ですよね。

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先日も、ウォン・カーウァイで呼び出してみると、わりとズラッと出てきて、久しぶりに次々と観なおしました。前に検索した時には、見つからなかったので、最近そろったのだと思います。

1994年の「恋する惑星」は、香港の雑居ビルを舞台に若者たちを描き、クエンティ・タランティーノに絶賛されアメリカでの配給を決めた彼の出世作で、たしか私も、これを最初に映画館で観たと思います。この映画は2つのエピソードでできており、本来この映画で描かれるはずだった3つ目のエピソードが、次の「天使の涙」となり、これらの映画には映像作家としての彼の新しい試みがあふれています。そして忘れてはいけないのが撮影のクリストファー・ドイル。ほぼ全部の作品を担当していて、その映像が当時、相当斬新だったことを覚えています。

「欲望の翼」は、今回のラインナップには入っていませんが、1990年に公開されたデビュー2作目で、カーウァイ独特の映画スタイルを完成させたといわれています。1960年代の香港を舞台に恋愛模様を描いており、その続編といわれている2000年の「花様年華」も、これは今回のラインナップにはまだ入ってませんが、2004年の「2046」も続編とされており、このあたりは映画としてかなり見応えがあります。

この人の映画は、常に実験的で新しいという評価はもちろんあるのですが、その前に、映画としてかなりしっかりした骨太さがあります。それは、たとえば俳優が演じるキャラクターの存在感の強さだったりします。映画が俳優をどう捉えているかということに集約されるのですが、このあたりがどの映画を観ても非常に興味深いです。

「欲望の翼」の俳優たちは、当時、香港のアイドルのトップスターたちですが、映画俳優として確実にハイレベルに成立しています。監督は彼らとどのようにかかわったのか。

かつて日本でも、相米慎二監督がアイドルたちを次々にスクリーン上で映画俳優にしていったことを思い出します。

ウォン・カーウァイと関わった俳優は、多くが一流の映画俳優になっています。中国には、かつての日本もそうでしたが、映画俳優という職業が、専門職として間違いなく現存しているという背景がありますが、ウォン・カーウァイの映画における俳優には、観客をスクリーンに引っ張り込む、気のようなものがあります。

もう一つの大きな特徴は、それはもう音楽の使い方のうまさです。これは、映画を観るたびに思いますが、ものすごく生理的に音が浸みこんできます。これはたぶん多くの人が感じてることだと思います。

既成曲の使い方も見事で、「恋する惑星」の ママス&パパス(夢のカリフォルニア)とか、「花様年華」の ナット・キング・コールの3曲(アケージョス・オホス・ベルデス)(テ・キエロ・ディヒステ)(キサス・キサス・キサス)、「2046」の ディーン・マーチン(スウェイ)や コニー・フランシス(シボネー)など、60年代の曲がここぞというタイミングでかかります。しびれる。

昔、影響を受けた映画は、今見直してもやっぱりすごかったですね。

また、新たな発見もありました。「花様年華」で、トニー・レオンとマギー・チャンが密会するホテルのルームナンバーが、2046号室になってて、次回作の「2046」にちなんでたりしてます。

やってくれはります。

2013年10月24日 (木)

ちょっとどうかしてる寿ビデオ

9月28日に、たぶん今年の我社にとっては、もっとも重要と思われるイベントが行われたんですね。何かっていうと、社員同士の結婚式だったんです。小さな会社ですから、誰かが結婚するだけでけっこうな騒ぎになるのだけど、適齢期の男女がたくさんいるわりには、このところ結婚話がなくて、久しぶりの結婚式だったし、加えて社内結婚ということで、否が応でも盛り上がり、もうこのことがわかってからは、ずっとそのこと中心に会社がまわっておりました。

まあそれだけ愛されてる二人なのですが、これがどういう二人かというと、新郎は社歴7年のT田くん、新婦は社歴9年のN田さん、ちょっと姉さん女房ですけど、T田くんは入社した時から美人の先輩のN田さんのことが、ずっと気になってたんだそうです。それで、皆まったく知らなかったんだけど、3年ほど前から二人は密かにお付き合いを始めたんだそうなんですよ、これが。よく3年間もマル秘を守ったものだと感心しましたが、少なくともオジサンたちは全く気がつきませんでした。

そして、9月28日という日取りが決まり、二人は夏ごろから徐々に社内に結婚の報告を始めます。

会社の中では、オジサン達が集まる役員会というのがあって、まずそこで正式な報告がありました。8人ほどの会議で、ほとんどの人がそこで初めて聞いたのですが、皆一様に驚き、その中でも代取で親分格のマンちゃんは、完全にしばらく絶句してます。

マンちゃんは、この新婦のN田さんのことは、同郷で富山ということもあり、気が合うみたいで、新入社員のころから可愛がってたんです。

「いや、それ、認めるわけにはいかないよ、それ。」と申します。

親じゃないんだからそういうこと言う権利ないと思うし、その上、N田さんがこれを機に寿退社するということを聞いた時には、

「それ、N田じゃなくてT田が辞めるわけにはいかないの?」などと、無茶苦茶なことを言ったりする始末です。

ともかく他のメンバーで説得しましたが、この人の場合、リアルに適齢期前の一人娘さんがいらっしゃるわけで、そのことを思うとため息が出ます。

 

さて、ここから当日に向かって怒涛の準備が始まります。本来の仕事のほうもけっこう忙しかったんですが、結婚パーティーの演奏や余興の練習、それと大作寿ビデオの制作など、仕事が終わった時間に、しかも本人たちに気付かれぬようにやるわけですから、

ずっと寝不足、本番の当日には、誰も寝ないで来ております。前にも申しましたが、この会社の人たちは、そういうことには絶対に手を抜かないのですね、まったく。

だいたい、パーティーで流される寿ビデオが2本もあります。連作とかタイプ別とかじゃありません。全く別なものが、まあどちらも渾身の力作です。しかも、全社員が出演します。笑えます。

この忙しい時に、いつの間にこんなものを作っとたのだろうか。感動しますが、あきれもします。

パーティーの後半で流れたビデオは、テーマが「挑戦」ということになってるんですが、どうなんでしょう、二人でこれからの人生に挑戦して下さいってことなんでしょうか。ビデオの中身は、社員たちが次々と自分自身の限界に挑戦していくシーンがつながっていきます。いろいろです、マラソン走ったり、鯛釣ったり、息止めたり、バンジーしたり、なかなか良くできてんですけど、そのラストを飾ったのが、なんと、あのマンちゃんのスカイダイビングだったのですね。・・・圧巻です。

僕の長い友達のマンちゃんが、空飛んでます。生まれて初めて、還暦直前に。

やってくれます。・・・笑った。

その後、会社では、寿退社したN田さんが来なくなり、ちょっとさみしいですが・・

一方、競馬麻雀好きのT田くんのことを、筋金ギャンブラーのマンちゃんは、可愛がりながら指導しています。義理の父と息子のように。

ま、今年一番の良いニュースだったことは確かです。またしてもエネルギー使い切ってますけど。

Skydiving

2013年8月26日 (月)

神宮外苑花火大会

毎年、夏になると8月のどこかで、神宮の花火大会があるのですけど、

これが、うちの会社の屋上から見ると、方角といい、距離といい、ものの見事にベストポジションなんです。

そのことは、約10年前にわかったんですけど、うちの会社が六本木から今の場所へ引っ越す少し前に、仲良しの音楽プロデューサーのWナベさんに、引っ越し先の場所の説明をしたら、Wナベさんが予言者のように、

「その場所は、夏の神宮の花火がすっばらしく見えるところです。」

と言い放ったのですね。ちなみに、その時は真冬だったんですけど。

この人が神宮花火大会に関して、相当詳しいマニアックな情報を持ってらしたことは、間違いないです。で、引っ越して来てみて最初の夏、弊社がほんとに見事な花火見物ポイントであることがわかりました。

そして、それから年々私たちも盛り上がり、評判が評判を呼び、このイベントは人数的にも内容的にもエスカレートしていきました。この数年、来て下さるお客様は300名近くを数えるようになり、けっこう大量に用意をする生ビールも、他酒類も、ソフトドリンクも、毎年テーマを決めて作るツマミ各種も、ものの見事になくなります、イナゴの大群が通り過ぎた後のようにです。仕掛ける側としては、イベントが盛り上がるのは大変うれしいことなのですが、3年ほど前に300人をはるかに超えたことがありまして、その時はちょっとあわてました。そういう時って、不思議と私たちが誰も知らない人が一緒に見物してたりしてるんですけど。

花火は、19:30~20:30で、10000発が打ち上がりますが、その間、街は大混雑でして、みな、その後しばらく飲んで騒いでいかれます。

これは、恒例化している夏の大イベントです。会社としての大きなパーティーは、年に2回ありまして、一つはこの花火大会、一つは年末の忘年パーティーです。

どちらも、それなりの数のお客様が来られますが、その人数が収容できるのは、4階の屋上スペースがあるからなのです。それほど大きな建物ではありませんが、4階は半分が屋上、半分がペントハウスのようになっていて、けっこう大きめのキッチンが内包されています。このスペースがないと、いっぺんにたくさんのお客様を招くことはできないのですね。

なんで、こんなものが会社の中にあるのかというと、会社が神宮前に越してきた頃に話は戻ります。10年前、会社は六本木にあったんですが、長く暮らすうちに、少しずつ人も増えて、だんだん部屋を借り足していたら、6か所くらいに家賃払うことになってて、おまけに六本木は、六本木ヒルズの再開発で、街中取り壊されて、違う街になろうとしてました。そこで思い切って、みんなで一つの建物に入れる物件を探すことになったのです。そこで、不動産担当役員のマンちゃんが探し当てたのがこの物件でした。

実はこの時点でまだ建物は建っておらず、まさにこれから建築というところでしたが、3階建てのビルになる予定で、我々が求めていた面積に対してもちょうどよくて、一軒まるごと借りられればベストだなあということになって行きました。いろいろと賃貸契約の話をしていく中で、大家さんから、どうせなら使いやすいように、間仕切りとかの希望も言ってくださいと言われて、担当の建築家さんを連れてきてくださったんですね。

確かに、どうやって使うかを、あらかじめ自由に決めさせていただくとずいぶん助かります。

で、いろいろ相談してた時に、ふと、

「屋上はどのようになる予定でしょうか?」と聞いてみたんです。

六本木に借りてた事務所のうち、ほんとに小さな一軒家があって、それに6畳くらいの小さな屋上スペースがあって、たまにそこで詰め詰めの宴会すると楽しくて気持ちよかったので、なんか気持ちのいい屋上になったりするといいなと思ったんです。

聞いてみると、予定では、空調の室外機や、電気の変圧器とかが置かれた、普段は使うこともない何の変哲もない場所になるとのことでした。

「それ、たとえばですね、なんか夕方ちょっとビールとか飲んで、気持ちのいいスペースになったりしませんかね。」

まあ、何でも言うだけは言ってみようかと思って、などということを話してみたらですよ、すっごいこの建築家と話が盛り上がってですよ、いつの間にか、屋上は4階と呼び改められ、半分は気持ちのよい板張りの屋根なしスペースと、もう半分は屋根つきのペントハウスで、エレベーターは4階まで上がるという計画に書き換えられたんですね。

「いんですかね。」

「いいです。いいじゃないですか、これでつめていきましょう。」

みたいなことになっちゃいました。

ただ、完成した時、4階分の家賃が新たに追加されたのは当然のことでしたが、それはまあそうですよね。

そこから、4階スペースが今の状態になっていくには、何段階かがあるのですが、初めのころは、わりと普通に会議に使われてたんですね。まずだんだんに、台所の調理能力をものすご強化しました。これは、火力、冷蔵力、調理道具力、食器力、すべてです。そして、4階で料理する時の材料の仕入れは、その都度大変な量になってきました、酒もしかりで、発注の仕方もすでに玄人っぽくなってきています。仕事の流れの中でよくある、親睦の会とか、打ち上げとか、ふつうだとどこかのレストランを借りるようなことがあっても、そういう時は、まず4階で自分たちでやります。屋上の板の床は、使用頻度の多さに耐えかねて、抜けましたので補修もしております。

そして昨年、こうなったら徹底的にと開き直ったわけではないのですが、4階責任者のO桑君の発案のもと、私たちのマインドをすごくわかってくださっている、ある有名なデザイナーの方が、4階大改装をやってくださいました。4階すべての、壁、床、天井、照明、机、テーブル、家具、キッチンなどを、本当にただただ居心地よく楽しくなる形にしてくださり、おまけに、屋上部分には、これも嬉しい炭焼きコンロ台と、いっぺんに大量のベーコンを作ることのできる大型燻製窯を設置してくださいました。

もういつでも完璧に私たちの宴会ができる風景になっています。

どちらかというと、もうここであまりシビアな打ち合わせはできないかなとも思いますけど。

えらく大好評だし、まあいいかなと。

Kunseigama_9

 

2013年7月12日 (金)

わたしと自動車のこと 余話・ヤマちゃんのシビック

このまえ、車のこと書いてて、いろいろ思い出したことがあって、そのうちの一つなんですけど、最初に就職した会社にある先輩がいて、その人が乗っていたホンダシビックという車のことなんです。当時HONDA CVICって、CMもかっこよくて、ルイ・アームストロングのWhat a Wonderful Worldの歌声が印象的で、若者にすごく人気があったんですね。

この先輩は、皆から親しみをこめてヤマちゃんと呼ばれてるんですけど、私が会社に入って一年くらいは、ほとんど会社で会うことがなくて、たいてい南の島でロケしてるか、そうじゃない時は、個人的にスキューバダイビングに行ったりして、いつも日焼けしてて、基本的にあんまり会社に来ない人だったんです。

ところが、一年くらい経った時に急に呼ばれて、この人の仕事に着くことになり、そのあと、かなりたくさん仕事をさせてもらうことになります。それから、かれこれ35年くらいになりますが、ずっと師弟関係で、いまだに同じ会社で仕事してますから。

それはいいんですが、その頃この先輩ヤマちゃんが乗っていたのが、ちょっとCMのイメージと違うHONDA CIVICつやなし紺色バージョンだったんです。

私はこの人の仕事の助手であり、部下というか子分のようなことなので、このシビックで2人でどっか行く時には、私が運転することになるんですね。

はじめてこの車のハンドルを握った時、ヤマちゃん先輩から、

「えーと、この車、信号待ちとかで停まってるときもアクセル軽く踏んどいてね、そうしないとエンジン止まっちゃうから。」と云われました。

ためしに、クラッチ切ってアクセルから足を離すと、エンジンは止まってしまい、

「いや、だから、右足は常に軽く踏んでなきゃ。」みたいなこと云われ、エンジンを掛け直すことになります。ま、ようするにアイドリングが低すぎるんですね。

まあ、これはやってるうちにコツがわかってくるので、慣れればいいんですけど。

実は、運転席の窓に問題がありまして。高速道路の料金所で、料金払おうとして窓あけるじゃないですか。パワーウインドとかじゃないから手動でハンドル回すんですけど、するとどうでしょう、一回ししたとたんに窓のガラスがストンと落ちて閉まらなくなってしまいました。料金所のおじさんが笑ってるのはいいんですけど、そのあと高速道路走ると、ものすごい勢いで風が入ってくるわけです。ちなみに真冬です。

ヤマちゃん氏は、

「前にもこうゆうことあったんだよな。」とか云ってます。

それで、また一週間ほどしたときに、私、またシビック運転することになったんですが、窓見ると、ガラスがガムテープで固定されてるわけです。氏は、

「応急処置ね。」とか云ってます。

で、また高速道路に乗るんですが、料金払う時は、私、車降りてからお金払うわけです。

ETCとか発明されてない頃の話です。料金所のおじさん爆笑してます。

そんなことがあって、先輩の車もいろいろ変わっていくんですけど、ある時、中古ですけどベンツを買われたことがあったんですね、突然。

いやあ、直属の上司がついにベンツかあ、と、感慨深かったんですが、このベンツにもやはり弱点がありまして、いつだったか、伊豆の山の中の坂道を登っていた時に、後ろから来たみかん満載した軽トラックに、おもいっきり抜き去られたことがあって、わりと登り坂に弱かったんですね。

私も人のことは言えませんが、あの頃、私の周りには、いろいろに面白い車に、だましだまし乗ってた人、わりといました。

先輩の名誉のために言っときますけど、今は、それはそれは立派な、パキッとした車に乗ってらっしゃいますよ。パワフル高速安定走行、窓はもちろんパワーウインド、ドイツ製ですから、ほんとに。Civic_2

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