2015年2月26日 (木)

高校3年の時につくった8mm映画

ちょっと前のことなんですけど、正月の3日に高校3年生の時の同窓会があったんですね。私、考えてみるとこれまで同窓会というものに出たことがなくてですね、中学までは転校が多かったもので、幼馴染とはだいたい音信が途絶えてるし、高校だけは消息のわかっている友達が何人かいるんですが、卒業してからずっと故郷を離れていて、同窓会の知らせを受けても、出席できたためしがありませんでした。今年はみんなして60歳になることだし、都合を合わせるから帰って来いと友達が云ってくれたので、そこに合わせて帰郷しました。地元にいる同級生は、たまに集まってるようなんですけど、私はほぼ40年ぶりで、いささか緊張しました。

この日集まったクラスメイトは、10名ちょっとで、ほとんどの人が卒業以来の再会です。一人一人じっと顔見て名前を名乗ってもらって、すぐに思い出す場合もあるし、なんかじわーっと思いだしてくる場合もあって、でも、最終的には全員思い出すことができました。まあみんな年取ってますし、60歳ですから、何だか不思議な体験です。

私以外のみなさんは、お互いたまに会っているようなので、自然と私が卒業してどうしていたかみたいな話をすることになるんですけど、そうはいっても40年間の話を一気にするわけにもいかず、ところどころということになります。

あとは、みんな高校生に戻って、あの頃どうしたこうしたという思い出話に花が咲くんですが、これも人によって、よく覚えている話とそうでもない話があったりして、なかなかかみ合わなかったりもします。40年経ってますから。

そもそも高校の3年生という時期は、受験があったりして忙しいのと、授業のカリキュラムも、理系と文系とかに分かれていたりで、なんかまとまりのいい時期じゃないんですよね。

Eishaki

でも、なんだか色々に話してるうちに、共通に盛り上がる話題が出てきたんですね。それは、高3の夏前だったか秋口だったかに学園祭があったんですけど、うちのクラスは8mm映画作ったんです。けっこう大変だったし、全員参加で作ったんで、みんなそれぞれに思い出があるわけです。

誰かが、私が監督をやったんじゃないかと云ったんですけど、どうもそうではなくて、だんだんと思い出してみると、なんかオムニバスのような作りになっていて、いくつかの話をみんなで手分けして撮影したように思います。自分達で、出演して、撮影して、編集して、一本につないで、音つけて、たぶん音は音で、オープンリールのテープに入れて、上映は画と音をよーいドンでまわしたんだと思います。

撮影機材は、クラスメイトの誰かのお父さんが、8mmのカメラと映写機を持っていて、それを借りたらしく、音の方は、皆のオーディオ機材やレコードをかき集めてやったんだっけか。

だんだん思い出してきました。

そういう素人映画なんだけど、いざ一本の映画を完成させることになると、大変は大変なわけです。連日学校で夜中まで作業していて、進路指導の先生から、受験の大事な時に何考えてるんだと、説教されたこともあったようでした。わりと受験校だったし、なんとなく思い出してきましたが。

そんなことをワイワイ話してるうちに、少しずつ自分がやったことも蘇ってきました。私が映画を作ろうって言い始めたのかどうかは、わかんないんですが、どうも企画書のようなシノプシスのようなものを書いた記憶があるんですね。

で、テーマは「自殺」だったんです。

だけど、繊細でナイーブな思春期の高校生が、何か思いつめてこの題材をとらえたということではなく、茶化してるわけじゃないけど、相当そのことを軽くとらえていて、どっちかっていうとモンティ・パイソンみたいなことがしたかったように思います。

この年、1972年でしたが、

1970年11月には、有名な三島由紀夫氏割腹自殺があり、1972年4月には、川端康成氏のガス自殺もありました。はやりと云うには不謹慎ですが、そういった大事件に影響されたことはあったかもしれませんね。私、映画のなかで割腹シーンを演じたと思いますし、ナレーションもやった気がします。アサハカ。

 あの映画、その後どうなったんだろうねと云う話になりました。映写機とカメラを提供してくれた級友がまだ持ってるんじゃないかという話も出ましたが、正確には、42年と数カ月経ってますから、フィルムは酸化して風化してるんでしょうね。

もし残っていたら皆で見たいねと云う仲間たちですが、60歳のおじさんやおばさん達が集まって、時をかける少年少女になって、高校時代の8mm映画を見つめている姿は、ちょっと不気味ではあります。

でも、怖いもの見たさでちょっと観たい気もするかなあ。

 

2015年1月22日 (木)

お酒は20歳を過ぎてから

私事ですが、この前、倅が成人の日を迎えまして、親として何をするわけでもないのですが。その日、彼はネクタイを締めて、出かけて行きまして、仲間と騒いで、夜中に帰ってまいりました。

娘の方は、4年前に、振袖着たところを、写真に撮った記憶がありまして、うちの子は二人とも成人になりました。歳月を思えば、20年ですから、かなりの時間を要しているのですが、男親というのは、肝腎な時にはおらなかったりもして、何だかあっという間な気もします。

この国は少子化が進んでおり、この先、18歳で選挙権を、ということにもなってきそうですが、その場合、18歳で成人ということになるのでしょうか。武士の時代の元服を思えば、昔はもっと早かったわけで、それはそれでありかと思うんですが、何をもって大人とするかというのは、多分にそれぞれの気分的なものではあります。

自分が20歳の頃には、大人になんかなりたくないぞ、とうそぶいており、その割には、10代の頃から酒もたばこもバリバリにやって、粋がっておりましたから、世間から見ると、めんどくさい若造だったように思います。

今の若者も、20歳前から酒を飲んだりしていますが、倅や娘を見ている限り、多少失敗はしていますが、たいしたことはないですよね。

自分達の頃は、男子、大人になったら、酒、煙草という時代でしたし、他に娯楽もあまりありませんでしたから、何かっていうと酒飲んでましたね。筋金入りに酒飲む大人も、まわりにいっぱいいましたし。

でも、なんであんなに飲んでたんでしょうか。若い頃の飲み方は、本当にどうかしていましたですね、我ながら。

学生の頃はだいたい貧乏してますから、そんなには飲めないんですけど、仕送りが来たり、友達に仕送りが来たり、バイトのお金が入ったり、博打に勝ったりすると、ドカンと飲むんです、まあその程度です。

働き始めると、多少お金の融通は利くようになるんですけど、自由になる時間がなくなって、短時間でのストレス解消としては、なにかと飲むことだったりして、寝る間を惜しんで飲んでましたね。

夜中に飲める場所を探しては、明け方まで飲むわけです。仕事場のあった新橋は、だいたい終電には店が閉まってしまうので、原宿や六本木や青山や新宿あたりで、引っ掛かっていることが多かったです。仕事の流れで、一緒に仕事をしている人たちと、飲んで語ったり騒いだりなのですが、誰もいない日は一人でもどっかに引っ掛かってました。まあこうなると、一種の習慣ということになります。

それに、自分は若い時から、なぜか酒と船酔いにはやたら強くて、飲んでもなかなか酔わないんですね。そこで、けっこうなピッチで飲むわけです。 空腹で酒飲んだ方が効くんで、食べ物は食べません。私の席だけ割り箸が割られていないということがよくありました。このあたりから、ある種、悪循環になって、ますます酒が強くなるわけです。

そんなことで、やたらと強い酒を飲むようになりまして、バーボンなら、ワイルドターキーやI.W.ハーパーをロックで、ラムならロンリコ、ジンならボンベイ・サファイア、ウォッカは、スミノフやストリチナヤなんかで、唐辛子入りウオッカというのもあったなあ。ともかく、度数の高いのをガンガンいくようになります。

基本的に昼間は働いていて、だいたい夜遅くまで働いてるし、出張もよくあって、休みの日も働いてることが多かったし、仕事が終わると、たいてい酒場にいましたね。寝不足が続くと、そのままどこかのバーで眠ってしまうことがよくありました。あちこちのバーにツケがたまります。

そういう暮らしで、タバコは日に40~50本吸ってましたから、ほんとに不健康でした。若かったとはいえ、それで風邪ひとつ引きませんでしたから、よっぽど身体が丈夫だったんだと思います。一日メシ食べそこねて、そのまま夜バーで飲んでたりすることもあって、その頃、ビタミンとかも酒から摂ってるんだという冗談も笑えませんでした。病気はしませんでしたけど、痩せてましたね、顔色も悪かったですし。

そんな1990年頃でしたか、中島らもさんという作家が、「今夜、すべてのバーで」という本を出したんですけど、これがアルコール中毒を題材にした物語で、らもさんが実際にアル中になった体験が元になっているので、すごく描写がリアルな小説で、本としてはよく書けてるんですけど、これ読んだ時すごく怖かったんですね。

で、気が付くと、私も30代半ば過ぎてきてるし、ちょっと反省したんですね。調子の悪い時は手が震えることもあったし。思えば、酒のことではそれまでにいろいろ失敗もしてるし、ここには書きませんけど。酒飲むのは飲むとしても、もうちょっと何とかしなきゃと思ったわけです。

もっとも、もうすでに人の一生分の酒は飲んでしまった気もしますし、もう飲まなくてもいいようなもんですが、煙草もやめたし。ただ、10代から飲み続けてここまで来ると、酒やめた人生ってどんなもんなんだろうか、ちょっと想像つかないところがあるんですね。昔みたいに、酒飲まないで寝ると、すごく恐い夢見たりすることはないですけど。

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まあこれからは、美味しくお酒をいただくということをテーマにして付き合っていこうかと思っております。お料理に合わせたりとか。

もういい歳ですから、ほんとに。

お酒は20歳を過ぎてからって言いますけど、20歳過ぎたからといって、お酒の飲み方は気をつけましょうよね。

2015年1月 5日 (月)

1996「トキワ荘の青春」

昨年11月に、目黒シネマという昔からある映画館で一週間ほど、「市川準監督特集」が、開催されました。

早いもので昨年の9月が、市川監督の7回忌にあたり、また、8月には市川組の名キャメラマンであった、小林達比古氏が亡くなられており、それは、お二人を追悼する上映会でありました。

お二人が作られた「病院で死ぬということ」と「トキワ荘の青春」を観ましたが、あらためて、どちらも名作でした。そして、最近では少なくなったフィルムでの上映であり、お二人が愛されたフィルム上映のしっとりした味がよく出ていました。

実は、この「トキワ荘の青春」という映画に、私は不思議な関わり方をしておりまして、1996年の公開以来18年ぶりに見せていただいたのですが、懐かしさとともに、いろいろ確認したいこともございました。なんというか私この映画に出演しておりまして、しかも、けっこう重要な役で、たくさんセリフもあったりしてですね。最初に市川さんから電話をいただいたときには、真顔で、「それは、無謀です。」と申し上げました。

だいたいどういう理屈か意味もわかりませんし、でも、思いとどまっていただこうと、いろいろ話してたら、市川さんが怒り始めて、

「そんなことはわかってる。だからさんざん考えた上で頼んでるんだ。」

とおっしゃいました。そういう空気になると、前々から尊敬している監督だし、意味わからないなりに、

「わかりました。」と云うしかなかったんですね。

市川監督とは、その少し前から、CMの仕事をご一緒してたんですが、市川さんは、すでにCM業界から才能を見出された映画監督として、有名になられておりました。

私は、その前年に市川さんが撮られた「東京兄妹」という映画の時に、その作品のなかに出てくる遺影の役で出させていただいたことがあって、遺影の役って言葉的に変ですけど、その時何枚か写真を撮っていただいて、映画のなかにその写真が出たことがあったんですが、映画の経験はそれしかありませんでした。

そうこうしてるうちに、映画「トキワ荘の青春」の撮影は、はじまりました。

この映画は、実話をもとにしていて、昭和30年代にトキワ荘というアパートに集った漫画家志望の若者たちを見つめながら、彼らのなかから、売れっ子の漫画家になっていった者や、漫画雑誌という新しいメディアのなかで、埋没していった者など、さまざまな青春模様を描いています。

時代考証がかなり厳密にされていて、美術も衣装もていねいに作られており、フィルムのタッチも流れている音楽も、まさにその時代が再現されています。この中で私がする役は、トキワ荘の若者たちと関わる雑誌編集者の一人なんですけど、かなり重要な役なんですね。ほんと、参ったんですけど。

ただ、こうなったら四の五の言ってる場合じゃないですから、まわりのスタッフや、いっしょに出てる役者さんに迷惑をかけないことを、肝に銘じてやるしかないわけです。まあ、これは映画ですから、最終的に出来上がったものは監督が責任取るわけですから、ハイ。と、開き直ったわけです。

自分のことは置いといて、18年ぶりに観た映画は、本当にいい映画でした。昭和30年代というあの懐かしい時代に、漫画家を目指した若者たちの静かな情熱が、たんたんと描かれています。そして、それはまるでドキュメンタリーのようでもあります。

主役の寺田ヒロオさんを演じた、本木雅弘さんの抑えの利いた演技がすごくよくて、でも当時有名な役者さんは本木さんだけで、ほかの漫画家たちは、藤本弘役の阿部サダヲも、森安直哉役の古田新太も、鈴木伸一役の生瀬勝久も、その頃の小劇場の若手の有望株でしたが、一般には知られていない無名な若者たちでした。大きな声で目立った芝居をする人も誰もいません。声が小さいのは、その頃の市川準監督の映画の特徴でもあります。

それと、ドキュメント的な作りなので、カットを割りません。だいたい引き画の1カットでシーンが構成されていて、これ、引いた画が多くて、役者は声小さくて、監督が同録の音にこだわる人でしたから、録音部は毎回死ぬ思いして音拾ってましたね。美術も衣装も照明も、一事が万事そういった細やかな作りで、ラッシュ見ると、くすんだいいタッチなんです。音のトーンも画のトーンも、そうやって丁寧に丁寧に抑えて作られていて、なんていうか見事な市川節になってるんですね。ほんとにしぶとい方でしたから。

たぶん監督は、この時代のトキワ荘で起きた出来事を風景のように撮りたかったのかもしれませんね。作り込んだドラマというよりは、そこで起きたことを、ただ客観的に見てきたように。

そう考えると、主役の本木さんはともかく、出てくる人たちはその頃の市井の人々の顔にしたかったのかもしれません。そういう方針のもとに作られたとしても、私が出していただいたことが、この映画の役に立っているのかどうかは、結局よくわかりませんでした。18年ぶりに確認してみようと思ったんですが。

もっとセリフもちゃんと言えて、適任者がいたのではないかとは思うのですが、すでにこういう形で完成してるのですから仕方ないですね。やっぱり開き直るしかないです。たとえ監督があのキャスティングだけは失敗だったなと思っていたとしてもです。

当時、恐ろしくてそんなこと聞けませんでしたし。

ただ、あの名作の出演者に名を連ねていることは、ともかく誇りであります・・・汗。

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2014年12月 6日 (土)

高倉さん 逝く

なにか書こうとすると、すでに亡くなった方の話になりがちなのは、自分が60歳という年齢であれば無理からぬことと思いますが、また、大きな訃報です。  

高倉健さんが、83歳で身罷られました。

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1931年は昭和6年の生まれですから、まさに私の親の世代です。大学を出たものの就職難の時代で、なかなか勤め先が決まらず、面接を受けた先で、偶然映画会社の人にスカウトされたのが映画俳優としてのスタートだそうです。うちの父も大学を出た時は、空前の就職難だったと云っていたので、同じ頃だったのでしょう。

映画スターとして頭角を現すのは、1963年頃からの任侠映画で、その後1965年からは人気シリーズ「網走番外地」が始まっています。その頃小学生だった私がそれらの映画を見ることはなく、この方はテレビに出ることもなかったので、もっぱら映画館の看板やポスターでお見かけするのみでした。

そのあと、70年安保をめぐる社会情勢下で、寡黙なアウトローが、数々の仕打ちに耐え、筋を通し、ついに堪忍袋の緒が切れて、復讐を果たす姿は、学生運動に身を投じる学生やサラリーマンなど、当時の男性に熱狂的な支持を集め、オールナイト興行にも立ち見が出た話は伝説でありました。その頃まだ私は大人の仲間入りをしてはおらず、それらの映画を観ることになるのはしばらく後のことです。

初めて映画館で、高倉さんの映画を観たのは、1975年の「新幹線大爆破」だったかもしれません。その頃彼が所属していた東映という映画会社は、完全に実録やくざ路線にシフトされていて、このままではやくざの役しかできなくなると考え、高倉さんは1976年に会社を辞めて独立します。45歳、まだ学生だった自分から見ると完全な大人の男でした。

映画産業は、すでに斜陽と云われていましたが、ファンを多く持つ高倉健さんに多くの映画関係者は期待をしました。独立後、彼の代表作となる作品が次々に制作されていきます。

1977年には、「八甲田山」と「幸せの黄色いハンカチ」があります。「八甲田山」はオールスター超大作、冬の八甲田山に極寒のロケを敢行した話題作で大ヒットしました。でも、私は働き始めた年でしたし、忙しくて金もなくて、封切りで観ることはありませんでした。何年か経って観たとき、なるほどすさまじい映画だと思いました。のちのちまで語り継がれる力作で、監督 森谷司郎、撮影 木村大作の代表作となります。

「幸せの黄色いハンカチ」は、なんとなく空いた時間に偶然映画館に入って観ました。何年か前にヒットしたアメリカのポップス「幸せの黄色いリボン」という唄の歌詞が元になった話だということは知ってましたが、予備知識はそれくらいでした。しかし、ちょっとどうしちゃったんだろうというくらい涙が出たんですね。この頃の私はわりと冷めた奴だったし、あんまり映画を観て泣くようなことはありませんでしたから、ちょっとあわてたほどです。たいていの人はラストシーンの黄色いハンカチがはためくところで泣くんでしょうけど、私は、そのしばらく前のシーンで、健さんが目的地の夕張を目指して車が走り出したときに、道路標識の夕張という文字が出ただけで泣いてしまっております。まあそれだけこの高倉さん演じる島勇作という人物に感情移入しちゃったんでしょうけど。山田洋次監督の、ていねいな脚本と演出と、健さんが精魂こめて演じた主人公が、この作品を映画史に残しました。もちろん倍賞さんも素晴らしいのですけど。

この3年後、監督山田組は、高倉さんと倍賞さんで、もう一本「遥かなる山の呼び声」という映画をつくります。私は迂闊にもその映画を見落としていて、その数年後にテレビで放映されたものをビデオで留守録画して観たのですが、2時間半の番組を2時間のテープで録ったので、最後の30分がありませんでした。これはどうしてもラストまで観たいのですが、その時まだこの作品はビデオ化もされておらず、とにかく、この2時間半をきちんと録画した人がいないか、必死で聞いて回りました。すると、一人きちんと3時間のテープを使って録画してる人がいました。この人は私の会社の後輩だったんですけど、当時からなにかと頼りになる人で、この映画の最後の30分を見ずして、この映画を観る意味はありませんよと、彼は云いました。そうですか、ありがとうございますと申して、うち帰って残りの30分を観ました。彼の言うとおりでした、このラストシーンには参った。声が出るほど泣きました。夜中に一人こたつに入って泣いたです。

なんかいかに泣いたかみたいな話ばかりになってしまいましたが、この時に、山田監督も、高倉さんも倍賞さんも、とんでもない人たちなんだという認識を新たにすることになります。

健さんは、この頃から、年に一本くらいのペースで、ていねいにていねいに映画を作るようになります。そして健さんは50代になり、日本映画界に不動の地位を築いていきます。

そして1989年には、あの「ブラック・レイン」に出演します。やがて60代になり、今まで以上に作品を選び、より丁寧に仕事に向き合い、映画を一本撮り終えると、燃え尽きたようになって、しばらく姿を隠しました。誰かを演じるということより、その主人公を自分のなかに取り込んでしまう、それも全身全霊だから、仕事が終わると抜けがらになってしまうんでしょうか。

どなたかおっしゃってましたが、高倉健さんは、どんな役をやっても高倉健さんになるんですというのは、本当だなと思います。他にいないですよ、こんな映画俳優はちょっと。やっぱりなんか特別の人なんですよ。

205本の出演作、そのうち60代の映画が3本、70代の映画が2本、80代の映画が1本、これが遺作となります。

 

NHKの追悼番組で、高倉さんがインタビューに答えてらして、ご自分の世代の話をされたときに、高倉さんが育った九州の炭鉱町では、事故があったり祭があったり、何かっていうと、そのあたりで死体を見るような時代でしたよとおっしゃいました。

僕たちの知らない親たちの時代の話でした。

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2014年10月15日 (水)

「寅さん」というプログラムピクチャー

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今さらですが、「男はつらいよ」という映画は、すごいなあと、この間しみじみ思ったんですね。そんなこたあ、お前に云われなくても、1969年の第1作から第48作まで26年間、大ヒットを続けていたわけだし、1995年にシリーズを終了した後も、その評価は変わることなく、ずっと絶大な支持を受けていたわけで、今頃になって何を寝ぼけたこと云ってやがる、などと云われそうで、まあ語りつくされてることではありますが、ちょっと語ってみたくなったのですね。

このところ、BSで毎週土曜日の夜に、ずっとこのシリーズを放送してたのは知っていて、たまに観てたんですが、それほど集中して観ていたわけでもなく、ときどきつまみ観をしてたんですね。何度か観てるうちに、ふと、この映画って、やっぱりちょっとすごいなと思ったんです。

なにかと云うと、この映画にはこの映画にしかない 間(ま)があるんですね。

映画を見始めると知らないうちに、こっちがストンとその間(ま)のなかに入ってしまいますね。山田洋次監督の間(ま)なんでしょうか。渥美清さんの独特の間(ま)なんでしょうか。このシリーズの出演者たちが作ったもんなんでしょうか。それは、映画として語られるお話の間(ま)だったり、登場する人と人との間(ま)だったり、セリフの間(ま)だったり、いろいろなんですけど、観る側は心地よくその間(ま)にのみ込まれてゆくんですね。

第1作が公開された頃、私は中学生でしたが、とくにこの映画を観ることもなく、高校生の時はわりと映画少年だったんですけど、このシリーズにあまり興味もなく、高校卒業するころになって、受験勉強さぼって初めて観たのが、第10作だったと思うんですね。でも、この映画けっこう笑ったんです。マドンナ役は八千草薫さんで可愛らしくて、喜劇映画としてよくできてるなあと思ったんです。

年表を見ると、このころから、このシリーズはお盆とお正月の書き入れ時の公開に定着していきます。確実に観客をつかみ始めたのかもしれません。松竹という映画会社を支えているのは「男はつらいよ」であると言われ始めたのもこのころでしょうか。

それから私は、進学して上京し、このあとも時々「寅さん」を観るようになりました。20代になり、少しは大人になっていったのでしょうか、この喜劇は、何だか少し悲しいなと思うようになります。いつも、地方の風景と、葛飾柴又の風景と、とらやの茶の間が舞台で、いつもの人たちがいつものように出たり入ったりする、これといって何も変わらない、でもおかしくて、なんだか悲しい映画。

特に、このころ観た、吉永小百合さんや浅丘ルリ子さんが出演したシリーズは、名作でした。そのあと社会に出て働き始めて、またあんまり観なくなったりして、でも、出張先の地方の映画館で、一人でフラッと観て、そういう時はやけにしみたりして。

そのうちビデオでも観れるようになり、この映画は、ずーっと何となく付かず離れず存在してたように思えます。

気がつくと、こちらも30代も半ばになった頃、1990年から「男はつらいよ」は、お正月映画として年に1回の公開になり、脚本的にも、この頃から寅さんの甥の満男の恋が描かれるサブストーリーが作成され始めました。これは後になって知りましたが、病気がちになった渥美さんの体力を考えてのことだったようです。

渥美さんは、車寅次郎を、41歳から67歳まで演じて幕を閉じました。

最終回のラストシーンは震災にあった神戸の街でしたから、1995年の年末でした。

このシリーズが終わってから、すでに20年ちかく経とうとしています。

この先も、これだけ続くプログラムピクチャーは、もう作れないでしょうね。

そして、これだけ続くには、続くだけの理由があったと思います。

あらかた笑った後で、ちょっと切なくなる気持ち。

切ないから、ともかく笑ってしまおうという気持ち。

監督の山田洋次さんは、インタビューで、終戦直後、引揚者として毎日つらかった少年時代に、大人たちがその中から笑いを見つけて、笑うことで元気を出して励ましあうのを見て、それが自分の笑いの、喜劇の原点かもしれないと言われていました。

考えてみると、喜劇ってそういうとこありますよね。

2014年9月12日 (金)

リバティ・バランスを射った男という映画

年とると、子供の頃の記憶がどんどん遠くになっていくんですけど、たとえば子供の時に見た映画のことを、どれくらい覚えているのかという興味がありまして、ちょっと考えてみたんですね。

なんせ私の幼少期というのが、映画産業最盛期でして、1950年代から1960年代初頭なんですけど、映画観客数が年間で10億人を超えてまして、人口が1億に満たない頃ですから、1人が1年間に10回以上映画館に通ったことになります。テレビが急激に普及するのが東京オリンピックの1964年頃ですから、その前は娯楽といえば映画だったわけです。その頃、映画館は7000館以上あって、私が住んでいた、当時は中央線のはずれの西荻窪にも、2軒の立派な映画館がありました。

そんな頃でしたから、子供もよく映画館に行ってたんですね。子供向けのアニメーションや怪獣映画も名作がいろいろあったんですが、うちのオヤジがかなりの映画好きだったもんで、自分が観たい映画に行くときに、やたらと私のこと連れていきまして、おまけに、こっちはようやくひらがなが読めるかどうかの時に、ほとんどが字幕の外国映画だったんです。でも、全然いやじゃなくて、非日常っていうか、ホント楽しかったんですよ。ほとんど忘れてると思うんですけど、不思議と断片的に記憶に残ってるシーンとかがあって、これ多分1959年に作られた「刑事」というイタリア映画なんですけど、ラストシーンで刑事と連行される犯人の車を、きれいな女の人が走って追いかけていて、ここでかかってる曲が“アモーレ、アモーレ、アモーレ、アモレミーオ”って唄っていて、この曲、有名な「死ぬほど愛して」という曲らしいんですが、すごくそのシーンだけよく覚えてるんです。ミステリーだし他は意味わからなかったんでしょうけど。で、調べてたら、そのきれいな女の人は、あのクラウディア・カルディナーレで、デビュー作だったようですね。まあ、そんな映画が何本かあってごちゃごちゃに頭の中に入ってるんですね。

そうこうしているうちに、小学校にも上がり、映画鑑賞にも慣れてきたのか、映画に対して妙に理解力のあるガキになっていきます。相変らず字幕はあんまり読めないんですけど、慣れってあると思いますね。

 

その頃「リバティ・バランスを射った男」という映画がありまして、その映画のことすごくよく覚えてるんですね。そこで、その映画観てみようと思ってアマゾンで検索したらすぐあって1254円で簡単に手に入りました。そこで、自分の記憶がどれくらい確かなものか、試してみることにしました。半世紀ぶりですが。

これが、意外と間違ってないんですね。細かいこと云えばちゃんとわかってなかったとこも多々あるんですけど。大筋だいたい正しかったと思います。

これ、どういう話かというと、西部劇なんですが、主人公はランスという青年で、東部で法律を勉強して志に燃えて西部のとある町にやって来ます。しかし、この街は、法律も整備されておらず、たよりない保安官が一人いるだけの無法地帯なんです。この街に暮らす小さな牧場主のトムは、「自分の命は、自分の銃で守る。」という考えの西部の男で、ランスとは対照的なもう一人の主人公です。そして、この土地の無秩序を体現している無法者が、リバティ・バランスと云う男なんです。

物語は、上院議員として大成したランスが、かつて馬車でやってきたこの街に、鉄道で帰ってくるところから始まります。それは、トムの葬儀に出席するためでした。トムの晩年はちょっと寂しいもののようで、時が流れてしまったことを感じさせます。

かつてランスは、弁護士として、この街の法を整えようとしますが、ことごとくリバティ・バランスによって破壊されてしまいます。度重なる暴力の末に、ランスは銃を手に無法者と決闘することになります。とても勝ち目はありません。しかし、ランスはリバティ・バランスを打ち倒すんです。

でも、この時、実は物陰からリバティ・バランスを射ったのはトムだったんです。東部の男と西部の男はずっと相容れない対立軸にいましたが、西部の男は、西部の象徴である銃で東部の男の命を救い、東部の男は政治家として、西部の法治化を進めることになります。

ランスを演じているのは、ジェームス・スチュアートで、ヒッチコックの映画で、数々の重要な役を演じていて有名ですが、洗練されたインテリのイメージが強く、まさにこの役にピッタリです。そして、西部男を代表するトムが、ジョン・ウエインというのもこの上ないキャスティングです。この映画の時代背景は、鉄道の普及とともに西部が開発されて整備されていく時代であり、その時代に置いていかれる西部の男の哀愁のようなものが、ジョン・ウエインに漂っています。

リバティ・バランスを演った リー・マーヴィンもはまり役で、憎むべき悪役を見事に演じ切っています。主役の二人に比べると、年も15歳くらい若く無名でしたが、この役で、ジョン・フォードに認められてスターになるきっかけを掴んだみたいです。

調べてみると、この映画は西部劇の中でも名作と云われていて、名匠ジョン・フォードが、ジョン・ウエインと組んだ20本の映画の最後の作品であったようで、1962年の公開ですが、ジョン・フォード68歳、ジョン・ウエイン55歳、ジェームス・ステュアート54歳と、円熟期で、あらためて観るとよく練られた渋い映画であります。

小学2年生の私は、彼らの現役時代にギリギリ間に合った感がありますが、小学2年生にこの映画のどの部分が響いて、どう感動したのか、今となってはよくわかりません。

ただ、ずっと覚えていて、わりに正しく理解してたのは確かですが。

ちょっと思ったのは、私の中では、西部の男たちの哀愁みたいなものが強くて、たぶん時間が経つとともにそれが醸成してウエットな印象が残ってたかもしれませんが、実際観てみると、もうちょっとカラッとしたアメリカ映画だったわけで、そこは日本人のせいでしょうかね。

DVDを観ていてひとつ気がついたんですけど、リバティ・バランスの子分の一人が、ジョン・ウエインに一発でのされてフレームから消えちゃうんですが、この人が、あのリー・ヴァン・クリーフで、のちにマカロニウエスタンで大スターになって、サントリーのウイスキーのCMにも出てた人なんです。こういうの見つけると、なんか得した気持ちになりますよね。

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2014年8月13日 (水)

やはり暑い 広島篇

えー、毎年この時期になりますと、毎度同じ話で恐縮でございますが、いや、暑いですな。

今年は私、還暦ということもあり、いろいろな方からお誕生日のお祝いをしていただきました。この場を借りましてお礼申し上げます。

しかしながら、7月28日とは、ずいぶんと暑い日に生まれたものだと思います。60回もやってきましたこの誕生日、はじめのころはよく覚えちゃいませんが、覚えてる限り、たいていの場合、酷暑です。まず、梅雨は明けてますし、だいたい晴れ渡った青い空に入道雲なぞありまして、蝉しぐれですな。思えばうちの母親も、ずいぶんと暑い日の出産で大変だったと思います。この場を借りてお礼を申します。昭和29年といえば、エアコンはないですし、一人流産した後の初産ということで、広島の実家に帰ってのお産だったそうで、この実家の縁側の横の畳の部屋で生まれたんですが、この部屋がまだ残ってるんです。考えてみるとすごいことですが。

でまた、広島の夏というのがスペシャルに暑いんです。瀬戸内の夕凪というのがありまして、海風から陸風に代わる無風状態を云うのですが、夏はこれがかなり長時間に及ぶんです。いわゆる夕涼みというのができない。私が広島に住んだのは、中学1年の2学期から高校卒業までなので、6年の経験でしかないですが、どの年も暑かったです。

もっとも暑い、夏のピークは、夏休みが始まる頃の7月の20日くらいからお盆過ぎの約一カ月です。私が生まれた年の9年前の昭和20年の夏のさなか、8月6日に広島には原爆が投下され、そして15日に終戦を迎えます。私の生まれた夏にはまだまだその記憶が濃く残っていたと思います。

最近、爆弾を投下したB-29の最後の乗組員が亡くなったと聞きました。その人のインタビューもありましたが、アメリカの記憶はあくまでも飛行機から見た空からの風景でしかありません。このことを語るとき、やはり地上の生き物として体験したことを記憶としてきちんと残さねばとおもいます。

そんな事をかんがえながら、しばらく前に読んだ重松清さんの「赤ヘル1975」という小説を思い出しました。いい本だったんです。

1975年、広島カープが1949年の球団創設以来の初優勝をする年、原爆投下からちょうど30年後という年の、ひと夏のお話です。この年の春、東京から広島に 転校してきた中学一年の少年が主人公で、広島市内のカープファンの同級生たちとの間に芽生える友情や、原爆とのかかわりの中で暮らす街の人々の悲しみなどを知ることで、広島というある意味特殊な街を、少しずつ理解し、溶け込んでゆく様子が描かれています。

私は、1975年ではありませんが、1967年に中学一年生で、広島に転校してきた少年でして、その前にさんざん転校もしていて、この小説に描かれている少年、マナブ君の気分がとてもよくわかりました。

個人的には、まさにあの頃を思い出す気持ちでした。

私は、広島に5年半ほどおりましたが、この13歳の主人公は半年ほどで広島を去っていきます。広島でいろいろな体験をし、原爆のことも知り、成長をし、せっかくなじんできた頃、カープがついに優勝を達成したところで、また転校してゆきます。この街に来ることになったのも、去っていくことになったのも、お母さんと離れて暮らすことになったのも、父一人子一人で暮らしているマナブ君の父親が原因でして、悪い奴じゃないんだけど、なんていうか調子がよくていい加減な人で、マナブ君は振り回されています。この勝征さんという父親の人物の描き方とかが、重松さんは相変らずうまいです。

私が転校した時もそうでしたが、この街の同級生は全員がカープファンで、まあ街中の人がほとんどそうなんですが。この球団は、この街の復興の象徴でした。1975年、私はすでにこの街を離れていましたが、カープの初優勝がこの街にとってどれほど嬉しいことだったかは、知っていました。

多感な十代を過ごした、広島のべた凪の夏を思い出しました。

作者のプロフィールを読んでたら、マナブ君の設定は重松さんと同級生ですね。

1975年に中学一年生、重松さんはどう考えても、カープファンですね。

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2014年7月 3日 (木)

カンヌ滞在記2014

このまえ、何年かぶりで、カンヌ広告祭に行ってきました。最近正式には、

カンヌライオンズ国際クリエイティビティ・フェスティバル

(Cannes Lions International Festival of Creativity)  云います。

長いですが、今、こういう呼び名であります。

もともと1954年に創設され、はじめは劇場用のCM映像が審査の対象でしたが、その後、世の中の進化とともに広告のジャンルも増え、今ではたくさんの部門に分かれて審査が行われています。それに加えて、多方面のセミナーが連日開かれ、まさにインターナショナル、世界中からたくさんの人たちが、コートダジュールの小さな街に集まってきます。このイベントの一か月前に、有名なカンヌ映画祭が同じ会場で開かれており、高級リゾート地であるこの街そのものは、こういった催し物には慣れてるんですね。

毎年6月の後半に一週間の日程で開かれまして、私たちの会社は、ここ10年くらい、その期間、会場の近くに毎年同じアパートを借りています。広告とか映像にかかわる仕事なので、会社から行ける人が行って、まあ勉強したり、情報収集するといいかなということなんですね。

毎年行ける人数もまちまちだし、その年その年によっていろんなパターンで、云ってみれば視察してきますが、基本的にホテルではなくてアパートなので、自分たちで自炊しながら合宿のように過ごしてきます。今年はわりと人数が多くて、男子社員3名、女子社員3名、社外からコピーライター女性1名、ディレクター男性1名、来年この業界に就職する予定の大学生1名、総勢9名。いつもの部屋では入りきらず、近くに小さいアパート借り足しました。

このベースキャンプにしてる場所が会場から近いこともあり、毎日いろんな人が集まって来てくれます。このあたりは、ロゼのワインが安くておいしく、すぐ近くに毎朝市場がたつので食材も新鮮で、肉屋も魚屋もチーズ屋もあり、O桑シェフの指示のもと、そこらへんで買ってきたものを皆で適当に料理して、けっこう幸せな食卓になります。私は、ワインの栓を抜くだけでなんにもしませんけど。

そんなことなので、否が応でも、毎晩たくさんお客さんが来て盛り上がってしまいます。この盛り上がるところがよくてですね、つまり、日頃はどっぷりと語り合えないことを、同じ業界の身近な人たちと、異国の最新の広告などを肴にしながら、ゆっくり語り合うことは、東京ではなかなかできないことなんですね。

世界中のトップレベルの広告表現を見てくるのと、最新の情報収集をしてくるということもそうなんですけど、実は、そこで毎夜おこなわれる酒盛りこそ重要な時間となってくるわけです。今年は、なんだかすごく良い時間が過ごせましたね。心穏やかな面白くてすぐれた人たちが、たくさん良い話をしに来てくれました。

この旅が実に楽しかったのは、今回の視察団(?)のメンバーの構成によるところも大きくて、特にゲストのコピーライターのH女史と、ディレクターのI氏との旅は楽しく新鮮でした。この方たちとは普段からよく仕事をさせていただいてるんですけど、今回私たちの会社のホームページを一緒に作って下さったことから、一緒にカンヌに行きましょうということになり、超忙しい売れっ子の二人が何とかスケジュールを空けて同行できることになったんです。Hさんは、優秀ですごく忙しい人のわりに、いつもゆっくりしゃべる人で、しみじみと癒される方です。

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Iディレクターは愉快な人です。一言でいうと、落ち着きのない小学生がそのまま大人になったような人で、いつも、東京から持ってきたスケボーに乗って、カンヌの街中を滑走していました。スタイルは、成田からずっと、いつも短パンにTシャツにビーサンです。一緒にどこかに出かける時も、すぐにスケボーでいなくなってしまい、しばらく歩いてると、どこからともなく帰ってきます。飼ってる犬と、リード無しで散歩してるみたいです。

一度みんなで電車に乗って、隣町のアンティーブのピカソ美術館に行きましたが、その近くの魚屋がやってる食堂でみんなでワインを飲みすぎて、酔った勢いでカンヌまでスケボーで帰ることをすすめたら、乗りのよいことにそのまま席を立って行ってしまいました。結局、道を間違えて約20キロの道のりを、左脚をつりながら完走して帰ってきて、その後、みなからスケボー大王と呼ばれ、カンヌスケボー伝説をつくりました。すでに関係者の間では語り草となっています。

まあ、そんな風にやけに楽しい日々なわけですが、そんな中で、きわめつけが、最終日の前日。私たち視察団は、幸運にも、お昼から日没まで豪華クルーザーに載せてもらえることになりました。大はしゃぎで出航し、ワインもバンバン開け、小島の入り江に停泊し、プロヴァンスのお金持ちの暮らしを少し知りました。Iディレクターはその間、街の帽子屋で見つけたキャプテン帽をかぶり、真っ白なシャツを買い、みなからキャプテン大王と呼ばれました。途中、3名ほど船酔いして脱落しましたが、最後は地中海に沈む夕日に無口で涙し、スペシャルな一日を終えました。

そんなこんなで最終日、明日は飛行機早いし、一週間けっこう忙しく楽しかったから、おじさん、疲れたし、荷物パッキングして、パジャマ着てベッドに入りました。みんなは別のアパートに帰ったり、街に遊びに行っちゃったり、早めに帰国したりで、その時間は、私一人だったのですね。

そしたら、夜中にブザーが鳴って、H女史が帰ってきたんですけど、それから次々に、ラストナイトゲストがやって来たんです。この方たちは、日本からフィルム部門の審査をするために来た方とか、日本の広告会社を紹介するセミナーをされてた方とか、私と違って、このカンヌでまじめに働いてらした方々だったんですね。全部で6~7人いらしたんですけど、みなさん疲れ果てて、真剣にお腹空いてるらしいんです。忙しい仕事を終えて、食べるものも食べずに、顔を見せに来て下さったわけです。

ほんとに嬉しかったんですが、さあ困った。さっきだいたいあとかたずけして、みんなどっか行っちゃったし、もうビールとワインしかない。

そうだ、そうめんと学生君が持ってきてくれた秋田稲庭うどんがある、ネギもある、めんつゆ少し残ってたよな。そうだ、O桑シェフが作ったカレーが残ってた。シェフは東京に帰っちゃったけど。そうめんとカレーうどん作りました。

いや、みなさん、ホントによく食べられ、ほぼ完食されて満足そうに帰って行かれました。よかったよかった。

ワインの栓しか抜かなかった私が、最後にちょっと働いたわけです。

それぐらいしないと、毎晩酒盛りしてクルーザーに乗って帰ってきただけということになりますし。

2014年5月14日 (水)

本の題名

このまえ「トイレの話をしよう」という本を読んだんですが、これが実にいろいろなことを考えさせられる本だったんです。副題に「世界65億人が抱える大問題」とあります。

少なくとも日本のそれも都市部に暮らしている私たちには、にわかにピンとこないことではありますが、世界中には、トイレとそれを処理する下水処理設備が備わっている地区は、ごく一部しかなく、トイレがあっても、きちんとした処理がされぬままに、下水が飲料水源に流れ込んでいる場所がたくさんあります。さらに、トイレという形すら持たぬ人々が地球上に26億人もいるそうです。そのような環境下で、糞便によって汚染された飲料水や食物によって引き起こされた下痢が原因で、途上国では、15秒に1人の子供が死亡しています。

衛生問題を語るとき、清潔な水の問題はよく語られますが、その根幹にある排泄物やトイレに関することは、あまり声高に語られることが少ないですね。でもこの本には、世界のトイレ事情がリポートされつくされていて、このことに関して、あまりにも知らなすぎたことを、思い知らされます。

下水設備の整ったこの国での暮らしが、いかに恵まれたものかを再確認し、世界にはトイレを持たず、夜中に人目を忍んで茂みに排泄に行く女性たちがいることや、排泄物を素手で処理する仕事に就かざるを得ない人がいることを知り、そうした人々にトイレを提供するために努力し、あるいは、不衛生な暮らしに慣れてしまった人々の衛生行動を変えるために、試行錯誤を繰り返している人々がいることも知りました。

この本をどういう人が書いているかというと、ローズ・ジョージという名前のロンドン在住のジャーナリストで、この人がまさに世界中のトイレというトイレを、さまざまな街の下水道の中を、そしてトイレのないスラム街等を取材しつくして本にしています。そして、驚いたことに女性なんですね、この人。しかも美人です。

この本のことを知ったのは、ある新聞の読書欄で、椎名誠さんがこの本のことを紹介されてたからなんですが、その中で、世界中のトイレを詳細にルポしたトイレ探索研究本の頂点にあるような一冊と評価されており、おまけに著者が女性で、しかも美人であることを付け加えておられました。そのことは余計なことですがともいわれてましたが。

まあ、その椎名さんの文章を読んですぐに購入したわけです。

椎名さんという方は、昔から本というものに対して、深い洞察と愛情にあふれていて、よく書評も拝読しておりました。この人が本を出され始めたのは、私が社会に出た頃で、次々に話題作になり、特に若者の人気を得ました。初期の作品はたいてい読んでますが、彼が自身の青春期を振り返った「哀愁の町に霧が降るのだ」や「新橋烏森口青春篇」は、自分がその頃新橋烏森口の小さな会社で働いていて臨場感があり、個人的には同じ時代を生きてるような親しみがありました。

その後この方は、本当にたくさんの本を書き続けておられ、小説、エッセイ、紀行、評論など多岐にわたり、240冊くらいの本を出しておられます。そのうちの何冊くらいを読んだかわかりませんが、ここしばらくはちょっとご無沙汰しておりました。

ついこの前、本屋を歩いていて、椎名さんの新しい本を見つけ、題名を見てすぐ買ってしまいました。題名は「殺したい蕎麦屋」。読んでみたくなる題名です。殺したい蕎麦屋のことが書いてあるのはほんの一部で、でもなるほどフムフムという感じで、ほかも変わらぬ椎名節で、なかなか良い本でした。

でも、昔から、題名のツカミが強いんですよね、椎名さん。

Siinasann

2014年5月 2日 (金)

私的・阪神ファンの歴史

今年は、プロ野球が開幕してから、珍しくタイガースが調子よくて、わりとここ数年にはなかったことなので、久しぶりに書いとかないと、また書く機会を失うかもしれないので、ちょっと書いときますね。

2005年にリーグ優勝して、日本シリーズでロッテにコテンパンにやられて、1勝もできずに4連敗してから、現在に至るまでずっと不調で、これは今に始まったことではなく、私が覚えてる限り優勝したのは、1985年と2003年と2005年と、まあめったに優勝なんかはしないチームなわけです。

では何でこのチームを応援しているかというと、いつも肝心なところでは勝てないんだけれど、その中に肩入れしたくなる、強いチームに(まあ巨人のことなんだけど)立ち向かっていくヒーロー的な選手が、必ず一人いたからなんですね、昔から。

具体的には、最も強かったころの常勝巨人打線からほとんど点を取られなかった、村山実投手、江夏豊投手。この人たちは、巨人に対して異常な闘争心をむき出しにして、剛速球で挑み続けました。有名な話ですが、かつて天覧試合で巨人の長嶋選手から撃たれたサヨナラホームランを、村山はあれはファールであったと最後まで言い張っており、その後、自身の記録である1500奪三振も2000奪三振も、長嶋選手から狙って奪っております。後輩の江夏投手には、

「長嶋は俺がやる、王はお前がやれ。」と、言い放っており、

江夏は日本新記録となるシーズン354奪三振を、狙い澄まして王選手から奪っております。多分、私の年代で阪神ファンを名乗っている人は、少年時代に、この村山か江夏に影響を受けた人です。

チームは優勝とかできないんだけど、この役者たちは試合の中で、必ず痺れる見せ場を作るわけです。云ってみれば、ちょうど幕末に散っていった新撰組の近藤勇と土方歳三のような存在とでもいうのでしょうか。

村山投手が引退をして、その後江夏は球団を追われます。このあたりがこの球団の球団たるところなんですが、ちょっと生意気で扱いにくくて多少ピークを過ぎたと思われる選手は、すぐトレードに出しちゃうんですね。私は江夏の大ファンでしたから、数日間呆然としていました。阪神ファンを辞めようかとも思いましたが、江夏とバッテリーを組んでいた田淵幸一捕手は、見事な滞空時間の長いホームランを打つ選手で、ホームランアーチストと呼ばれ、1975年には、王選手の14年連続本塁打王を阻止し、名実ともにミスタータイガースとなって孤軍奮闘しておりましたので、思いとどまります。

ただ、それも長くは続かず、1978年のオフの深夜、突然トレードに出されます。

1969年からの数年間、江夏・田淵の黄金バッテリーでのセ・リーグ制覇を思い描いたファンの夢は、早くも終わりを告げました。結果的にはその後、二人ともリリーフエースとしてまた4番バッターとして移籍先の球団を優勝に導きます。全く、阪神の球団フロントは何をやっとるんじゃと、いまだに憤ってるわけです、個人的には。

ファンにとっては、ヒーローをすべて失ってしまったかに思われましたが、そのころ、1974年にあまり期待もされずドラフト6位で入団したあの掛布雅之が確実にポジションをつかみ始めます。江夏と田淵を順番に失っていく中で、この高卒ルーキーは成長を続け、本人いわく身長まで伸びるのですが、3年目には、27ホーマーを放ちます。阪神ファンたちの愛情は、すべてこのカケフ君に向かいます。

今もそういうところあるかと思うんですが、あの頃の阪神ファンというのは、ちょっとどうかしてたんですね。

1973年のペナントレース10/22最終戦に、巨人と阪神が優勝をかけて戦った歴史的な試合があったんですが、9-0で阪神は完敗します。その時、甲子園の阪神ファンたちは、なだれを打ってグランドに駆け下り、逃げる巨人の選手につかみかかります。胴上げどころじゃありません。さすがに後味悪かったですね。

まあ一事が万事そういうところがあって、情が深すぎるというか無茶苦茶なとこがあります。友人のK野さんという人は、高校卒業まで甲子園のすぐそばで育って、今ヤクルトファンなんですけど、何で阪神ファンにならなかったかと云うと、阪神ファンを見て育ったからだと言いました。

ヒーローが誰もいなくなったタイガースで、掛布はものすごく愛されたんですけど、不調になるとものすごいブーイングも浴びます。なんか気質として愛憎が激しいんですね。

そういう阪神ファンとは少し距離を置いてるつもりなんですけど、やはり阪神ファンなので、そういうとこありますね、ちょっと。最近掛布さんが本を出していて、当時を振り返ってますけど、好調時は天国、不調時は地獄だったと言ってます。でもあのファンの歪んだ偏愛が、あれだけのホームランを打たせたかもしれぬと言ってます。複雑です。

そして、江夏がいても田淵がいてもまったく達成することのなかった優勝のチャンスが訪れます。

ちょうど、江夏と田淵が球界を去った1985年。4番打者は掛布(30歳)です。そして田淵との交換トレードでやってきた真弓明信(32歳)、1980年にドラフト1位で早稲田から入った岡田彰布(28歳)、そして海の向こうからタイガースを優勝させるためにやってきたランディ・バース(31歳)。この年、この私と同年代の選手たちが200発ものホームランを放ち、1964年以来のリーグ優勝、その勢いで、常勝広岡西武ライオンズを日本シリーズで破り、日本一を達成するのであります。

ただ、強かったのはこの年だけでした。そのあとまた2003年まで18年間優勝から遠ざかります。ま、強いんだか弱いんだか判らんチームなんです。たぶん弱いんですけど。

まあ、そういうチームなんで、自然とチームというより4番打者とか、エースの活躍に関心がいってしまうところがありまして、そういう選手がいない時は、ひたすらよい新人が育つのを待っているわけです。それなので、ファンは昔から二軍の選手のことをよく知っているし、毎年ストーブリーグ(ドラフトやトレードの話題)は大変盛り上がります。

そうこうするうちに、プロ野球界では、FA制度が始まり、4番打者やエースに他球団から来ていただくということが始まります。阪神も広島から金本さんに来て頂いて、優勝できました。思えば、この制度がなかったら1985年からいまだに優勝してなかったりするわけですから、これはこれでありがたいことなんですが。

ただ、掛布さんも書いていますが、やはり、そのチームの4番打者とエースは、そのチームが育てるのが理想だし、だからこそ盛り上がるんじゃないかということも、たしかに言えると思います。

まあ、昔からの阪神ファンとしてはですね。あの江夏や掛布のように、逆境を跳ね返して、胸のすくような勝ちゲームを見せてくれる、筋金入りのスラッガーやエースを待っているわけです。

そう考えるとですよ。今、やっぱ期待するのは、藤浪晋太郎君なわけです。たまたま今打線が調子よくて、マートンもゴメスも鳥谷までもよく打ちますけど、これ常識ですけど、打線は水物なんです。行き先を見失ったチームを救えるのは,やはりエースなんですね。あの村山や江夏のように。

藤浪君は、若いのにしゃべることもちゃんとしていて、賢くて大人だと思いますが、まわりを気にせずに、あの切れの良いストレートを磨いて、圧倒的なエースを目指してほしいです。そして、あの巨人打線からビシバシ三振を奪ってほしい。

思えばこれまで、いろんなことがあったわけですが、ファンとしては、ここんとこ、またちょっと盛り上がっております。

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