2015年8月27日 (木)

貯金と私

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この前、お金のことを考えることがあって、ふと思ったんですけど、今まで60年も生きてきて、なんか計画的に、自分の了見で貯金というのをしたことがないなあと思ったんですね。

貯金というのは、字のとおりお金を貯めることで、何か欲しいものを手に入れるためとか、何か夢をかなえるためとか、生きていく上で、困ったことがあったりした時のためとかに、普段の暮らしの中で意図的にお金を残しておくことなんですけど、そういうふうに思ったこともないというか、18の時から自活始めて、学生の時は親に仕送りもしてもらってましたけど、そんなに裕福な収入があったわけでもなく、お金とは成り行きで付き合ってきたというか、持ってるお金は衣食住でだいたいなくなるし、何かそれ以上必要が生じたときには、何らかの手段で借りるんですけど、そんな大金が必要になることも、そんななかったんですね。別に強がるわけじゃなく、あんまり高価なものに興味がいって、どうしても欲しくなるということもなく。

この仕事始めてからは、公私の境目がない状態で働いてたし、自分のお金の使い道をじっくり考える暇もなく、でも、気が付くと月々のお給料はいつもなくなってはいるんですね。食べるものは、働いてる時間には付いてくるし、特に値の張る衣装を着るような仕事でもないし、部屋は帰って寝れるだけのスペースがあればいいわけです。時間のかかる趣味は持てないし、お金のかかる女の人と付き合う甲斐性もないし、ギャンブルはとっくに才能のなさに気付いてやめてるし。

強いて言うと、人よりも使ったとしたら飲み代ですけど、そんなナポレオンとか高い酒飲むわけでもなく、量だけは人の倍くらい飲んでるけど、分相応な値段ですよ。だいたいツケだし、手酌ですしね。 

まあ大した収入じゃないんだけど、なんとなくあるだけはきれいに使ってしまう生活が何年も続いたわけです。大きな借金をする理由もないし、それができる信用もないし、たまにツケが残ったまんま行かなくなった飲み屋を踏み倒すくらいで、これもたいした額でもありません。

その頃働いていた会社では、給料もボーナスも現金でいただいてたんですけど、それを持って銀行に預けに行ったことはなく、もらうと借金返したりツケ払ったりして、そのまま給料袋や賞与袋から直接お金払ってるうちに、自然と無くなるわけです。まあそのくらいしかいただいてなかったということでもありますが。

ただ、漠然と、ずいぶん働いてるわりには、お金が貯まらないなとは思ってはいたんですね。で、会社の偉い人にそのことを云ったら、まあ好きでやってる仕事なんだからと云われ、それはそうかもしれないけど、それはまた違う話なんじゃないかと思ったんですね。

そうこうしてるうちに、その会社から独立して、自分達で新しい会社を始めることになったんですが、そうなると現金なもので、会社の将来のために、お金を貯めねばと考えますし、いたってまじめにそのことを考えるようになります。

それと、個人的には、会社を作るのと時を同じくして結婚したんですね、34歳でしたが。

で、それまで一人で住んでた6畳間に奥さんと住み始めて、ひと月ほどしたときに、まあ引っ越しもしなきゃいけないし、だいたい私に貯金というものが、いくらくらいあるかという話になったんですね。この話題は避けて通りたかったのですが、そうもいかず、

実は私の預金通帳に入っていたお金の金額は、マイナス16万円だったんです。マイナスというのは、当時20万円までは銀行が自動的に貸してくれるシステムになってまして、ま、そういうことだったわけです。

このことを知ったあと、うちの奥さんは、多分5分くらい床を叩きながら笑っておりましたですね。

云うまでもなく、新婚の我が家で私が経済を預かっていたのは、この1ヶ月間だけで、それ以後はずっと奥さんが経済を握っております。ちなみに、この時、奥さんの個人的な預金高がいくらくらいあるのかと質問をしたのですが、それは全く教える必要はないと言われました。それは確かにそうですが。

それから収入の中から、貯金ということをする習慣が始まったのですが、相変らず私は具体的なことは、ほとんどわかってない状態なので、自分で貯金しているという実感はないままです。

かれこれ25年ほど経ちますが、いずれにしても、貯金とか貯蓄というものに関しての才能と云うものは、ずっとないままの人間であることは、云えそうであります。

2015年7月30日 (木)

司馬先生の受け売りですけど 後篇

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この前は明治国家が誕生したとこまででしたが、この時期、多分日本中の人々が、一部の知識層を除いて、自分達が日本国民であるということを認識してなかったですね。

それまでは、自分は百姓であったり、漁師であったり、商人だったり、○○藩の侍だったりはありますが、外国のことをあまり意識することもなかったし、日本であるとか国民であるとか、あんまり思ってなかったと思います。でも、明治になってからは、そのあたりのことが、それぞれの人々の人生とかに、大きくかかわってくるんです。

まず藩というものがなくなり、そこに仕えていたお侍たちは職を失い、中央政府に雇われた役人以外は仕事がなくなりました。士農工商という身分も解体されまして、もともと武士が起こした革命だったはずが、新しい世の中には武士の居場所がなくなっちゃったんですね。

かたや新政府は、新しい秩序を作るべく、1871年には、先進国へ向け岩倉使節団を派遣します。岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら、総勢107名です。その期間は2年近くに及び、それから富岡製糸工場開業、徴兵令発布と、着々と富国強兵を急ぎます。

しかしながら、中央政府に置き去りにされた感のある武士たちの不満はつのり、その魂の行き場所は、すでに鹿児島に下野していた西郷隆盛のもとへということになりました。1874年佐賀の乱、1876年神風連の乱、秋月の乱、萩の乱を経て、1877年明治十年二月に西南戦争が勃発します。旧武士軍と、新政府の徴兵制によって新たに集められた軍隊との戦いになりましたが、その年の九月、西郷は自刃し乱は平定されます。そして、皮肉にも新政府を率いて薩摩西郷軍と敵対することになった大久保利通は、翌年、刺客によって暗殺されてしまいます。

そんな中で、明治という国家の土台は作られ始めるのですが、極東の小さな島国には、当時の国際環境というものが徐々にのしかかってくるんですね。地理的には、大陸から日本の喉元に突き出ている朝鮮半島において、清国との間に摩擦が生まれ、1894年に日清戦争が起こります。

日清戦争といっても、原因は朝鮮半島にあったわけで、実戦場はほとんど朝鮮半島でした。国の大きさからしても、日本は不利のようですが、徴兵令以降ドイツ式に変更された陸軍とイギリス式となった海軍など、貪欲に軍の強化に努めていた日本軍は約8カ月でこの戦争に勝利します。

この戦勝で、大陸での足場を固め始めた日本ですが、清国には欧米各国の思惑が渦巻いておりました。特に南下政策を推し進めるロシアは部隊を増強し満州に留めています。日本は朝鮮半島を防衛の生命線と考えていたので、そこにロシアの影響力が強まっていくことは、この上なく恐怖だったんです。近代化を始めて間のないアジアの小国は、遼東半島を巡って、徐々に大国ロシアと敵対することになっていきます。

そして、1904年、痛々しいほどの覚悟で開戦を決意することになります。

この時、日本の政府も軍も、この戦争に対しては完全に弱者の論理で挑んでいます。つまり、あのロシアに完璧に勝つということはあり得ないわけですから、せめて四分六分で有利に持ち込めそうになったら、すかさず国際的に仲裁に入ってもらえるよう、アメリカに根回しをしていたほどなんですね。

日本として戦勝の形に持ち込むためには、ロシアが要塞化した旅順を攻略し、その後、遠くロシア本国からやって来るであろうバルチック艦隊を殲滅することだったんですが、これは実に大変なことだったんです。

当初、陸軍は満州平野における決戦に勝てば、旅順の要塞は立ち腐れてしまうと考えていました。ところがバルチック艦隊が来るという話を聞いて海軍が慌てました。旅順はロシアの租借地ですから、ここにバルチック艦隊が逃げ込んだらどうにもなりません。そこで旅順は陸から落とすことになり、陸軍に、旅順を攻撃するだけの使命を持った第三軍が出来上がります。乃木希典大将が軍司令官になり、参謀長は伊地知幸介少将です。

凄惨な肉弾攻撃の戦いが始まりました。無謀な肉弾攻撃でした。

海軍は旅順港を攻撃してくれと言った時に第三軍にひとつの提案をしました。三等巡洋艦を一つ裸にして、大砲を全部提供し砲術士官も派遣しますと。しかし、ノーと言われました。どう考えても陸軍の縄張り意識からでした。この提案を受け入れていれば、旅順の攻略は早かっただろうと、司馬さんは分析しています。

かつて明治陸軍を教育したドイツ陸軍は、近代要塞というものがいかに難攻不落であるかということを説きましたが、この教育は生かされませんでした。乃木さんもドイツに留学しているし、伊地知さんもドイツに留学しています。しかも伊地知さんは大砲が専門でした。そんな人たちが海軍の大砲にノーと言い、歩兵の突撃を繰り返し、何万という兵隊が死にました。無益の殺生という声まで出ました。乃木さんの二人の息子さんも戦死しています。

結局、満州軍総参謀長の児玉源太郎が、自ら旅順に行くことになります。汽車が旅順に近づくと、汽車の窓から新しい墓が累々と見えたそうです。日本兵の墓です。児玉は怒りました。本土から新しく補充されてくる兵士は、皆この汽車に乗ってこの墓地を見るわけです。第三軍はそんなことも気がつかないのかと怒りました。

旅順に着いた児玉は乃木と二人で話し合います。児玉と乃木は同じ長州ですから、腹を割って話すことができます。談合であります。統帥上はやってはいけないことでしたが、児玉は乃木の持つ指揮権を預かることになります。

児玉という人は士官学校も何も出ていません。乃木とは違ってたたきあげの人です。この人は大砲のことなんか何も知らないのに、要塞砲に興味を持ちます。当時、横須賀の観音崎にあった大砲が旅順に送られてきてたのですが、なにしろ大きなもので、移動困難と思われ、第三軍では無視されていました。児玉はこれを使えと云いだしました。それは無理ですと、専門家たちは文句を云いましたが、児玉は強引に要塞砲を移動させます。二〇三高地の麓に据え付け、それらが活動を始めてから旅順は落ちました。音ばかり大きい要塞砲が鳴り響き、ロシアは降伏しました。

児玉は実に見事な人です。戦後は決して自分の手柄話をせず、乃木は偉いと云うばかりでした。そんなに教養のある人でもない、学問したわけでもない、ジェネラル(将軍)、アドミラル(提督)の才能というのは、長い歴史の中で何人もいないものです。児玉源太郎にはそれが宿っていました。そういった意味では、幕末の大村益次郎もそういう人かもしれません。

さて、バルチック艦隊です。海軍の秋山真之は若くして作戦立案者として海軍首脳から期待されていた人で、海軍戦略を学ぶためアメリカに勉強に行ったりしました。真之に課せられた命題は重いもので、ロシアのすべての艦隊を沈めなくてはなりません。一隻だけでも残したら、その船が日本の通商を破壊しますから。そんなパーフェクト・ゲームは不可能なんですが、そこを戦略・戦術で何とかしろと云われていました。結局、真之は、能島流水軍兵法書という戦国時代以前の海賊の戦法が書かれたものから、戦術の基本を作ります。ある人から何を古ぼけた本を読んでるんだと云われた時、

「白砂糖は、黒砂糖から精製されるものなんだ。」と言ったそうです。

そして、この人の一生のエネルギーのほとんどをこの作戦に注入しました。

東郷平八郎率いる連合艦隊は、パーフェクトゲームを達成し、日本海海戦は勝利します。

その頃、満州大陸に於いて日本陸軍は、疲労しきっており、そのことを誰よりも軍の指導者がよく知っていました。彼らは戦争という大がかりなものをしているつもりはなく、つまり、ロシアを滅ぼすなどという妄想は1ミリも持たず、極東の局地戦における判定勝ちを望んでいただけでした。ロシアがその極端な南下策をやめてくれることだけを、日本の指導部は望んでいたのです。

日本海海戦の勝利は、まさにその判定勝ちを上げるチャンスでした。小村寿太郎外務大臣は、ポーツマスにて、アメリカの仲裁による講和会議に出席し、ポーツマス条約に調印します。

しかしながら、多くの日本国民が、この条約に納得しませんでした。大きな犠牲を払ったことから、その戦利品に満足できなかったのです。

このあたりまでで、よき明治は終わり、この国の青春期も終わり、それ以降の日本人は大きく変わっていきます。大国ロシアに勝ったという事実だけが残り、軍事における分析を怠り、根拠のない自信だけが軍部を覆います。そして大きな敗戦を経験し、いまに至ります。

以下、司馬先生の講演録より。

ロシアという大きな国に勝ったということで、国民がおかしくなってしまいました。世界の戦史で日露戦争ほど、いろいろな角度から見てうまくいった戦争もないかもしれません。うまくいった戦争という表現は変な表現ですが、要は、そんなに戦争を上手に遂行した国でもおかしくなった。

軍事というものは容易ならざるものです。孫子が云うように、やむを得ざる時には発動しなければなりませんが、同時に身を切るもとでもある。

国家とは何か、そして軍事とは国家にとって何なのか。国家の中で鋭角的に、刃物のようになっているのが軍隊というものです。

 

またしても先生の受け売りでしたが、安全保障関連法案が世間を騒がせている昨今、声の甲高い、滑舌の悪い、総理の演説に不安を覚えながら、もしも司馬先生が御存命であったなら、何と言われていたのか、深く考えずにはいられませんでした。

2015年7月 8日 (水)

司馬先生の受け売りですけど 前篇

この春ごろ、ちくま文庫から「幕末維新のこと」と「明治国家のこと」という本が出てですね。どういう本かと云うと、司馬遼太郎さんが幕末から日露戦争までのことを、ずいぶんと小説に書いておられ、またそれに関して語られたことも山のように本になっているのですが、それらに載らなかったエッセイや講演や対談録を、丁寧に集めておられた筑摩書房の編集者の方がおられまして、それを、作家の関川夏央さんが改めて編集構成された本なんですね。

いろんな時期に、司馬さんが語られたことがまとめてあるんですが、やはりさすがに先生のおっしゃることはぶれてなくてですね、それらは大変興味深く、かつて読んだその小説たちのことを思い起こさせます。

 

ちょっと小説のことを、ざっくり歴史の順番に整理しますとですね。まず、

「世に棲む日々」(1971)

幕末に突如、倒幕へと暴走した長州藩。その原点に立つ吉田松陰と高杉晋作を中心に、変革期の人物群を描く長編。

「竜馬がゆく」(1963-66)

勝海舟は言った。「薩長連合、大政奉還、ぜんぶ竜馬一人がやったことさ。」

今でこそ幕末維新史上の奇蹟といわれる坂本竜馬は、この小説ではじめて有名になった。

「燃えよ剣」(1964)

竜馬とほぼ同じ年に生まれた土方歳三は、勤皇の志士の敵役であり、最強組織新撰組副長である。剣に生き、剣に死んだその生涯。

「花神」(1972)

緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、長州の村医から一転して討幕軍の総司令官となり、維新の渦中で非業の死を遂げた日本近代兵制の創始者、大村益次郎の波乱の生涯。

「峠」(1968)

幕末、雪深い越後長岡藩から、勉学の旅に出、歴史や物事の原理を知ろうとした河井継之助は、その後、藩を率い、維新史上 最も壮烈な北陸戦争に散った。

「最後の将軍 徳川慶喜」(1967)

その英傑ぶりを謳われながらも、幕府を終焉させねばならなかった十五代将軍の数奇な運命を描いた名著。

「翔ぶが如く」(1975-76)

西郷隆盛と大久保利通は薩摩の同じ町内に生まれ、薩摩藩を倒幕の中心的役割に巻き込みながら、絶妙のコンビネーションで維新を達成する。しかし、新政府の内外には深刻な問題を抱え、絶えず分裂の危機を孕んでいた。明治6年に起こった征韓論を巡る衝突は、二人を対立させ、やがて西南戦争に発展して行く。

「歳月」(1969)

明治維新の激動期を、司法卿として敏腕をふるった江藤新平は、征韓論争に敗れて下野し、佐賀の地から明治中央政府への反乱を企てる。

「殉死」(1967)

明治を一身に表徴する将軍乃木希典。ひたすらに死に場所を求めて、ついに帝に殉じた武人の心の屈折と詩魂の高揚を模索した名篇。

「坂の上の雲」(1969-1972)

松山出身の歌人正岡子規と軍人の秋山好古・真之兄弟の三人を軸に、維新から日露戦争の勝利に至る明治日本を描く大河小説。

他に、この時代を題材にした短編集も多く、「人斬り以蔵」(1969)「新選組血風録」(1964)「幕末」(1963)「アームストロング砲」(1988)「酔って候」(1965)等々あります。

 

いわゆる幕末というのは、1853年のぺりー黒船来航が起点とされていますが、そのしばらく前から日本近海には大国の船団が出没し始めておりました。そのころヨーロッパでは、18世紀半ばから始まった産業革命により、大型汽船が次々に造られていた背景があり、アジア各地では植民地化が進んでおります。ペリーにも、自国アメリカの捕鯨船の基地として、日本の港を開港させる目的がありました。

長州の思想家吉田松陰は、その何年も前から全国に情報を集め、識者を訪ね、当時の国際情勢を調べ、帝国主義の植民地化から日本を救うには、大国の文明を吸収するしかないと考え、アメリカの旗艦ポーハタン号に密航しようとして捕らえられます。その後、萩に戻され、謹慎中に松下村塾を開き、高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤博文、山縣有朋ら、その後明治維新を実現していく人材を育成します。

しかしながら、松陰自身は安政の大獄で29歳の若さで斬首されてしまいます。

翌1860年にはその弾圧を敢行した大老井伊直弼が桜田門外で暗殺され、その2年後の文久二年、坂本竜馬は土佐を脱藩、その翌年には新選組の元となる浪士組が結成されています。当時、西郷隆盛は薩摩藩内の事情もあって沖永良部島に遠島になっていますが、このあたりから倒幕に向けて、一気に時代は動きだしていきます。

1864年(元治元年)池田屋事件

                   禁門の変

                   第一次長州征伐

1865年(慶応元年)高杉晋作長州藩の実権を握る

                   第二次長州征伐

                  武市半平太処刑

1866年(慶応二年)薩長同盟締結

                   徳川慶喜第十五代将軍就任

                   孝明天皇長州征伐休戦勅命

                   孝明天皇崩御

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1867年(慶応三年)大政奉還

                   慶喜将軍職返上

                   高杉晋作病死

                   坂本竜馬暗殺

                   王政復古の大号令

1868年(慶応四年・明治元年)

                   鳥羽伏見の戦い

                   勝海舟・西郷隆盛会談

                   江戸城無血開城

                   近藤勇斬首

                   彰義隊敗退

                   明治に改元

                   会津藩降伏

1869年(明治二年)五稜郭総攻撃

                   土方歳三戦死

                   大村益次郎襲撃され没

 

こうしてみると、黒船が来てから約15年ほどの間に、これだけのことが起こり、全く違う世の中になってしまったことがわかります。

もしもこの時期、日本が清国や李氏朝鮮のような中央集権制の国家であったなら、欧米勢力によって植民地にされていたかもしれません。幕藩体制における各藩は、実は自立した存在で、農業や商業など各産業も競争原理に則って、強化され鍛えられておりましたので、それぞれにそれなりの力を持っていました。外国からこの国を見た時に、中央政府を押さえれば支配下における国であるとは、とても思えなかったはずです。

実際に明治維新を成し遂げた諸藩は、それぞれ独自の考えでこの革命にかかわりました。

個々に複雑な事情もあったのです。

長州藩では松陰の弟子たちが、欧米の脅威からの危機意識ゆえに、藩内の闘争を制して実権を握り、この藩を倒幕の方向へと傾けてゆきます。薩摩藩は西郷と大久保が岩倉具視らとの朝廷工作を通して、藩全体を倒幕に導いて行きますが、このあたりの事情を藩主の島津久光は全く知りませんでした。そして、この長州と薩摩がひとつの力にならなければ、幕府とのパワーバランスとして維新の実現はありません。この薩長同盟の斡旋をしたのが土佐の坂本竜馬だったわけです。

勝海舟は欧米のアジア侵略を防ぐには、中国、朝鮮、日本の三国が締盟しなければならないという考えの人でしたが、後に明治政府で征韓論が起きた時に、いずれ朝鮮にも日本のような新しい勢力が起こってくるから、その時にその者と手を握ればよいと云います。つまり、この国際情勢下であれば、西郷のような人が出てきて革命が起こるはずだから、その新政府と握ればよいということだったのですが、結局、勝の存命中にも、そのあとにも、それは起こりませんでした。    

明治維新というのは、江戸時代の幕藩体制、もとをただせば専制国家ではない競争原理の上に成り立った国のかたちであったことが、それを実現させたということが云えるかもしれません。   

明治という国家が産声を上げたところではありますが、ここまでの話がずいぶん長くなってしまいましたので、この先は次回ということにいたします。

以上、先生の受け売りでした。

2015年6月 5日 (金)

情報機器昨今

“スマフォ”というものが、ここまで世の中に浸透してしまうと、電車に乗ってる人がほぼ全員スマフォを覗き込んでる風景も、だんだんと慣れてくるようなもんですが、

でも、ちょっと冷静に考えてみると、相当異常な風景ではあります。

私も持っておりますが、あのちっちゃい中に、電話機能からメールから住所録にインターネット、地図にカメラにスケジュール表に、ゲームやら音楽まで入っており、それに私なんぞは、その機能の10分の1すら使ってない人ですから、スマフォ好きな人が四六時中離れられなくなる理屈も分からなくはないんですけど。

それだけの機能をポケットに携帯できていれば、便利といえば便利なんだろけど、それがイコール快適なのかというと、果たしてどうなんだろかと思うわけですね。

だいたいあのメールというのは、便利なもんで、いつでもどこでも世界中の相手に届くんですよね。LINEなんかは、先方が開けたら、そこで既読ということが分かるし、まあ多くの場合、送ったとたん伝えたいことが相手に届いたということになる訳です。でも受け取る方は、この話聞かなかったことにしたいなと思うこともある訳だし、うん聞かなかったことにしようみたいなこともある訳です。

電車の中でメール読んだり打ったりしてる人たちが皆、この情報が今受け取れて本当によかったと思っているのか、だいたい、まあいつでもいいような話がほとんどなんじゃないかと思っている私は、ひねくれ者なのでしょうか。

仕事の話であれば、職場に着いてから順番にお返事すればよいし、遊びの話ならもっとそうだし。だいたいいつでもどこでも伝わっちゃうから、歩きながらメールして、人にぶつかってる奴がいたりするんじゃないでしょうか。

 

昔の話になって恐縮なのですが、私達が世の中で働き始めた時には、携帯電話もなく、FAXすらなく、かろうじて電卓が普及したばかりの頃で、昭和ですけど。通信手段は、卓上電話と公衆電話と郵便でした。

電話で話したい相手が、その電話のそばにいるとも限らず、その場合は相手の居場所を突き止めて、そこに電話をするか、折り返しの電話を待つかなんですけど、こちらもあっちこっち飛び回ってることもあり、間が悪いとすれ違い続けたりしてました。

とにかく込み入った話のときには特に、会って話すのが基本でしたね。なかなかうまく会えない時は、あらかじめ手紙を書いて相手に届けておいてから、電話で話すこともよくありました。

夜になると事務所も閉まって、お互いの居場所もだんだんわからなくなってくるので、私が最後に立ち寄ることになっていた「バルコン」というバーでは、何件かの私への伝言と連絡先がコースターの裏側に書いてあったりしました。

ともかく、相手に情報を伝えるには、今よりある程度時間的な間があったわけですね。

そうこうしてるうちに、いつの頃だったか、FAXが登場します。

これはなかなか強力な新兵器でして、文字や画がそのまま、解像度はともかく、届くわけです。ただ、普及し始めの頃は、送り手が送ったつもりになっていても、きちんと受け取られてなかったり、よく読めなかったりと、完全なツールになっておらず、返ってコミュニケーションの齟齬をきたすこともありました。

これに関しては、送った側が送っただけで完全に意思が伝わったと思いこんでしまうところが問題なわけで、言いたいことはこれで全部送ったかんねみたいな。このあたりは今のメールにもそういうところがあります。

 

思えば、すぐに相手につながらなくてイライラしたこともあったけど、すぐにつながるということが当たり前のことではなかったから、どうせそんなもんだと思ってたところもあって、伝える中身をもう一度考えてみたり、整理してみたりして、少し余裕ができたり、悪いことばかりでもなかったかなと。

だいたい早く伝わってうれしいことはあると思うけど、情報というのは、知ってしまえば面倒なことも多いわけで、ほんとは少し間のようなものがあった方が楽なんじゃないかと思います。

それに本当のおおごとと云うのは、なんだかものすごいスピードで伝わるもんですよね。経験的に云うとです。まあこういうこと云うと身も蓋もないんですけど。

しかし、こういう高度な情報機能を持った世の中で、ビジネスマンやったり、恋人同士やったりするのも、考えようによっては大変なわけで、ハイ伝えましたよ。ハイすぐに対応してね。が、当たり前になってるわけですよね。なんか、昔は行方くらましたり、音信不通になったりするのも芸のうちみたいなとこもあって、まあ、ある意味問題を先送りするだけなんだけど、でも、先送りしながら、その問題とだんだんに向き合ってたとこがあります。今はそのあたりがなかなか難しいですよね。

ただ、色々見てると、それでも、なんだかんだ問題を先送りしたり、煙に巻いたりしながら、物事をすすめていく術を持ってる人は、やはりいるわけで、これはいつの時代も追っかけっこなのかなとも思いますが。

 

でも、初めて使った携帯電話って、1980年代の終わり頃だったけど、でかくて重くて、ホントつながらなかったなあ。街中を歩きながら話してて、角曲がると切れちゃったりしてましたね、いま思えば。

Keitaidenwa

2015年5月 1日 (金)

社員研修と、尊敬するディレクターのはなし

4月は新学期でもあり、会社にも少し新人が入ってきて、なんかあらたまった気持ちになるもんですね。それに、この会社は、けっこう若い人の割合が多いので、みんなして一学年ずつ進級するみたいなとこもあります。会社の仕事は主に、広告の映像を作ることなんですけど、今年は、新人の研修は例年通り山登りに行くとして、2年目3年目の若手社員にも社内で研修やりましょうということになったんですね。

で、その講師には、自ら名乗り出た社歴9年の新人プロデューサーのミナミという女子があたることになりまして、この人、わりとちっちゃくてパッと見、子供っぽく見えるんですけど、仕事はけっこう厳しい人で、後輩達からは一目置かれているみたいです。この人が5月に第一子出産予定で、しばらく出産育児休暇に入るので、その前にひとつ、会社の若手たちに、是非言っておきたいことがあるということで、まさに身重の体で、休日の丸一日、8時間の渾身の研修をおやりになったそうなんです。

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この講習で使うためのテキストを、前もって彼女が作ったんですけど、これがなかなか良くできてるんですね。ほんとに同業他社に売りたいくらいのもので、これも渾身のテキストになっております。

このテキストを作る少し前から、彼女は社内でいろんな取材を始めまして、先輩から若い人たちに伝えたいことなんかをインタビューしたり、いろいろな形でテキストのネタを集めたんです。

私んとこにも、質問状が来て、これには真剣に答えなきゃと思い、まじめに考えました。項目は4つあって、1つ目は、2,3年の若者へというテーマでメッセージをということで、自分の若かった頃を、はるか昔ですが、思い出しながら書きました。2つ目は、自分の仕事のベスト3をということで、これも膨大な記憶の中からなんとか選んでみましたが、なかなか難しかったですね。3つ目は、絶対観ておいてほしい映画ベスト3ということで、これも大変でしたが、古典からがいいかと思いまして、1.東京物語2.七人の侍3.アパートの鍵貸します などと書きましたね。

それで、4つ目がまた難問だったんですけど、今まで仕事したディレクターの中で、1番好きな、もしくは尊敬している方、という質問でして、これはほんとに多くの方がいらっしゃるわけです。ちょっと思い出しても、どの方も表現に関して、それぞれにユニークな面白い考えを持ってらして、本当に優秀な人たちで、私なんかはものすごく影響受けてるわけです。なかなか1番は選べないんですね。

それでいろいろ考えてたんですけど、ある人を思い出しました。

駆け出しの頃、前にいた会社で、私が一番若い制作部だったんですけど、そこにCMディレクターになったばかりの6歳年上の先輩がいました。その会社で最も制作費の安い仕事をよく二人で作ってたんです。

この人からは、いろんなことを教えていただきましたし、

「おまえ、若いのにほんとにいろんな目に会ってて面白いな。」

などと云って、よく人の失敗話を聞いて笑ってくれました。

私は、彼のことをすごく尊敬していましたし、彼が優秀な演出家であることもわかっていました。三浦英一さんと云います。

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6年ほどして、私がプロデューサーの仕事を始めた時には、彼はすでに会社で最も忙しいディレクターになっていました。その後も、実にいろいろな仕事を一緒にしましたが、そのたびにレベルを上げていたと思います。それからしばらくして私はその会社を辞めましたが、いずれまた仕事をしましょうと云って別れました。

それが1988年の終わり頃でしたが、1992年に彼は突然亡くなりました。いい仕事をたくさんしていて、次々に依頼が殺到していて、どんな仕事も手を抜かない人でしたから、過労だったと思います。その時44歳でした。

20何年も前のことですが、あの事を思い出すと、何ともいえぬ悲しさと悔しさがにじみます。

その翌年だったと思うんですけど、私は初めて市川準さんと仕事をしました。その時はすでに超売れっ子ディレクターで、映画も何本か撮っていらっしゃいました。私は最初少し緊張しましたが、やがてすぐに打ち解けることができ、そして、だんだん仕事をしていくうちに、なんだか懐かしい感じがしたんですね。

市川さんは三浦さんに似てたんです。顔が似てるんじゃないんですけど、二人は同じ年に生まれていますし、異常に映画が好きですし、二人ともコンテを描くのがめちゃくちゃうまいです。ディレクターとしての成り立ち方が近いんだと思うんですね。市川さんとお酒を飲んだりしていると、私の一方的な感覚ですが、なんか不思議な気持ちがしておりました。それからはご縁があって、いろいろな形で長くお世話になりましたが、結局そのことをお話しすることもなく、市川さんも、2008年に59歳で突然亡くなってしまわれました。

いつだったか、市川さんがとても好きな映画だからと云われて、1970年のサム・ペキンパーの「砂漠の流れ者」のビデオを下さったことがあったんですが、三浦さんも1969年のサム・ペキンパーの「ワイルドバンチ」が大好きで、この映画の出演者たちを暇さえあれば絵に描いてたのを思い出しました。

二人とも、驚くべき本当に寝ない人で、亡くなる直前まで仕事をしていたことも、共通することでした。

 

CMディレクターの質問をされたことで、想いだしたことでしたけど、この話を若い人にしてみたいと思ったんですね、ちょっと。

 

2015年3月27日 (金)

犬の賢愚の法則

やはり例年、お彼岸を過ぎると寒い日が少なくなってきて、ポカポカと暖かい日が増えてきますが、朝晩はまだ寒いことが多いですね。だからというわけではないのですが、私の寝床には毎晩犬が2匹寝ております。人間が寝床に入る時にはベッドの横の自分達の寝床で寝てるんですが、必ず夜中にベッドに上げろとワンワン云うのです。

仕方なくベッドに上げると、母犬の方は、羽毛の掛け布団の上で眠るのが好きで、私の腹のあたりに乗ることが多く、倅犬の方は何故か人の枕に乗り掛かったり、頭を乗せて横になります。こういう状況になると、私も寝返りなどの動きが制限されまして、顔のすぐ前に倅犬の尻があったり、夜中にうなされて起きると私の胸の上で爆睡している母犬がいたりして、やや窮屈なことになるのが秋から春にかけてのこととなります。まあ夏は暑いので、玄関の石の上が気持ちが良いらしく、寝室には入ってこないんですけどね。

この二匹というのが母と息子なんですが、母が10才、息子が6歳のグレーのトイプードルなんです。トイプードルと云うのはわりとちっちゃいんですけど、せまい家で一緒に暮らすと、これが、けっこうな存在感を示します。 

このブログにも書きましたけど、この母犬のマリンが、6年前に大騒ぎの出産をして、一匹だけ産んだ息子がこのチップでして、以来、我が家は人間4人と犬2匹の構成になっているわけです。

犬というのは、いっしょに暮らす人間にきちんと向き合って、じっと見つめて生きていくとこがあって、自分のことを、いつもかまってほしいというとこがあります。そこが可愛いんだけど、あんまり託されると荷が重いところもあります。距離感で云うと猫なんかの方が、お互い勝手に生きてる感じが楽な気もするんですけど、うちはカミさんが猫が苦手なので犬なんですけど、そういうとこがあって、うちは犬に、犬らしいしつけのようなことを一切しませんから、芸は何もできません。お座りもできんと思います。まあ ちっちゃい犬だからいいんでしょうけど、大きな犬だとしつけをしないと絶対に一緒に暮らすことはできませんからね。まあそういうふうに暮らしてるから、ベッドとかソファで無防備に寝てる姿が、ちょっと猫っぽいとこがあるんでしょうか、うちの犬たちは。

 

私の友人のNヤマサチコ女史曰く、動物を2匹飼っているたいていの場合、片方が賢いと、もう片方は愚かであるという法則があるそうなんです。女史は代々猫を飼っておられて、経験上あきらかにそういうことなんだとおっしゃる。彼女のブログには、頻繁にいっしょに暮らす猫の話が出てきて、読んでると確かにそういうところがあります。この話を聞いたときに、私も、はたと膝を打ちました。うちの場合も確かにその通りなのであります。

母犬のマリンは、子犬でうちに来た時から、礼儀正しくて、我慢をすることができるタイプで、まあ多少わがままなところもありますが、それは、なんかお嬢様育ちのわがままと云った感じで、いわゆる賢い子なんですね。妻は、

「この子は私に似たわ」と云ってます。

それに比べて、息子のチップの方は、我慢ということを知らない。何でもやりたいことはやる。そのくせ淋しがりで、いつもかまってかまってと云う。気が小さくて怖がりだから、舞い上がると吠えまくって、トイレなども失敗の連続。いわゆるおバカさんキャラなわけです。

たとえば、二匹を連れて散歩に行くとですね、母犬の方はきちんと私の斜め後ろを、まっすぐに私の速度に合わせて歩きますね。倅の方はと云うとですね、私の前後左右をジグザグに全く無軌道に歩きますね。紐もこんがらがるし、私もマリンもすごく迷惑なんです。それでチップは、一人だけそうやって余分に歩くもんだから、途中で必ず疲れ切ってしまい、そうすると自分のリードを噛んで引っ張って、抱っこしてくれと云うんですね。そこでマリンの方を見ると、スミマセンガ抱っこしてやっていただけますか。と、ちょっとすまなそうに眼で云うんです。散歩に行くといつもそうなります。

血の繋がった母子、母が自ら産んだ息子なのにこの違い。顔だけは似てるんですけど。

Nヤマサチコ女史の言われる、賢愚の法則が明らかに証明されております。

しかし、こうやって母犬が来て10年、愚か者が加わってからも6年となりますと、彼らがいる風景が普遍となります。

チップのことを、「この子はあんたに似たわね。」 と妻は言いますが。

Marinchip

2015年2月26日 (木)

高校3年の時につくった8mm映画

ちょっと前のことなんですけど、正月の3日に高校3年生の時の同窓会があったんですね。私、考えてみるとこれまで同窓会というものに出たことがなくてですね、中学までは転校が多かったもので、幼馴染とはだいたい音信が途絶えてるし、高校だけは消息のわかっている友達が何人かいるんですが、卒業してからずっと故郷を離れていて、同窓会の知らせを受けても、出席できたためしがありませんでした。今年はみんなして60歳になることだし、都合を合わせるから帰って来いと友達が云ってくれたので、そこに合わせて帰郷しました。地元にいる同級生は、たまに集まってるようなんですけど、私はほぼ40年ぶりで、いささか緊張しました。

この日集まったクラスメイトは、10名ちょっとで、ほとんどの人が卒業以来の再会です。一人一人じっと顔見て名前を名乗ってもらって、すぐに思い出す場合もあるし、なんかじわーっと思いだしてくる場合もあって、でも、最終的には全員思い出すことができました。まあみんな年取ってますし、60歳ですから、何だか不思議な体験です。

私以外のみなさんは、お互いたまに会っているようなので、自然と私が卒業してどうしていたかみたいな話をすることになるんですけど、そうはいっても40年間の話を一気にするわけにもいかず、ところどころということになります。

あとは、みんな高校生に戻って、あの頃どうしたこうしたという思い出話に花が咲くんですが、これも人によって、よく覚えている話とそうでもない話があったりして、なかなかかみ合わなかったりもします。40年経ってますから。

そもそも高校の3年生という時期は、受験があったりして忙しいのと、授業のカリキュラムも、理系と文系とかに分かれていたりで、なんかまとまりのいい時期じゃないんですよね。

Eishaki

でも、なんだか色々に話してるうちに、共通に盛り上がる話題が出てきたんですね。それは、高3の夏前だったか秋口だったかに学園祭があったんですけど、うちのクラスは8mm映画作ったんです。けっこう大変だったし、全員参加で作ったんで、みんなそれぞれに思い出があるわけです。

誰かが、私が監督をやったんじゃないかと云ったんですけど、どうもそうではなくて、だんだんと思い出してみると、なんかオムニバスのような作りになっていて、いくつかの話をみんなで手分けして撮影したように思います。自分達で、出演して、撮影して、編集して、一本につないで、音つけて、たぶん音は音で、オープンリールのテープに入れて、上映は画と音をよーいドンでまわしたんだと思います。

撮影機材は、クラスメイトの誰かのお父さんが、8mmのカメラと映写機を持っていて、それを借りたらしく、音の方は、皆のオーディオ機材やレコードをかき集めてやったんだっけか。

だんだん思い出してきました。

そういう素人映画なんだけど、いざ一本の映画を完成させることになると、大変は大変なわけです。連日学校で夜中まで作業していて、進路指導の先生から、受験の大事な時に何考えてるんだと、説教されたこともあったようでした。わりと受験校だったし、なんとなく思い出してきましたが。

そんなことをワイワイ話してるうちに、少しずつ自分がやったことも蘇ってきました。私が映画を作ろうって言い始めたのかどうかは、わかんないんですが、どうも企画書のようなシノプシスのようなものを書いた記憶があるんですね。

で、テーマは「自殺」だったんです。

だけど、繊細でナイーブな思春期の高校生が、何か思いつめてこの題材をとらえたということではなく、茶化してるわけじゃないけど、相当そのことを軽くとらえていて、どっちかっていうとモンティ・パイソンみたいなことがしたかったように思います。

この年、1972年でしたが、

1970年11月には、有名な三島由紀夫氏割腹自殺があり、1972年4月には、川端康成氏のガス自殺もありました。はやりと云うには不謹慎ですが、そういった大事件に影響されたことはあったかもしれませんね。私、映画のなかで割腹シーンを演じたと思いますし、ナレーションもやった気がします。アサハカ。

 あの映画、その後どうなったんだろうねと云う話になりました。映写機とカメラを提供してくれた級友がまだ持ってるんじゃないかという話も出ましたが、正確には、42年と数カ月経ってますから、フィルムは酸化して風化してるんでしょうね。

もし残っていたら皆で見たいねと云う仲間たちですが、60歳のおじさんやおばさん達が集まって、時をかける少年少女になって、高校時代の8mm映画を見つめている姿は、ちょっと不気味ではあります。

でも、怖いもの見たさでちょっと観たい気もするかなあ。

 

2015年1月22日 (木)

お酒は20歳を過ぎてから

私事ですが、この前、倅が成人の日を迎えまして、親として何をするわけでもないのですが。その日、彼はネクタイを締めて、出かけて行きまして、仲間と騒いで、夜中に帰ってまいりました。

娘の方は、4年前に、振袖着たところを、写真に撮った記憶がありまして、うちの子は二人とも成人になりました。歳月を思えば、20年ですから、かなりの時間を要しているのですが、男親というのは、肝腎な時にはおらなかったりもして、何だかあっという間な気もします。

この国は少子化が進んでおり、この先、18歳で選挙権を、ということにもなってきそうですが、その場合、18歳で成人ということになるのでしょうか。武士の時代の元服を思えば、昔はもっと早かったわけで、それはそれでありかと思うんですが、何をもって大人とするかというのは、多分にそれぞれの気分的なものではあります。

自分が20歳の頃には、大人になんかなりたくないぞ、とうそぶいており、その割には、10代の頃から酒もたばこもバリバリにやって、粋がっておりましたから、世間から見ると、めんどくさい若造だったように思います。

今の若者も、20歳前から酒を飲んだりしていますが、倅や娘を見ている限り、多少失敗はしていますが、たいしたことはないですよね。

自分達の頃は、男子、大人になったら、酒、煙草という時代でしたし、他に娯楽もあまりありませんでしたから、何かっていうと酒飲んでましたね。筋金入りに酒飲む大人も、まわりにいっぱいいましたし。

でも、なんであんなに飲んでたんでしょうか。若い頃の飲み方は、本当にどうかしていましたですね、我ながら。

学生の頃はだいたい貧乏してますから、そんなには飲めないんですけど、仕送りが来たり、友達に仕送りが来たり、バイトのお金が入ったり、博打に勝ったりすると、ドカンと飲むんです、まあその程度です。

働き始めると、多少お金の融通は利くようになるんですけど、自由になる時間がなくなって、短時間でのストレス解消としては、なにかと飲むことだったりして、寝る間を惜しんで飲んでましたね。

夜中に飲める場所を探しては、明け方まで飲むわけです。仕事場のあった新橋は、だいたい終電には店が閉まってしまうので、原宿や六本木や青山や新宿あたりで、引っ掛かっていることが多かったです。仕事の流れで、一緒に仕事をしている人たちと、飲んで語ったり騒いだりなのですが、誰もいない日は一人でもどっかに引っ掛かってました。まあこうなると、一種の習慣ということになります。

それに、自分は若い時から、なぜか酒と船酔いにはやたら強くて、飲んでもなかなか酔わないんですね。そこで、けっこうなピッチで飲むわけです。 空腹で酒飲んだ方が効くんで、食べ物は食べません。私の席だけ割り箸が割られていないということがよくありました。このあたりから、ある種、悪循環になって、ますます酒が強くなるわけです。

そんなことで、やたらと強い酒を飲むようになりまして、バーボンなら、ワイルドターキーやI.W.ハーパーをロックで、ラムならロンリコ、ジンならボンベイ・サファイア、ウォッカは、スミノフやストリチナヤなんかで、唐辛子入りウオッカというのもあったなあ。ともかく、度数の高いのをガンガンいくようになります。

基本的に昼間は働いていて、だいたい夜遅くまで働いてるし、出張もよくあって、休みの日も働いてることが多かったし、仕事が終わると、たいてい酒場にいましたね。寝不足が続くと、そのままどこかのバーで眠ってしまうことがよくありました。あちこちのバーにツケがたまります。

そういう暮らしで、タバコは日に40~50本吸ってましたから、ほんとに不健康でした。若かったとはいえ、それで風邪ひとつ引きませんでしたから、よっぽど身体が丈夫だったんだと思います。一日メシ食べそこねて、そのまま夜バーで飲んでたりすることもあって、その頃、ビタミンとかも酒から摂ってるんだという冗談も笑えませんでした。病気はしませんでしたけど、痩せてましたね、顔色も悪かったですし。

そんな1990年頃でしたか、中島らもさんという作家が、「今夜、すべてのバーで」という本を出したんですけど、これがアルコール中毒を題材にした物語で、らもさんが実際にアル中になった体験が元になっているので、すごく描写がリアルな小説で、本としてはよく書けてるんですけど、これ読んだ時すごく怖かったんですね。

で、気が付くと、私も30代半ば過ぎてきてるし、ちょっと反省したんですね。調子の悪い時は手が震えることもあったし。思えば、酒のことではそれまでにいろいろ失敗もしてるし、ここには書きませんけど。酒飲むのは飲むとしても、もうちょっと何とかしなきゃと思ったわけです。

もっとも、もうすでに人の一生分の酒は飲んでしまった気もしますし、もう飲まなくてもいいようなもんですが、煙草もやめたし。ただ、10代から飲み続けてここまで来ると、酒やめた人生ってどんなもんなんだろうか、ちょっと想像つかないところがあるんですね。昔みたいに、酒飲まないで寝ると、すごく恐い夢見たりすることはないですけど。

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まあこれからは、美味しくお酒をいただくということをテーマにして付き合っていこうかと思っております。お料理に合わせたりとか。

もういい歳ですから、ほんとに。

お酒は20歳を過ぎてからって言いますけど、20歳過ぎたからといって、お酒の飲み方は気をつけましょうよね。

2015年1月 5日 (月)

1996「トキワ荘の青春」

昨年11月に、目黒シネマという昔からある映画館で一週間ほど、「市川準監督特集」が、開催されました。

早いもので昨年の9月が、市川監督の7回忌にあたり、また、8月には市川組の名キャメラマンであった、小林達比古氏が亡くなられており、それは、お二人を追悼する上映会でありました。

お二人が作られた「病院で死ぬということ」と「トキワ荘の青春」を観ましたが、あらためて、どちらも名作でした。そして、最近では少なくなったフィルムでの上映であり、お二人が愛されたフィルム上映のしっとりした味がよく出ていました。

実は、この「トキワ荘の青春」という映画に、私は不思議な関わり方をしておりまして、1996年の公開以来18年ぶりに見せていただいたのですが、懐かしさとともに、いろいろ確認したいこともございました。なんというか私この映画に出演しておりまして、しかも、けっこう重要な役で、たくさんセリフもあったりしてですね。最初に市川さんから電話をいただいたときには、真顔で、「それは、無謀です。」と申し上げました。

だいたいどういう理屈か意味もわかりませんし、でも、思いとどまっていただこうと、いろいろ話してたら、市川さんが怒り始めて、

「そんなことはわかってる。だからさんざん考えた上で頼んでるんだ。」

とおっしゃいました。そういう空気になると、前々から尊敬している監督だし、意味わからないなりに、

「わかりました。」と云うしかなかったんですね。

市川監督とは、その少し前から、CMの仕事をご一緒してたんですが、市川さんは、すでにCM業界から才能を見出された映画監督として、有名になられておりました。

私は、その前年に市川さんが撮られた「東京兄妹」という映画の時に、その作品のなかに出てくる遺影の役で出させていただいたことがあって、遺影の役って言葉的に変ですけど、その時何枚か写真を撮っていただいて、映画のなかにその写真が出たことがあったんですが、映画の経験はそれしかありませんでした。

そうこうしてるうちに、映画「トキワ荘の青春」の撮影は、はじまりました。

この映画は、実話をもとにしていて、昭和30年代にトキワ荘というアパートに集った漫画家志望の若者たちを見つめながら、彼らのなかから、売れっ子の漫画家になっていった者や、漫画雑誌という新しいメディアのなかで、埋没していった者など、さまざまな青春模様を描いています。

時代考証がかなり厳密にされていて、美術も衣装もていねいに作られており、フィルムのタッチも流れている音楽も、まさにその時代が再現されています。この中で私がする役は、トキワ荘の若者たちと関わる雑誌編集者の一人なんですけど、かなり重要な役なんですね。ほんと、参ったんですけど。

ただ、こうなったら四の五の言ってる場合じゃないですから、まわりのスタッフや、いっしょに出てる役者さんに迷惑をかけないことを、肝に銘じてやるしかないわけです。まあ、これは映画ですから、最終的に出来上がったものは監督が責任取るわけですから、ハイ。と、開き直ったわけです。

自分のことは置いといて、18年ぶりに観た映画は、本当にいい映画でした。昭和30年代というあの懐かしい時代に、漫画家を目指した若者たちの静かな情熱が、たんたんと描かれています。そして、それはまるでドキュメンタリーのようでもあります。

主役の寺田ヒロオさんを演じた、本木雅弘さんの抑えの利いた演技がすごくよくて、でも当時有名な役者さんは本木さんだけで、ほかの漫画家たちは、藤本弘役の阿部サダヲも、森安直哉役の古田新太も、鈴木伸一役の生瀬勝久も、その頃の小劇場の若手の有望株でしたが、一般には知られていない無名な若者たちでした。大きな声で目立った芝居をする人も誰もいません。声が小さいのは、その頃の市川準監督の映画の特徴でもあります。

それと、ドキュメント的な作りなので、カットを割りません。だいたい引き画の1カットでシーンが構成されていて、これ、引いた画が多くて、役者は声小さくて、監督が同録の音にこだわる人でしたから、録音部は毎回死ぬ思いして音拾ってましたね。美術も衣装も照明も、一事が万事そういった細やかな作りで、ラッシュ見ると、くすんだいいタッチなんです。音のトーンも画のトーンも、そうやって丁寧に丁寧に抑えて作られていて、なんていうか見事な市川節になってるんですね。ほんとにしぶとい方でしたから。

たぶん監督は、この時代のトキワ荘で起きた出来事を風景のように撮りたかったのかもしれませんね。作り込んだドラマというよりは、そこで起きたことを、ただ客観的に見てきたように。

そう考えると、主役の本木さんはともかく、出てくる人たちはその頃の市井の人々の顔にしたかったのかもしれません。そういう方針のもとに作られたとしても、私が出していただいたことが、この映画の役に立っているのかどうかは、結局よくわかりませんでした。18年ぶりに確認してみようと思ったんですが。

もっとセリフもちゃんと言えて、適任者がいたのではないかとは思うのですが、すでにこういう形で完成してるのですから仕方ないですね。やっぱり開き直るしかないです。たとえ監督があのキャスティングだけは失敗だったなと思っていたとしてもです。

当時、恐ろしくてそんなこと聞けませんでしたし。

ただ、あの名作の出演者に名を連ねていることは、ともかく誇りであります・・・汗。

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2014年12月 6日 (土)

高倉さん 逝く

なにか書こうとすると、すでに亡くなった方の話になりがちなのは、自分が60歳という年齢であれば無理からぬことと思いますが、また、大きな訃報です。  

高倉健さんが、83歳で身罷られました。

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1931年は昭和6年の生まれですから、まさに私の親の世代です。大学を出たものの就職難の時代で、なかなか勤め先が決まらず、面接を受けた先で、偶然映画会社の人にスカウトされたのが映画俳優としてのスタートだそうです。うちの父も大学を出た時は、空前の就職難だったと云っていたので、同じ頃だったのでしょう。

映画スターとして頭角を現すのは、1963年頃からの任侠映画で、その後1965年からは人気シリーズ「網走番外地」が始まっています。その頃小学生だった私がそれらの映画を見ることはなく、この方はテレビに出ることもなかったので、もっぱら映画館の看板やポスターでお見かけするのみでした。

そのあと、70年安保をめぐる社会情勢下で、寡黙なアウトローが、数々の仕打ちに耐え、筋を通し、ついに堪忍袋の緒が切れて、復讐を果たす姿は、学生運動に身を投じる学生やサラリーマンなど、当時の男性に熱狂的な支持を集め、オールナイト興行にも立ち見が出た話は伝説でありました。その頃まだ私は大人の仲間入りをしてはおらず、それらの映画を観ることになるのはしばらく後のことです。

初めて映画館で、高倉さんの映画を観たのは、1975年の「新幹線大爆破」だったかもしれません。その頃彼が所属していた東映という映画会社は、完全に実録やくざ路線にシフトされていて、このままではやくざの役しかできなくなると考え、高倉さんは1976年に会社を辞めて独立します。45歳、まだ学生だった自分から見ると完全な大人の男でした。

映画産業は、すでに斜陽と云われていましたが、ファンを多く持つ高倉健さんに多くの映画関係者は期待をしました。独立後、彼の代表作となる作品が次々に制作されていきます。

1977年には、「八甲田山」と「幸せの黄色いハンカチ」があります。「八甲田山」はオールスター超大作、冬の八甲田山に極寒のロケを敢行した話題作で大ヒットしました。でも、私は働き始めた年でしたし、忙しくて金もなくて、封切りで観ることはありませんでした。何年か経って観たとき、なるほどすさまじい映画だと思いました。のちのちまで語り継がれる力作で、監督 森谷司郎、撮影 木村大作の代表作となります。

「幸せの黄色いハンカチ」は、なんとなく空いた時間に偶然映画館に入って観ました。何年か前にヒットしたアメリカのポップス「幸せの黄色いリボン」という唄の歌詞が元になった話だということは知ってましたが、予備知識はそれくらいでした。しかし、ちょっとどうしちゃったんだろうというくらい涙が出たんですね。この頃の私はわりと冷めた奴だったし、あんまり映画を観て泣くようなことはありませんでしたから、ちょっとあわてたほどです。たいていの人はラストシーンの黄色いハンカチがはためくところで泣くんでしょうけど、私は、そのしばらく前のシーンで、健さんが目的地の夕張を目指して車が走り出したときに、道路標識の夕張という文字が出ただけで泣いてしまっております。まあそれだけこの高倉さん演じる島勇作という人物に感情移入しちゃったんでしょうけど。山田洋次監督の、ていねいな脚本と演出と、健さんが精魂こめて演じた主人公が、この作品を映画史に残しました。もちろん倍賞さんも素晴らしいのですけど。

この3年後、監督山田組は、高倉さんと倍賞さんで、もう一本「遥かなる山の呼び声」という映画をつくります。私は迂闊にもその映画を見落としていて、その数年後にテレビで放映されたものをビデオで留守録画して観たのですが、2時間半の番組を2時間のテープで録ったので、最後の30分がありませんでした。これはどうしてもラストまで観たいのですが、その時まだこの作品はビデオ化もされておらず、とにかく、この2時間半をきちんと録画した人がいないか、必死で聞いて回りました。すると、一人きちんと3時間のテープを使って録画してる人がいました。この人は私の会社の後輩だったんですけど、当時からなにかと頼りになる人で、この映画の最後の30分を見ずして、この映画を観る意味はありませんよと、彼は云いました。そうですか、ありがとうございますと申して、うち帰って残りの30分を観ました。彼の言うとおりでした、このラストシーンには参った。声が出るほど泣きました。夜中に一人こたつに入って泣いたです。

なんかいかに泣いたかみたいな話ばかりになってしまいましたが、この時に、山田監督も、高倉さんも倍賞さんも、とんでもない人たちなんだという認識を新たにすることになります。

健さんは、この頃から、年に一本くらいのペースで、ていねいにていねいに映画を作るようになります。そして健さんは50代になり、日本映画界に不動の地位を築いていきます。

そして1989年には、あの「ブラック・レイン」に出演します。やがて60代になり、今まで以上に作品を選び、より丁寧に仕事に向き合い、映画を一本撮り終えると、燃え尽きたようになって、しばらく姿を隠しました。誰かを演じるということより、その主人公を自分のなかに取り込んでしまう、それも全身全霊だから、仕事が終わると抜けがらになってしまうんでしょうか。

どなたかおっしゃってましたが、高倉健さんは、どんな役をやっても高倉健さんになるんですというのは、本当だなと思います。他にいないですよ、こんな映画俳優はちょっと。やっぱりなんか特別の人なんですよ。

205本の出演作、そのうち60代の映画が3本、70代の映画が2本、80代の映画が1本、これが遺作となります。

 

NHKの追悼番組で、高倉さんがインタビューに答えてらして、ご自分の世代の話をされたときに、高倉さんが育った九州の炭鉱町では、事故があったり祭があったり、何かっていうと、そのあたりで死体を見るような時代でしたよとおっしゃいました。

僕たちの知らない親たちの時代の話でした。

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