2016年8月 1日 (月)

お好み焼き文化圏

大雑把に云えば、この国の西の方で育った人にとって、お好み焼とか、たこ焼とか、きつねうどんであったり、いわゆるメリケン粉で構成された食べ物というのは、食生活において重要な位置を占めます。特にお好み焼というのは、粉物ソース味の分野で中心的な食品であります。

私が育った神戸だったり広島だったりという町には、大げさではなくお好み焼屋が街の1ブロックに一軒はありました。繁華街には大きめの鉄板で何人かの兄ちゃんが焼いてくれる大型店もありますが、多くは、おばちゃんが一人で焼いているような、小ぶりなお店で、鉄板の周りに7~8人並べばいっぱいになるような店です。だいたい昼食時はいっぱいですが、そのあとはパラパラで、夜になるとそこでビール飲んだりするんですね。お客さんは老若男女、子供から年寄りまで、だいたいが顔見知りであったりします。私が子供の頃ですからずいぶん昔のことですが、多分、今も変わってないんじゃないでしょうか。どうだろ。

ところで、一言でお好み焼といってもですね、土地によっても店によっても、色々と違いがあります。東の人から見ると、どれもメリケン粉中心で材料も同じようなもんだし、味は最後にこってりかけるあのお好みソースの味になってしまうのだから、どれ食べてもそれほど変わらないんじゃないかと思われるでしょうけど、それがそうでもなくてですね、それは店によっても、ちょっとした作り方によってもけっこう違いがあるんですよ、これが。

細かいこと云いだすときりがないんですけど、お好み焼には大きく分けて二つの分類がありまして、お気付きかも知れませんけど、関西風と広島風というのがあります。いわゆる全国区で一般的にお好み焼と呼ばれているのは、関西風でありまして、広島地区で焼かれているスタイルを広島風と呼びます。ただ、広島では、けっして自分達で広島風とは呼びませんが。

両方の地区で育った私としては、どちらが良くてどちらが美味しいというのはなくてですね。それぞれにちゃんと美味しいわけですが、これは似て非なるものではあります。

わかりやすく云えば、関西風はメリケン粉を溶かせた生地と、具を、まず混ぜてから鉄板で焼くのですが、広島風はまず生地だけを薄く広げて焼き、その上にいろんなものを載せて行きます。ここからは多少細かくなりますので、私が焼く時の手順をご紹介することにします。

まず、鉄板に薄く伸ばした生地の上に、鰹節をたっぷりとかけ、千切りキャベツをどっさり、これは山のように載せ、その上からたっぷりもやしを、フワッとひろがるように載せます。 崩れそうになっても怯まず、その上に天かすを大さじ一杯ほどかけ、青ネギをかけます。その上にイカ天です、これは薄いイカを天ぷらで揚げたもので、広島ではどこでも売ってますが、関東ではなかなか手に入りません。多少塩コショウをしてから、豚バラ肉をきれいに広げてかぶせるように並べますね。その上からおたまで軽く生地をかけたら、お好み焼の両側から素早くコテを差し入れて一気に裏返します。この山のように盛り上がった物体を引っくり返すのが、技術的には最も難易度の高いところですが、ビビらずにやります。ここで大切なのはスナップを利かせることです。

たいていの場合、具が多少散らかったりしますが、コテでまた集めて整えれば、見てくれは良くなりますから大丈夫です。このあとは、しばらく蒸し焼き状態にしますが、ボーっとしてる場合ではなく、横の空いたスペースでソバを炒めます。ソバは市販の焼きソバで構いませんが、お店では生の中華麺を湯掻いたものを使うことが多いです。この時少しウスターソースをかけてソバに下味をつけます。この焼きソバを丸く広げた上に先程のお好み焼を載せましたら、その横に卵を割りまして、コテで素早くお好み焼の大きさに広げ、その上に焼きソバに乗っかったお好み焼を載せ、この重なった物体を一気に引っくり返します。ここはある程度スピードが必要で、技術的難易度が2番目に高い工程です。ここもスナップ大事です。

ここまでくれば、ほぼ完成、あとはお好みソースをかけますが、ソースは地元で作られているオタフクソースというのが一般的です。細かく云えば他にもたくさんソースはありますし、いろいろなソースを混ぜたりする方もいらっしゃいますが、それほど大きな違いはないかと思われます。その後、おこのみで青のり、かつお、マヨなどをかけて召し上がれとなります。

このお好み焼を作るうえで、その味を左右する最も大事なことは、各工程における焼き加減、つまり鉄板の温度と焼き時間かと思われます。

ちょっと饒舌になっちまいましたが、一応こんな風に焼かれておるわけです。

広島風は関西風に比べると、こんなふうにわりと手が混んでいて、引っくり返す時の緊張感もあったりしますから、基本的にはお店の人に焼いてもらって食べます。お店でプロの焼き手のテクを観察して、家に帰って自宅の鉄板で練習をして技を身に付けていくわけです。同じように、関西風は自分で焼いて食べれる店もありますし、こうやってお店で覚えた技や、材料に関する知識を、自宅で研究します。西の方ではたこ焼きを含めた粉物の製作体制が、どこの家庭でも整っているのです。

街でも家でも、そのようなメリケン粉環境の中で、私たち住民のメリケン粉摂取率は非常に高いと云えます。ジョコビッチのグルテンフリーダイエットとかは、ありえませんね。街中で四六時中、好きな時に食べられますから。高校の頃は、週に何度かは昼休みに学校の塀を乗り越えてお好み焼屋行ってました。ときどき生活指導に捕まって体罰くらったりしてましたけど、怯みませんでしたね。どこの高校も同じようなもんだったと思います。

ただ、不思議なんですけど、そのあと東京で暮らし始めた時、お好み焼のことは暫くすっかり忘れてました。何だか全く別の文化圏に来ちゃったような、外国で住み始めたような、思い出すと懐かしいんだけど、もうすでに諦めてるみたいなとこがあった気がします。

お好み焼文化圏に仕事で行ったり、旅したり、帰郷したりすると、なんか旧友に会ったような気持ちになるんですけど、それは東京で求めても仕方のないことと思ってるんです。多分、好物というよりも主食に近い感覚なのかもしれません。

 

ただ、そうこうしてるうちに、東京にもだんだんお好み焼屋が出来てきまして、広島風の店も今では普通にいろんなとこで見かけるようになりました。広島のアンテナショップに行けば、本場のソースもイカ天も手に入るようになり、家庭で地元と同じ味が再現できるようになりました。新幹線の移動時間がどんどん短くなるのに比例するように、お好み焼は益々近くに存在するようになってきます。

そうなったらそうなったで、東京のお好み焼屋に行くと、わざと割り箸を割らないで、小さなコテだけで鉄板からお好み焼を食べたりして、まわりの人たちが、それを珍しそうに見たりすると、いかにも、

「あ、わたし、お好み焼文化圏の人間ですので。」

みたいな顔したりするんですね。なに威張ってんだかなあ。

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2016年6月24日 (金)

永遠の嘘をついてくれという歌

ちょうど10年前、2006年のある日、録画したビデオを見ながら酒飲んでたんですね。それ何のビデオかと云うと、その年の9月にあった「つま恋2006」というコンサートで、主に吉田拓郎とかぐや姫が出ていて、8時間延々と歌ってるわけです。

どうしてこれを録画しようと思ったかと云うと、僕らの世代にはこの2006年のつま恋に繫がる1975年のつま恋の記憶というのがあってですね、31年前の8月に「吉田拓郎・かぐや姫コンサートインつま恋」というのが2日間にわたって行われたんですが、何だか覚えているのは、静岡県のつま恋に5万人もの人が集まって、相当大変なことになったことがあったんです。そんなこともあり、同世代としては懐かしさもあって見てみようと思ったんですね。

1975年に話を戻しますと、この時、吉田拓郎29歳。この人は1960年代からフォークソングの世界で台頭し始め、その後シンガーソングライターとして数々の曲を生み、多くのファンの支持を集めます。1972年には「結婚しようよ」が大ヒット。フジカラーのCM音楽も話題になり、1974年には「襟裳岬」がレコード大賞を獲りました。ちょっとメジャーになりすぎて、フォークの世界の方々からは軟弱だと批判や攻撃を受けたりしましたが、ともかくこの頃には、アーチストとしての地位を確立しておりました。

また、1969年にアメリカで「ウッドストックフェスティバル」という大野外コンサートが4日間も続けて行われて、「ウッドストック」という記録映画も評判になっていて、拓郎さんはそれ的なことやりたかったようです。

ただ、いくらなんでも一人だと、時間的にも体力的にも持たないので、仲間でもあり後輩でもあるかぐや姫を呼んだんですけど、実はかぐや姫はその4か月前に解散してまして、でも、なかば強引に連れてきちゃったみたいですね。

ただ、かぐや姫の「神田川」が大ヒットしたのが、1973年でしたから、解散したとはいっても、この頃のこの人たちは、全盛期と云ってよいと思いますが。

1975年て、私は21歳でして、つま恋には行ってませんけど、この方たちの曲はラジオやレコードでよく聴いております。

吉田拓郎さんがフォークの活動を始めたのは、地元の広島の大学生の時で、その頃私は中学高校と広島の子でしたから、ちょっと親近感もありました。フォークソングとは、みたいなことを語り始めると長くなりそうだし、よくわからないんですが、フォークの人たちは基本的に自作自演です。その前は、自分で曲作る歌手は加山雄三さんくらいでしたから、吉田拓郎は、フォークの世界から出てきて、シンガーソングライターと云うジャンルを作った草分け的な人でした。この人の歌にはいつもあるメッセージがありますが、それまでのプロテストのにおいがしたり、背景に学生運動を感じるフォークソングに比べると、それは自身の生き方だったり、恋愛的なものが含まれていたりしました。いつの間にかこの人のことをフォーク歌手とは云わなくなっていたと思います。

そんなことを思いながら、懐かしい吉田拓郎の歌を聴いてたんですけど、ある曲の途中で、突然、舞台の下手からスペシャルゲストの中島みゆきが登場してきます。会場も盛り上がりまして、吉田拓郎と二人でこの歌を歌い始めたんです。私、この時初めてこの曲を聞いたんですが、ある意味ものすごく二人の歌が胸に刺さったんですね。中島みゆき作詞作曲「永遠の嘘をついてくれ」という歌です。ただこれ中島さんが作った曲だとは思わなかったんです。なんか字あまりな感じとか、詩の中身も、見事に拓郎節になっており、ゲストの中島みゆきが吉田拓郎作の歌を歌ってるように思えたんです。

でもこの歌には歴史があってですね、「永遠の嘘をついてくれ」は、1995年に中島さんが吉田拓郎へ贈った歌だったんですね。

1994年頃、泉谷しげるの呼びかけでニュ-ミュージックの大物が集まったチャリティコンサートがあって、吉田さんはそこで中島みゆきの名曲「ファイト!」を弾き語りで歌ったんだそうです。その時吉田さんは、自分が歌いたい歌はこんな歌なんだと強く思ったといいます。この時期、納得のいく歌が作れていなかったのかもしれません。吉田さんは、1995年のニューアルバムのレコーディングの直前に、中島さんに会って、

「もう自分には『ファイト!』のような歌は作れない。」と云って、

異例中の異例のことですが、曲を依頼します。

中島さんは、あの1975年にデビューしています。歳は6才年下で、ずっと吉田拓郎の大ファンであり、音楽的にも多大な影響を受けました。この時、吉田拓郎からの依頼を彼女はどんな思いで受け止めたんでしょうか。

そして、吉田さんがバハマにレコーディングに出発する直前に、中島さんからの渾身のデモテープが届いたのだそうです。

そういうことを知った上でこの歌を聴くと、かつての自分のヒーローに対する中島みゆきの想いが、メッセージが、強くこの曲に込められていることが、よくわかる気がします。拓郎の歌がなければ、中島みゆきもいなかったかもしれないという気持ちが、そこにはあったかもしれません。

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作詞・作曲 中島みゆき  永遠の嘘をついてくれ

 

ニューヨークは粉雪の中らしい

成田からの便は まだまにあうだろうか

片っぱしから友達に借りまくれば

けっして行けない場所でもないだろう ニューヨークぐらい

 

なのに永遠の嘘を聞きたくて 今日もまだこの街で酔っている

永遠の嘘を聞きたくて 今はまだ二人とも旅の途中だと

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ なにもかも愛ゆえのことだったと言ってくれ

 

この国を見限ってやるのは俺のほうだと

追われながらほざいた友からの手紙には

上海の裏町で病んでいると

見知らぬ誰かの 下手な代筆文字 

 

なのに 永遠の嘘をつきたくて 探しには来るなと結んでいる

永遠の嘘をつきたくて 今はまだ僕たちは旅の途中だと

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ 一度は夢を見せてくれた君じゃないか

 

傷ついた獣たちは最後の力で牙をむく

放っておいてくれと最後の力で嘘をつく

嘘をつけ永遠のさよならのかわりに

やりきれない事実のかわりに

 

たとえ くり返し何故と尋ねても 振り払え風のようにあざやかに

人はみな望む答えだけを 聞けるまで尋ね続けてしまうものだから 

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ 出会わなければよかった人などないと笑ってくれ

 

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ 出会わなければよかった人などないと笑ってくれ

 

「永遠の嘘をついてくれ つま恋2006 中島みゆき&吉田拓郎バージョン」9‘15“

は、その後ipodに入れて、ときどき走ったりする時とかに一人で聴いています。何だか励まされて元気出る気がするんですね。自分にとって重要な曲と云うのが、いくつかあるもんですけど、この歌もその一つになっています。

ただ、世の中には似たような人がいるもんで、何年かして、ある飲み会の時にわかったんですけど、あの放送を見て、同じようにあの曲が胸に刺さってた人がいたんですね。古い友人のM子さんと云う人なんですけど、やはり同世代であります。

だよねだよねだよねえ、みたいなことになり、行きましたね、酔った勢いでカラオケ。

私が拓郎パート、彼女が中島みゆきで、唄ったわけです。

で、わかったことは、聴くのとやるのは全く違うことだということでして、

あたりまえのことですけど。

 

2016年6月 1日 (水)

CM出演いろいろ

テレビのCM制作と云うのを仕事にしていると、当たり前ですけど、一年中、身の回りでCMの撮影というものが行われておりまして、それはロケであったり、スタジオ撮影だったり、ものすごく遠くの国まで行ったり、ついそのあたりの会社の横の路地だったりするんですけど、多かった時は自分が担当している仕事だけでも、年間何10本も撮影したりしました。

被写体はというと、それはありとあらゆるものでして、CMですから世の中の商品と呼ばれるものは何でもですし、それを使用する人、摂取する人、語る人、等々。又、あらゆる風景、自然現象、動植物、創作物、等。ともかくカメラを向けて映るものであればすべてです。

撮影方法にも色々あって、基本的には三脚にカメラを固定して撮るのですが、相手が動けば、上下左右に振り回したり、カメラをレールの上に載せて移動したり、クレーンに載せたり、自動車やヘリに載せたりします。ハイスピード撮影というのは、撮った画がスローモーションになりますし、逆に微速度撮影というのは、何時間もかけて動く、たとえば花が咲くところなどを、何秒かのスピードに再生して観ることができます。

とかとか、一言で撮影と云っても、実にいろんなことをやっているわけです。

そんな中、様々なカットを撮っていく上で、その画の中に自分が出てしまうことがあります。わりと多いのは、手元カットというもので、何かを使っている時の手のアップ、何かを押す指のアップとか、まあ手に限らず、足だったり、身体の一部だったりするんですが、そういう場合はカメラの周りにいる誰かで間に合わせることがよくあります。相当その形に意味があったり、美しくなければならない場合は、ちゃんとした手タレさん足タレさんなどに来て頂くんですけど、それほどじゃないことも多いんですよ。

ただ、それを動かすには、けっこう上手い下手がありまして、だいたいスタッフは慣れているからうまい人が多いんですが、被写体としてフレームの中でカメラマンや監督がどう動いてほしいのかを理解して、そのように動けることが大事なわけです。

それと出演ということで、よくあるのが、群衆だったり通行人だったり、いわゆる背景とかに入ってくる複数の人々というものなんですね。これはエキストラと呼ばれる専門の方たちにお願いするんですが、その中に私たちスタッフが紛れ込むこともよくありまして、その場合は監督の狙い通りに背景の人々が動くように誘導を手伝ったりするんですけど、当然ながら、よおく見ると画面に映ってることはままあります。ただ、映っていると云っても、点のように小さかったり、大きくても一瞬だけで通り過ぎて行ったり、たいていの場合、完成したフィルムを見て、それが誰だかわかるような映り方はまずしないんです。

私、以前一本の30秒CMの中に、全部違う格好で4回出たことがあってですね、これはある街の朝の様々な風景を積み重ねたもので、たくさん人が出てくるんですけど、その中で私がやったのは、ラーメン屋の親父と花の市場で働く人とバスを待つサラリーマンと釣り人なんですが、誰が見ても同じ人間が4回も出てるとは思わないんですね。ただ、これを仲間や家族が見ると、私だと気づいて大笑いになるんです。これは、その監督に完全に遊ばれてるんですが、それくらい私達裏方がお手伝いで出演する時は誰だかわからないように撮られてるわけです。

まあ、たいていの場合がそういうことなんですが、稀に誰だかわかるように出てしまうことがあるんですね。

それは出演者として何らかのキャラクターを探している時に、全く無名な人でそういう雰囲気の人みたいな探し方になる事があり、なまじ芝居の経験がある人より、いっそ素人という選択肢になる事があります。そういう時、なんとなく候補になって、そのうち成り行きで出演者に決まっちゃうことがあるんです。私達裏方スタッフというのは、演技者としては完全に素人なんですが、撮影現場ということに関して云えば、非常に慣れていてですね、ヘタだけど上がらずにできるというメリットがあります。はなからあきらめてるから、変に上手にやろうとも思いませんし、そのあたりが適度な素人感が出てちょうど良いこともあるんですね。

世の中の演出家と呼ばれる人は、実に普段から身の回りの人のことをすごく観察してまして、それはその仕事の習性でもあるのですけれど。で、キャスティングに困ったりした時、急に思いもかけない人のことを思い出したりしてですね、これが意外となじんだりするから不思議なんですね。

何年か前に、突然ある監督からそのようなことで呼ばれたことがありまして、この方は現在たくさんいらっしゃるCMディレクターの中で、私が最も尊敬している大先輩でもあり、当然ながら二つ返事でやらせていただいたんです。

それはよかったんですが、これがものすごく目立つ役でして、お医者さんの役なんですけど、構成上、本物のお医者さんが出ちゃったみたいな素人っぽさが欲しかったんだと思うんですね。

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カメラマンもよく知っている方で、そのせいでもないんでしょうが、すごく大きな顔で映してくださり、しかもセリフありの長台詞でして、いっしょに出てる有名女優さんや有名男優さんよりもセリフが多かったりしたんですね。

参ったなあと思っていたら、完成したDVDをプロデューサーの方が持ってきてくださって、見せていただくと、恐ろしく私、目立っているわけです。しばらくして、テレビで放送が始まると、こういう時にかぎって、けっこうすごい放送量でして、たいていの人が見てしまうなと思われました。

恐れていることは、その通りになります。

マンションの郵便受けで新聞取ろうとしてたら、後ろから来た同じマンションのご主人が、この人、本物のお医者さんなんですけど、

「テレビ出てますよね。医者で。」と云われました。

当然、私が医者でないことはよくご存知です。

電話もメールもジャンジャン来ます。会社の近所の昼ご飯食べに行くところなどでも、かならず、

「見ましたよお。」などと云われ、

家族からはほんとに恥ずかしいと云って抗議を受けます。カミさんは、私が医者だと思い込んだ近所の方々に、いちいち言い訳するのが億劫だったようです。

私がときどき酒を買いに行く酒屋さんに、カミさんが買い物に行ったら、

「あ、そういえばこの前、先生が犬連れてみえましたよ。」と、おじさんに云われ、

『先生?あちゃあ。』

昔から我が家の自転車を一手にお世話して頂いてる自転車屋さんでは、

「そういえば息子さんそろそろ受験ですよね、やっぱり医学部ですか?」と聞かれ、

ああ、この方たちはあのCM見て完全に間違ってるとわかり、往生しておりました。

言わずと知れた名監督ですので、見事に本当の医者にみえるように完成されたわけです。お見事でした。

こういう仕事してると、習慣もあって気軽にフレームの中に出てしまいますが、時に大ごとになる事もあります。

それからまたしばらくして、近所の鮨屋に行ったら、やはりそのことを云われましてですね、、オヤジがいうには、その数日前に近所で私と仲良しの本物の役者が来たらしく、この人とは古い付き合いで、当然私の正体を知ってるんですが、

「なんだかんだ言って、あの人、出るの好きなんだよな。」と云って笑ってたそうです。

そうでもないんだけどなあ。そういうとこもあるかあ。 

2016年4月28日 (木)

火がある、酒がある、膝が笑う。

ちょうど2年前に、ここに書いたと思うんですが、会社の新入社員研修キャンプというのに連れていかれて、かなりきつい登山をさせられて往生した話だったんですが、このキャンプ、4月のこの時期に毎年やっているのですね、我社。

去年も誘われまして、ちょうど別の用件と重なっていて、行かなかったんですが、正直に云えば一年前の辛い記憶もあって、出来たら行きたくないなというのが本音だったんです。だらしないといえばそうなんですけど、でも、どっかでさぼっちゃったなというまじめな気持ちもあってですね、で、今年もそのキャンプがやってきたわけですよ。今年は別件もなく、俺、山登りしんどいから行きたくないとは、ちょっと言えない空気もありまして。

だいたいこのキャンプを取り仕切ってるボーイスカウト出身のO桑君と、転覆隊出身のW辺君にとっては、スキップで登れるほどの山だし、この合宿には外すことのできぬメニューなわけです。

「どうだろうか、皆が山から下りてきたところで、温泉で合流というのは?」

などと申してみましたが、二人とも一笑に伏せるだけでした。ま、ありえないですね。

目指す日向山(ひなたやま)は、標高1650m、キャンプ地からは登りっぱなしの約3時間です。登山隊構成員は、新入社員6名に、有志社員7名、車輛部の若者1名、私とゲスト隊員として加わったコピーライターのH川女史、その隊列の前後をW辺キャプテンとO桑キャプテンが固めるという布陣です。

きつい坂を登っていくとですね、だんだんと前方に若者たちがかたまってきて、なにやら楽しそうな笑い声が途切れない状態なんですが、私とH川さんは少しずつ離されていくんですね。これをO桑キャプテンが、シープドックのように私達が群れからはぐれないように、見張りながら行くわけです。登り始めた時は、私もH川さんも無駄口叩いて冗談飛ばしたりしてたんですが、ものの30分くらいで全く無口な人と化しておりました。

「ひなたやま」なんて可愛らしい名前だし、このあたりでは小学生が遠足で登る初心者向け登山だと、キャプテンたちは云うですが、初心者だろがなんだろが、つらいもんはつらいですよね。当然ですが、2年前より2歳年とってるわけだし、おまけに2年前は途中まで車で上がったけど、今回は下からだし、この今回増えた行程が特にきつくてですね。膝が笑うと云いますが、よく云ったものだと思いましたね。その一週間前に、宮古島ゴルフ合宿というのに行って、3日で4ラウンドというバカなことしてきたせいもあるんですが、ほんとに膝が大笑いしておりました。いや、きつかった。

ただ、頂上をとらえた時の達成感というのが、登山というものの醍醐味なんでしょうね。この頂上からの景観がほんとに素晴らしいのですよ。全員で記念撮影しまして、そのまま私は地べたに突っ伏して倒れました。これも2年前と同じだったと思います。

しかし、若さというのは果てしないですね、突っ伏した私の横で、新入社員たちは何度も何度もジャンプしながら山バックの写真を撮り続けております。何なのだ、あのパワーは、と思いながら、考えてみますと、私より40才年下なんですから当たり前といえば当たり前ではあります。年齢差40って江戸時代なら孫ですよ。

このあと膝は笑いっぱなしで、私は風林火山の山本勘助のような歩き方で、山道を降ります。どうにかこうにか温泉に着いて、ふやけるほど湯につかり、疲れ切った身体にゴクゴクと生ビールを入れたあたりから、おじさんは徐々に蘇りますね。やがて、薪に火がつけられキャンプが始まりました。そおなんです、このカラカラ、クタクタ、スカスカの状態に、酒と肉を注入するのです。酒池肉林です。オリャーー。

私は、このためにやってきたのだぞ。そして、あのつらい山登りもそのためだったのだ。俄然、元気が出てきます。そのあたりは、山では無口だったH川女史も、私と同じ考えだったようです。すでに焚火を囲んで、持参した酒を皆にふるまってニコニコ元気におなりになってます。

私達がいつもキャンプしてるこの場所は、薪で焚火ができる今や数少ないキャンプ場でして、O桑君は薪で肉を焼かせると天才だし、私はこの焚火を見ながら呑んでいればいつまででもそうしていられるくらい焚火のことは好きなんですね。昔から、焚火見ているとなんか安らかな気持ちになるというか、落ち着くんですよね。原始人のDNAなんでしょうか。

そういうことで、30代とか40代の頃に、自分でキャンプできるような人になれるといいなと思って、いろいろ本買って勉強してわりと詳しくはなったんですけど、ようく考えてみると、あれだけのことを労苦をいとわず一人でやりきる勤勉さはないかなということに気付きまして、それからはキャンプも別荘ライフも、もっぱらどなたかのところに寄せていただくというパターンになっております。それなので、この場所でずっと焚火を見ていられるこのキャンプは大好きなのですが、あの日向山とセットというところが、やや躊躇するとこではあるんです。

毎回、究極に疲れきったところに酒が入ってきて、肉がジュージューいって、火に癒されるのが、決まり事ではあります。

この新人研修キャンプというのは誰が考えたか、よくできていて、2泊3日のキャンプを仕切るうえにおいて、人々の移動から考え、色んな道具をそろえ、食材を仕込み、酒を考え、薪も準備し、進行も考え、設営し、撤収し、自分達ですべて完成させるというのは、確かにいい勉強になるんだろうな、これからの仕事をやるうえで、と思いますね。

私が個人的に、この研修でいつも思いいたるのは、あの辛い辛い山登りの後、あの天国のような夜が来るという、人生、苦しいあとには、いいこともあるよという教訓のようなものなんですが。

でも、若者たちはあんまり登山はこたえてなかったから、しみじみそんなこと思ってるのは、私だけでしょうが。

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2016年3月17日 (木)

断酒・その後

報告ですが、2月1日から29日までの1ヶ月、何とか禁酒することに成功しました。

出来るかなあと思っておりましたが、途中で挫折することもなくです。終わってみると、へえ、意外とやれちゃうもんだなあと思いましたが、やっぱり1ヶ月は長かったですね。

ひと月ぶりに飲む酒は、確かにうまかったし、同志AZさんと健闘をたたえあった酒は10時間にも及びましたが、なんか特殊な暮しから、もとの暮らしに戻ったようなことで、意外と淡々としたものではありました。

やめてる間は、なるべく酒のことは考えぬようにして、夜、人と会食することは極力避け、酒が飲みたくなるような食べ物も極力避けて、過ごしておりました。

飲まないと、眠れなくなるんじゃないかという心配があったんですけど、それは杞憂でありまして、むしろよく寝れて身体も休まり、とりたてて禁断症状に苦しむということはなかったです。

ただ、日が暮れると酒呑みたくなるのは、長年の条件反射でして、それをあえて当り前のように飲まないでいるというのは、けっこう大変なことでしたね。なんかこう、間がもたないわけですよ。普段、いかに酒呑みが、酒呑んで時間をつぶしているのかがよくわかります。これにかわる新しい過ごし方がすぐに見つかるのでもなく、飲まなきゃ晩御飯もすぐに終わっちゃうし、急に夜の街を走るというのもなあ、この時期寒いしなあ。やはり月並みですけど、本を読んだり、映画を観たりということになるのかな、と思ったわけです。

そこでいろいろと、本屋を物色したり、アマゾンで注文したり、映画をipadに取り込んだりと、準備はしておりました。でも、映画観るのも、本読むのも、その気になればわりと早くできちゃうし、なんか、冬眠する時に食糧ため込むような気持ちになると、1ヶ月ってずいぶん長く感じるんですよね。

そんな時、ふと、そうだ「鬼平犯科帳」 24巻だ。と思ったわけです。まあいつかは読もうと思ってはいたんですけど、この小説は1967年から1989年まで連載されたもので、全135作ありまして、かなりの分量は分量だし、きっかけがないままだったんですが、この断酒1ヶ月にはうってつけだなと。

で、「鬼平犯科帳」ですが、おもしろいです。さすが、長きにわたって多くのファンを持つこのシリーズ、エンタテイメントとしてよくできてるんですよ。一話一話は文庫本が50ページくらいで完結してるんですけど、お話はいろんな要素が微妙につながっていて、ひとつの世界ができております。実に様々な登場人物が出てくるんですけど、それぞれにきちんとキャラクターが描かれており、何だか似たような話かなと思うと、全然違っていて、意外な展開が待っておりまして、池波正太郎先生、成るほど達人でいらっしゃいます。

あれよあれよという間に、10巻ほど読んでしまいまして、まだ14巻もあるのですから、これはなかなかに、良い思いつきだったんですが、ただ強いて言うと、ひとつ問題がありまして、ここに出てくる長谷川平蔵さんはじめ、この江戸の街の人たちが、けっこう酒好きなのですね。そして、実にうまそうに飲むんですよ。ストーリーの中で、よく張り込みをしたり、密会したり、待ち伏せをしたりするんですけど、そういう時、実に都合の良い場所に居酒屋や屋台や蕎麦屋があります。それと長谷川平蔵の役宅に人が訪ねてくると必ず酒を出しますねこの人。そういうシーンで、別段、贅沢なもんじゃないんですけど、ちょっとした肴をあてに飲む酒というのが本当にうまそうで、禁酒してる身にはこたえるわけで、その都度閉口しておりました。

そういうせいでもありますが、同志AZさんと、断酒明けはどこで何を飲もうかという話になった時に、

「昼間から蕎麦屋で、野沢菜に炙った鴨で、冷や酒。」

ということになりました。人の欲望は、わかりやすいです。

 

ただ、私的には1ヶ月の禁酒というのは、大変なことだったわけで、その成果というのが知りたくて、人間ドックを受けたクリニックに行って再度血液検査してもらったんですね。そしたら、禁酒した効果は確かに出ていますが、根本的な問題は解決されてないので、引き続き節制してくださいとのことでした。

考えてみると、そりゃそうだよな。この何10年にも及ぶ不節制に対して、たかが29日間酒やめたからって、物事が画期的に変わるということもないですよね。

そして、この1ヶ月の体験が何をもたらしたかというと、一応酒やめることは、いざとなればできるかなということと、とにかく、ただの習慣だけで毎日酒飲むのはやめたほうがいいなということだったでしょうか。

初めての経験ではありましたが、自分はやはり酒が好きなんだなということも、よくわかりました。ただ、いい歳なんだし、身体のことも考えて、これからは酒といい付き合いをしなきゃと、ちょっと殊勝なことを思ったり、少しそういうこと考えたわけですね。

 

しかし、長谷川平蔵は、歳のわりに飲みすぎとちゃうかなあ。

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2016年2月18日 (木)

断酒

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どういうわけか、2月の1ヶ月間、酒やめることになったんですね。

きっかけは、昨年末の人間ドックで、腸にポリープが見つかりまして、2月の初めに切除することになり、内視鏡でやるんですけど、そのあと自宅で1週間ほど大人しくしてなきゃいけなくて、まあ、その間酒飲んじゃいけないわけです。

ので、禁酒の予定は1週間だったんですが、そのまま1ヶ月酒を断ってみないかと、ある方からそそのかされたんですね。その人はAZさんと云って、今はリタイアされてるんですが、かつて広告を制作されていて、伝説のCMプランナーと云われた人なんですけど、私が昔から尊敬してる先輩で、今は酒飲み仲間なんです。

AZさんは2月に酒抜くことにしたみたいで、どうしてそういうことしようと思ったのか聞いてみたんですが、この方、最近お医者さんのお友達が多くて、かなり人間の身体に関しての医学的知識を身に付けられてまして、まあ、もともと知識には貪欲な方なんですけど、こんなふうに云われるわけですよ。

「お互い60年以上生きてるわけで、その間、人間の内臓というのは、休みなく働き続けてるんだよね。寝てる間もです。そこに、毎日のように酒を飲み続けてきたのね。彼らにしてみたら、勘弁してほしいわけですよ。ここに来て1ヶ月くらい酒をやめてあげると、ずいぶん長年の疲れが取れるんじゃないかと思ったわけよ。」

「じゃ、なんで2月にしようと思ったわけですか。」

「それは、一年のうちで2月が一番日数が短いじゃない。」

「はあ」

「実際それやると、かなり内臓の機能は回復するみたいよ。」

と。

それで、もう一つ思い出したことがあって、1月にある人から年賀状が来たんですが、この人も業界の大先輩で、音楽プロデューサーのA田さんというんですけど、“ちょい”じゃない悪オヤジで、昔から、飲む打つ買うの三拍子の人なんですね。で、年賀状の文面ですが、

「元気でお過ごしですか。

私、昨年末にめずらしく体調を崩し緊急入院。

16日間の絶食と点滴生活・・・・・。

おかげで血圧と体重が正常値に戻った。

おまけに“有馬記念”も的中と大忙し。

現在リハビリの毎日です。

2016年 健康で平和な良い年であります様に。」

とありました。あまり反省は感じられないのですが、良かったです。そういえば、この人、今まで酒切らしたことなかったと思いますよ。

 

確かにそうです。習慣ということもありますけど、もうずいぶん長いこと酒飲み続けてますもんね。

ちなみに、貧乏であんまり飲めなかった学生時代を除いて、続けて酒を抜いたことがどれくらいあったろうかと、思い出してみたんですが、

昔、ソルトレイクってところで、CGの制作をしたときに、連日徹夜になったのと、この街の多くの人が入信している宗教の宗派が、酒飲んじゃいけなくて、どこに行っても酒が置いてなかったことがあって、この時、多分5日間ほど飲めなかったのが最長だったんじゃないかと思うんです。

そんな私がですよ、一カ月も酒を抜くことができるのだろうか。2月に入って、2週間ほどが過ぎましたが、私もAZさんも今のところ挫折してません。禁断症状とか出るとやだなと思ってたんですが、そう決めてしまうと意外と大丈夫で。まだ油断はできないですけど。

ともかく、それなりに長く生きてきて、何だってこんなに酒と切っても切れないことになってしまったのか。物心ついてから、どうして酒を飲み続けているのか。納得していただくに、有効な理屈はこれと云ってございません。

「酒呑みの自己弁護」という、山口瞳先生の名著がありますが、痛く共感したのを覚えております。

酒呑みというのは、「ちょっと一杯やるか。」という呼びかけに、無上の悦びを覚えます。ちょいと気の利いた肴でもあれば、この上ないです。そして、言ってみれば、いつまでも飲んでいられます。それが、気の合う仲間となら最高ですし、ある意味、たいていの場合、誰とでも、二人でも三人でも大勢でもいいし、一人でももちろん、かまいません。

酒には、嬉しかったり楽しかったりする気持ちを増幅する作用があり、盛り上がるとドンチャン騒ぎにもなります。ただ、不機嫌だったり、哀しかったり辛かったりする気持ちも増幅されますので、ちょっと良くない酔っ払いになる事もあるんですが。それに、適量を過ぎると、わりと、しばしば過ぎる傾向にあるんですが、迷走することもあります。

ということで、酒が人生にとって、どうしても必要かというと、そんなこともなく、プラスになる時もあればマイナスの時もあります。トータルで云えば、どっちもどっちと云うことでしょうか。でも、飲んでしまうんですね、習慣的に。

昔、この仕事を始めて、間がない頃、あこがれの鈴木清順監督があるビールのCMを作られたときに、制作進行で付かせてもらったことがあって、もう、そばにいれるだけで、ただ幸せだったんですけど、何だか心に沁みるいいCMだったんですね。

焼鳥屋のカウンターで、大人の男が一人(高橋悦史さんなんですけど)ビール飲んでるだけなんですが、その店の壁に女の人の絵があって、ふっとその絵を見るみたいな話で、そこにナレーションが入って、

「酒、煙草、女、ほかに憶えし事もなし・・・」 って云うと、

トク、トク、トク、とビールが注がれるわけです。

駆け出しの男としては、なんかいいよなあ、男だよなあとか思ったわけですよ。

つまり、この頃すでに、私の価値観には、男の人生には酒というものが組み込まれてるんですね。そして、ずっと組み込まれたままなんです。

煙草はやめれたんですけど、だから酒もやめられるんじゃないかと云うと、それとこれはちょっと違う気がしますね、やはり。

酒やめたら、もしかしたら、健康診断の数値が良くなって、健康になって長生きできるかもしれないけど、別の意味での健康を損なってしまうかもしれない。世の中には、酒を飲めない人も、酒が嫌いな人もいて、そういう人でとても仲良くしている人も結構いるんですけど、自分が酒と縁を切る事は出来ないんだろうなと思うわけです。

私なりの、なんの説得力もない自己弁護ではあります。

ということで、一ヶ月間、断酒できたとして、そのあと画期的に人生が変わるとは思えないのですが、ともかく、見たことのない景色を見てみようと云う、未踏域への冒険のような気持ちでいるわけです。

大げさですけど。

 

 

 

2016年1月15日 (金)

海賊の血

前にも書いたかもしれませんが、私、船酔いと云うのをしたことがなくてですね。多分、今までで一度もないです。ついでに申しますと、ほかの乗り物酔いもしたことがないんですね。

体質としか言いようがないと思うんですが、よく船に乗るだに真っ青になって気持ち悪そうにしてる人がいますが、それがどんな具合なのかよくわからないんです。酒を飲みすぎて、気持ち悪くなって吐いたことは何度もありますから、あんなことなのかなとは思うんですが、どうなんでしょうか。

船には、苫小牧発・大型フェリーから井の頭公園のボートまで、いろんなのにさんざん乗っていますが、そんな中でもちょっとすごい経験があってですね、若い頃に仕事でロケに行ったんですけど、何を撮りに行ったかと云うと、荒れ狂う嵐の海の中を行く一艘のクルーザーヨットだったんです。低気圧が来て天候が荒れるのをを待って、相模湾のけっこう沖合でで撮影したんですけど、撮影スタッフは40名ほど、ヨットに乗る人や、ほかの船やボートからヨットを撮影する人といろいろいて、私は別の船から撮影スタッフやヨットクルーへ無線連絡する係でした。海はかなり荒れてましたから、船から振り落とされないように、皆いろんなところに掴まりながら、早朝から陽が落ちるまでの過酷な現場でした。この時、私以外の全員が吐いたんですね。吐いて立ち直る人もいたし、そのまま立ち上がれない人もいました。まあ、後にも先にも経験したことのないすさまじい撮影だったんですけど。

それくらい船酔いしないわけですよ、私。

それでいろいろ考えてみるにですね、この私の体質は、私のルーツに関わりがあるんじゃないかと思うわけですよ。

大学生の頃の夏休みに、当時まだ元気だった私の祖母から、ご先祖様の墓参りに行くから、運転手をするように云われて、二人で瀬戸内海に浮かぶある島まで行ったんですね。広島市内から約2時間くらいかかったと思いますが、瀬戸内の島って、けっこう橋でつながってるから、車で行ける最南端のあたりだったと思いますけど、まあすごく田舎なわけです。

墓石に刻まれた文字もほとんど見えなくなるほど風化しており、年月を感じる小さな墓がいくつも並んでいました。その一つ一つに、ばあちゃんが線香を上げてゆくわけです。

「これが、うちのご先祖さんなん?」と、聞くと、

「多分そうじゃろういうことが、最近わかったんよ。」と、ばあちゃんが云いました。

手を合わせて、振り返ると、陽が傾きかけたベタ凪の瀬戸内が、鏡のような水面を光らせています。手前にも奥にも美しい島々が配置されていて、ものすごくきれいで平和な風景です。温暖だし、魚もうまそうだし、うちのご先祖さんは、良いところで暮らしてたんだなあと思いました。どうも船大工をしていたらしいです。

帰り道に、車の中でばあちゃんがしてくれた話は、

「定かじゃあなあがね、昔、和歌山の方に、うちの名字と同じ名前の海賊の一団がおって、平清盛が神戸から西を治めていく時に、いっしょについて来たんじゃないかゆうことなんよ。そのあと、あの墓のあったあたりの場所に住みついて、そのうちに船大工になったんじゃないかゆうことみたいなんじゃ。」

そう云われてみると、もしも戦をしに来て、あの場所でさっきみたいなきれいな景色見たとしたら、面倒なことはやめて、ここに住んじゃおうかと思ったご先祖さんの気持ちが、ちょっとわかるような気がしたんですね。そう考えると、確かに、船酔いする海賊というのもなかなかいないだろうし、このルーツ論は腑に落ちるんですわ。

その後、詳しくはわからないけど、明治になるころ、今の広島の近くの矢野という海沿いの町に出て行って、いろいろ船を使った仕事を始めたようです。

私は、中学の途中から、大学進学で東京に出ていくまでの数年間をこの町で暮らしました。目の前には海が広がっていて、牡蠣の養殖いかだがびっしり並んでいる町でした。

私の家は、海に面していて、そのころ家には、12フィートのモーターボートがあったんですね。3.65メートルほどで、12馬力の船外機をつけてあり、バイクでいうと原付バイクみたいなもんですが、これでけっこう遠くまで行ってたんです。広島の街は何本もの川が広島湾にそそいでいて、川伝いにどこでも行けたし、湾の反対側には15kmほどのところに、有名な厳島神社があってよく行きましたね。魚も釣れたし、あの頃、暇さえあれば始終海にいました。何だか船に乗って海にいると落ち着くと云うか、これも私の血のせいだったのかもしれませんねえ。

もう時効だと思いますが、船の航行ルールのことや、エンジン回りのことは、ちゃんと勉強してて、海図も全部持っていたんですけど、いわゆる免許というものは持ってなかったんですね。18歳未満だったし。

ただ、ほんとに年に一回あるかないかなんですが、海上保安庁の船に呼びとめられることがあるんです。そういう時は逃げましたね。こっちは、島と島の間の細い水路とかも全部知ってるし、複雑な牡蠣の養殖いかだの間に入ってしまうと、どうにもなりません。それで目くじら立てるわけでもなく、40年前はけっこうのんびりしてました。まあ、いい訳にはなりませんが。

今もその町には、歳とった両親が住んでいて、ときどき家族で帰りますけど、海はすっかり変わりました、私がちっちゃいボートで走り回ってたあたりは、ほとんど埋め立てられて、学校や病院が建っているし、海をまたいで町どうしを大きな橋が繋げているし、牡蠣のいかだもずいぶんなくなりました。40年も経てば当たり前ですけど。

でも、ふと思ったんですが、あの時ばあちゃんと見た入江はどうなっているんだろうか。多分行き方もわかんなくなってるんですけど、今度行ってみたいなと思ったわけです。

平清盛さんの話はどうだかわかりませんが、この海で長いこと船と関わってきたご先祖さんだったことは確かかもしれませんよね。

この船酔いしない体質を考えると、やはり。

Kaizokusen

2015年12月 3日 (木)

西荻のとっつあん

このまえ「恩人」ということを考えていて、もう一人私が若い時からずっと世話になった人のことを思い出しました。その人は、私が働き始めたCM制作会社の、車輛の仕事を全部取り仕切ってた人でした。厳密にはこの会社の人ではなくて、自分で車輛部の会社をやっていて、子分も2,3人いたんですね。撮影現場にはスタジオでもロケでも、必ずそこにいた人で、松園さんと云います。

私はその現場におけるすべてのヒエラルキーの最下層にいて、ありとあらゆる用事をいいつけられるんですが、わからないことは何でも松園さんに教えてもらいました。会社の先輩もいるんですけど、現場に出てしまうと、それぞれにやる事があって、ゆっくり教えてもらってる場合じゃないし、わかんないことは松園さんに聞くように言われてました。30人ほどのこの会社で、制作部の助手というのは、私ともう一人くらいしかいなかったので、この会社の撮影現場のほとんどには私がいて、必ず松園さんもいたんですね。当時私が22歳で、松園さんが40過ぎだったと思いますが、この人、何でも知っていました、ホントに。それで教育係も兼ねてくださってたんだと思います。

何でも教えてくれるし、仕事も手伝ってくれるんですが、こっちが油断してると、よく罠にかけられました。気を抜いてるといたずらされるんです。他愛無いことですけど、ちょっと大事なもの隠したり、嘘を云ったり、こっちがはまるとほんとに嬉しそうな顔するんですね。まあ、それは、僕ら若いもんが通っていく関門のようなもんなんですが。

ただそれは、面白くなくちゃならないという、この人の不文律がありました。

いたずらは、ほんとにいろんなことを思いつく人なんですよ。

たとえば、松っつあんと私と私の助手が3人で冬の北海道をロケハンしてる時にですね、助手のO君が道を教えてもらうために、どこかのお店に入っていくわけですね。そのあと車に帰って来るんですけど、O君が車に近づいてくると、だんだん車がO君から離れていきますね、当然運転してるのはあの人ですけど。O君がちょっと走ると、そのスピードに合わせて車はまた離れていきます。外は吹雪です。O君がむきになって走るとまたスピードを上げます。そしていよいよ吹雪の中で点のように小さくなっていくO君を、私がロケハン用ハンディカメラで撮影するわけです。そして雪だるまのようになったO君がようやく車に入れた時には、もう息が上がって何もしゃべれません。

そういう時、この人ホントに嬉しそうなんですね。そのビデオをその夜、旅館でごはん食べながらみると可笑しくてですね、男三人の殺風景なロケハンが実になごむんです。

松園さんは、ずっと西荻窪に住んでたんですが、私はこの人のそばに住んでいれば、必ず車で拾ってもらえるから、撮影に遅れることがないと云う理由で、いつしか西荻に住むようになります。制作部と云うのは、いつも車輛部と一緒に一番に出て行って、一番最後に帰ってきます。そんなことなので、ある時期この人と一緒にいる時間がほんとに長かったんですけど、そのうちに、この人は本当にプロだなあと云うことがわかってきました。一つの事に対して、常に何通りもの方法を考えているし、いつも不測の事態に備えています。一緒に仕事してるうちに、それがだんだん理解できるようになりました。人のことを、はめてやろうとばかり、考えてるわけじゃなかったんです。

右も左もわからない若造が、自分のテリトリーにころがりこんできたから、仕方なく面倒見てやってるうちに情が移ったのか、いつしか身内のように扱ってくれるようになります。何年かして、それなりに仕事もわかってきて、どうにか一人前になったかなと思った頃、松園さんは私のことをさん付けで呼ぶようになりました。何だか照れ臭かったんですけど、そういうけじめの人でした。鶴田浩二のファンだったし。

その頃私が担当していた「小学一年生」という雑誌のCM「ピッカピカの一年生」という仕事は、松園さんがいなかったら絶対にできない仕事でした。

どういうことかと云うと、毎年、秋から春にかけて日本全国の今度小学校に上がる子供たちを撮影するんですが、だいたい半年で7カ所を回ることになってまして、収録はすべて松園ワゴン車に装着されたVTR機材で、2吋のテープで行ないます。私は飛行機や新幹線などを使って全国を飛び回っていて、ロケの日程が決まると、たとえば何月何日の何時に、石垣島の港に来て下さいとか連絡するわけです。撮影は昨日まで短パン穿いてた南の島から3日後には雪の北海道へ移動したりします。もちろん移動可能な日程を組みますが、台風もくれば、大雪も降るし、事故渋滞もあるし、フェリーが欠航することもあります。この人はいつも陸路と海路を駆使して、何通りものルートを考えていて、何手先も読んでいました。早く着きすぎたら、あっちこっちの馴染みの店で時間つぶしたりもしていましたが、12年間この仕事やって、約束の時間に彼の車が現れなかったことは、ただの一度もありませんでした。

車がパンクしたり故障したりした場合のシミュレーションも、いつも完璧にできてました。北国に行くと、よく夜中にものすごいドカ雪が積もる事がありますけど、朝起きると撮影車の周りだけは、雪掻きがしてあるんですね、誰にも気づかれず。そういうとこも鶴田浩二な感じでしたね。そういえば酔っ払うと、よく鶴田さんの「傷だらけの人生」と「街のサンドイッチマン」を唄ってましたね。深く酔うといろいろスタッフつかまえて説教してましたよね。そういう時クライアントの偉い人とかもおかまいなしですから、往生するんですけど、でも、みんなから愛されてましたから。この仕事は松園さんがいないと始まらないと誰もが思ってました。

それからもずっと、私たちの仕事に、いつもあの年代物のハイエースのロングボディを蹴って駈けつけてくだすったし、私達が小さい会社を作ったら、まだそんなに仕事のないその会社の専属車輛部を引き受けてくれて、よその仕事やらなくなって心配もしたけど、何だか意気に感じてくだすったみたいでありがたかったです。

でも、それから何年かして、松園さんは肺ガンで逝ってしまいました。還暦のお祝いしたばっかりだったから、思えば今の私と同じ歳でしたが、ビールとハイライトが大好きで、何より医者がほんとに嫌いだったから、いくらなんでも早すぎたんですけど。

 

そういえば、子供の頃、小学一年生の頃ですが、3年ほど西荻窪に住んでたことがあったんですけど、あとで聞いたら、松園さんもその頃に結婚して西荻窪に住み始めたそうです。それが、絶対遭遇してたであろう至近距離で目と鼻の先でした。不思議なご縁だったなと思います。

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この人が、この前に書いた平田さんとすごく仲良しで、絶妙なコンビで、何だか私の記憶の中では、いつも撮影現場で二人並んで座っていて、完全にセットなんですね。

よく二人していじられてたわけです。

 

 

 

 

2015年10月14日 (水)

成城のおじさん

大学時代の後輩で、今でもたまに会って飲むのは、一人だけなんですけど、この人は学生時代に私と同じ下宿の並びの部屋に住んでいた人で、F本君と云います。自慢にはならないんですが、私、大学にはあんまり行かなかったもので、大学関係の知り合いが少なくてですね。ただ、彼にはいろいろと世話になったんですね。

F本君は一学年下の別の学科の学生だったんですけど、私と違ってちゃんと大学に行って勉強するし、けっこう几帳面で綺麗好きでわりときちんとした人でした。

私はというと、部屋には酒瓶がゴロゴロしていて足の踏み場がなく、ただ寝るだけのことになっておりまして、在宅時には徐々に隣のF本君の部屋でくつろぐようになっておりました。自分で持っていたテレビもすっかり彼の部屋の棚に収まっていて、彼の方が遅く帰ってきたりすると、「おかえりー」とか云っておりました。まあそういう仕様がない先輩だったんですけど、仲良くしてくれて、よく一緒に酒を飲んだりしてたんです。

彼とはすごく縁があったんだと思います。多少迷惑だったかもしれませんが。

これからする話もそういうことの一つなんですけど、F本君には決まったアルバイトがあってですね、それは家庭教師なんですけど、世田谷の成城学園に親戚の家があって、そこにいとこの姉妹がいて、この二人に勉強教えてたんですね。当時たぶん中学生とか高校生くらいだったと思いますが、彼は勉強できる人でしたから教えられたと思うんですけど。

ま、それはいいんですけど、彼はそこのことを成城のおじさんの家と呼ぶんですが、家庭教師の日は必ずそこで晩御飯をいただいて帰ってくるわけです。それがいつもご馳走らしく、特にステーキを食べた日は帰ってくると、私にどんなステーキだったかを詳しく説明するんですね、頼んでもいないのに。

で、ちょっと頭に来てたもんで、今度、一度私を、その成城のおじさんの家に連れていくように言ったわけです。大変お世話になっている先輩ということでです。ステーキとか、しばらく食べてなかったし。

それで、次の家庭教師の日に、私、付いていったわけです、用もないのに。そして、計ったようにステーキを出していただきまして、いや、感動的に美味しかったのですが、ずうずうしくステーキをいただいているとですね、リビングの奥の方で、その成城のおじさんが電話で話をしてるんですけど、どうも仕事の打ち合わせらしくてですね、なんだか床がどうしたとか、壁がどうしたとか、建具のこととか、それで長さの単位は尺だとか寸だとか何間(けん)だとかで話してるんですね。こりゃ大工さんと話してるんだと思ってると、撮影日がいついつとか云うわけです。あ、そういえば成城のおじさんはテレビとか映画のセットを作るデザイナーという職業だって云ってたことを思い出したんですね。ステーキに気を取られてすっかり忘れてたんですけど。それで他にすることもないし、ずっとその電話聞いてたら、けっこう面白かったんです。何ミリのレンズだから、引きはこうで建端(たっぱ)はどうだとか、わりと聞いててところどころ意味わかって、たぶん自分の学科が土木建築だったり、友達と8mmとか16mmで映画作って遊んだりしてたせいだと思うんですけど。そこで、このおじさんはテレビや映画のセットを作る設計技師の親方のような人で、成城に家建てるくらいだから、きっと偉い人なんだなと思ったんですね。あとで聞いたら、今はテレビのCMの仕事がメインで、さっきの電話もCMのセットの打ち合わせだったと云うことでした。

その日はすっかりご馳走になって、お礼を申して、また来てくださいねと云われて真に受けたりしながら、帰りました。

 

そんなことがあってしばらくしてから、私は大学を卒業することになるんですけど、ちゃんとした就職活動もせずブラブラしているうちに、あるCMの制作会社でアルバイトすることになったんですね、ひょんなことでということなんですが。本当は、私、土木工学科と云うところにいたんで、建設会社とか、何とか組とか、市役所とか、そういうところに行かなきゃいけなかったんですけども。

そのアルバイト始めた時はそうでもなかったんですけど、30人くらいのその会社は、そのうちに猫の手も借りたいほど忙しくなってきました。

そんな時にわかったんですが、この会社が作っているCMのセットは、すべて、あの時お世話になった成城のおじさんが作っていることがわかったんです。平田さんと云いました。

ある時、会社の廊下で平田さんに会ってあいさつをした時に、

「なんでこんなとこでアルバイトしてるんだ、ちゃんと大学で勉強したことを生かして就職しなさい。」と、叱られました。

平田さんは一級建築士の資格を持っている美術デザイナーだったんです。

でも、私はその後ずっとこの会社で、制作部としてアルバイトを続けることになります。

それからは、撮影現場そのものが、私の職場となるのですが、その現場には、ことごとくこの平田さんがいらっしゃるわけです。こっちは駆け出しですから、現場でありとあらゆる失敗をするんですが、それらを全部、平田さんに見られてしまうことになります。なにかと助けていただくことも多くてですね、まあ頭が上がらなくなるんですね。こっちの弱点もようくご存知で、私が高い所が苦手だとわかってて、仕事でスタジオの天井に上がらなきゃいけなくなると、必ず私を行かせますね、嬉しそうにね。

いつかステーキご馳走になったお宅にも、打ち合わせとか、お願いした図面をもらいにとか、うかがうことも多々ありました。

撮影中はまず一緒にいますし、先述のF本君の結婚式にも並んで出席いたしました。

 

そうこうしているうちに、7年ほどして私も仕事覚えてプロデューサーという立場になりますが、やはり美術は平田さんにお願いすることが最も多かったです。一人前になったばかりで勝負かけなきゃいけない仕事があって、東京で一番大きなスタジオに、ものすごく大きな船のセットを組むことになったんですね。時間もなくて予算もきつい中、これがどんどんえらいことになってきて、スタジオにセット作ってるところを見に行ったら、あんまり見たこともないような太い鉄骨を溶接してて、スタジオが鉄工所みたくなってて、なんか立ち眩みしたの覚えてます。

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まあ、ちょっと語り草になるような船を作っちゃったんですね。でも、おかげさまでCMは狙い通りのものができて、山崎努さんが船で外国に旅する喉薬のCMだったんですけど、すごく評判にもなりました。当時、広告批評の島森さんが朝日新聞のCM評でほめてくださって嬉しかったのを、今でも覚えてます。

ただ、あとで聞いたんですけど、セット作ってる時に、あの温厚な平田さんが撮影所の大道具さん達を怒鳴りとばして大喧嘩になりそうなことがあったらしくて、ずいぶんと無理な仕事を頼んでしまったんだなと、申し訳なく思い、そっと手を合わせたことがあります。でも、そのことは最後まで私にはおっしゃいませんでした。

それから何年かして、仲間たちと小さな会社を作って独立した時も、いつも大変な仕事を楽しそうにやって下さり、何度も助けられました。そして、これもいろいろ大変だったんですけど、私達の会社で映画を作ることになった時も、当然のように引き受けてくださり、ほんとに心強かったです。考えてみるとこれほどお世話になった人も他にいません。

そのあと、病気になられて入院され、2003年にひっそりとお亡くなりになりました。73歳ですからまだまだ活躍できたのに、本当に残念でした。お別れの会は、平田さんとよく仕事をした日活のスタジオでしましたが、たくさんの人で広いスタジオが一杯になりました。

亡くなった時に思ったんですけど、ただただお世話になっただけだったです。子が親にされるようにです。考えてみると親と同じ年代なんですけど。

しばらくして、ステーキを作って下さったやさしい奥様もなくなりました。

たまたま、お宅におじゃまして、不思議なご縁で長いことお付き合いさせていただいたけど、なんであんなによくして下さったんだろうかと思います。

これもあとで聞いた話ですが、私がアルバイトから正社員にしてもらった時も、会社の偉い人に平田さんがずいぶん推して下さったそうなんです。そんなこと一言も聞いてないですし、いつも俺には正業に就けと云っていたのに。

何一つ恩返しもできてないままです。こういう人のことを恩人と云うんですね。

 

先日、久しぶりに某食品会社の立派な部長さんになっているF本君と飲んで、成城のおじさんの話をして、つくづくそういうことを思いました。

ただ、平田さんは口は悪かったなあ、思い出すと、そういうとこがまた懐かしいんですけど。

Hiratasan

2015年9月18日 (金)

寝る力

この頃少し涼しくなって思うのは、今年の夏の盛りの暑さは尋常でなかったなということと、あの頃から考えると最近はよく眠れるなということです。梅雨が明けてからしばらくは熱帯夜で、ずっと寝苦しかったですから。

エアコン掛けたりもするんですけど、やっぱり若い頃に比べると、寝る力が衰えてるというか、寝るのも能力というか体力なんだなとつくづく思えますね。若い時は、暑かろうが寒かろうが、どんな場所であろうが、寝るとなったら、寝るのに1分とかかりませんでしたからね。あれ何だったんでしょうかね。

いまは、わりと寝る間際に目が冴えてしまったり、夜中に目が覚めて眠れなくなったりということがたまにあります。たぶん歳のせいなんでしょうね。昔どんな時でも手品のように寝てしまえた先輩が、いまは睡眠導入剤を持ち歩いてたりしますし、そういうものなのでしょうか。かつては、それに加えて深酒でもしようものなら、ものすごく深いところの眠りに落ちていったものですが、いまはあんまり深酒して寝るとうなされたりしますからね。若い時はあなた、酒飲まないで寝るとうなされてたんですから。

あの頃、逆に寝ないで起きてる能力もすご高くて、だいたい2日や3日寝なくても平気でしたし、わりといつも睡眠時間が少なかったから、いざ寝ると眠りが深かったこともあるかもしてません。

なんかかつては、私達の仕事してる人は、今もそういうとこありますけど、寝ないことが自慢なところがあって、徹夜すると誇らしいみたいなとこがありましたね。

だいたいこの仕事始めた時に面接で、

「徹夜とかしても平気?」と聞かれたので、

「学校の課題で設計図面を書いた時に、3日寝なかったことがあります。」と云ったら、

「君、図面書いてる時はただ座ってるんでしょ。俺たちの仕事は走り回って3日くらい寝ないでいることがよくあるから。」

などと自慢げにおっしゃってましたから、鼻広げて。確かにその通りでしたけど。

あと、業界の超売れっ子クリエーターで、寝ないことで有名なS木さんという方は、

「今、寝るのはもったいないです、死んだらずっと寝れますから。」

とおっしゃったです。まあここまで行くと本物ですけど。

油断して寝てしまった失敗は枚挙にいとまがありません。中央線の最終で八王子のあたりで起こされて茫然とするのも一度や二度ではありませんし、東横線で渋谷と桜木町をどう考えても2往復して目が覚めたり、いろいろあります。

ずいぶん前ですけど、先代の市川猿之助のファンだったもので、歌舞伎座に芝居見物に行った時に、ちょうどその日が徹夜明けで、昼の部を観に行ったんですけど、まったく寝てなかったんですね。何とか間に合ったし、仕事が終わった開放感で、桟敷席でウイスキー飲んだのがいけなかったんですけど、踊りの部が始まったとたんに、眠りに落ちたんです。言い訳になりますが、お芝居の部の時はストーリーとかあるし、全然眠くならないんですが、踊りの部は、普段からうとうとしがちなんですね、わりと。

ただこの時は、崩れ落ちるように寝てしまったみたいで、猿之助さんが花道を去っていく時に、桟敷で寝崩れている私の方を、思いっきり睨んで行かれたそうです。そうなのです、桟敷席は花道のすぐ横だし、普通の席より一段高いところにあるから、非常に目立つんですね、ヘタすると照明もあたっちゃったりしますから。大失敗でした。

Suimin_3

いわゆる慢性寝不足状態なので、いざ寝てしまうと、恐ろしく寝てしまうこともありました。やはりその頃に、ときどき仲間と京都に遊びに行くことがあったんですが、数日寝ないままで着いたことがありまして、泊り先は祇園のおばあさんがやっておられた小さな宿でしたけど、いわゆるチェックインとかチェックアウトとかもなく、好きなだけ寝て、起きたら湯豆腐にビールに熱燗という天国みたいなとこで、そこで17時間ほど寝続けました。宿の方もちょっと心配になって何度か覗いたと言うとられましたが、あられもない寝姿だったと思います。

今はとてもそんな芸当はできません。人間あきらかに、寝る力というのがありますですね。これは他の体力と同じで、年齢に関係があります。

この前、うちの息子が夜ふつうに寝て、次の日の夕方まで寝てましたが、いいかげんにせえとあきれつつ、ちょっと、うらやましくもありましたな、若さが。

 

 

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