2016年1月15日 (金)

海賊の血

前にも書いたかもしれませんが、私、船酔いと云うのをしたことがなくてですね。多分、今までで一度もないです。ついでに申しますと、ほかの乗り物酔いもしたことがないんですね。

体質としか言いようがないと思うんですが、よく船に乗るだに真っ青になって気持ち悪そうにしてる人がいますが、それがどんな具合なのかよくわからないんです。酒を飲みすぎて、気持ち悪くなって吐いたことは何度もありますから、あんなことなのかなとは思うんですが、どうなんでしょうか。

船には、苫小牧発・大型フェリーから井の頭公園のボートまで、いろんなのにさんざん乗っていますが、そんな中でもちょっとすごい経験があってですね、若い頃に仕事でロケに行ったんですけど、何を撮りに行ったかと云うと、荒れ狂う嵐の海の中を行く一艘のクルーザーヨットだったんです。低気圧が来て天候が荒れるのをを待って、相模湾のけっこう沖合でで撮影したんですけど、撮影スタッフは40名ほど、ヨットに乗る人や、ほかの船やボートからヨットを撮影する人といろいろいて、私は別の船から撮影スタッフやヨットクルーへ無線連絡する係でした。海はかなり荒れてましたから、船から振り落とされないように、皆いろんなところに掴まりながら、早朝から陽が落ちるまでの過酷な現場でした。この時、私以外の全員が吐いたんですね。吐いて立ち直る人もいたし、そのまま立ち上がれない人もいました。まあ、後にも先にも経験したことのないすさまじい撮影だったんですけど。

それくらい船酔いしないわけですよ、私。

それでいろいろ考えてみるにですね、この私の体質は、私のルーツに関わりがあるんじゃないかと思うわけですよ。

大学生の頃の夏休みに、当時まだ元気だった私の祖母から、ご先祖様の墓参りに行くから、運転手をするように云われて、二人で瀬戸内海に浮かぶある島まで行ったんですね。広島市内から約2時間くらいかかったと思いますが、瀬戸内の島って、けっこう橋でつながってるから、車で行ける最南端のあたりだったと思いますけど、まあすごく田舎なわけです。

墓石に刻まれた文字もほとんど見えなくなるほど風化しており、年月を感じる小さな墓がいくつも並んでいました。その一つ一つに、ばあちゃんが線香を上げてゆくわけです。

「これが、うちのご先祖さんなん?」と、聞くと、

「多分そうじゃろういうことが、最近わかったんよ。」と、ばあちゃんが云いました。

手を合わせて、振り返ると、陽が傾きかけたベタ凪の瀬戸内が、鏡のような水面を光らせています。手前にも奥にも美しい島々が配置されていて、ものすごくきれいで平和な風景です。温暖だし、魚もうまそうだし、うちのご先祖さんは、良いところで暮らしてたんだなあと思いました。どうも船大工をしていたらしいです。

帰り道に、車の中でばあちゃんがしてくれた話は、

「定かじゃあなあがね、昔、和歌山の方に、うちの名字と同じ名前の海賊の一団がおって、平清盛が神戸から西を治めていく時に、いっしょについて来たんじゃないかゆうことなんよ。そのあと、あの墓のあったあたりの場所に住みついて、そのうちに船大工になったんじゃないかゆうことみたいなんじゃ。」

そう云われてみると、もしも戦をしに来て、あの場所でさっきみたいなきれいな景色見たとしたら、面倒なことはやめて、ここに住んじゃおうかと思ったご先祖さんの気持ちが、ちょっとわかるような気がしたんですね。そう考えると、確かに、船酔いする海賊というのもなかなかいないだろうし、このルーツ論は腑に落ちるんですわ。

その後、詳しくはわからないけど、明治になるころ、今の広島の近くの矢野という海沿いの町に出て行って、いろいろ船を使った仕事を始めたようです。

私は、中学の途中から、大学進学で東京に出ていくまでの数年間をこの町で暮らしました。目の前には海が広がっていて、牡蠣の養殖いかだがびっしり並んでいる町でした。

私の家は、海に面していて、そのころ家には、12フィートのモーターボートがあったんですね。3.65メートルほどで、12馬力の船外機をつけてあり、バイクでいうと原付バイクみたいなもんですが、これでけっこう遠くまで行ってたんです。広島の街は何本もの川が広島湾にそそいでいて、川伝いにどこでも行けたし、湾の反対側には15kmほどのところに、有名な厳島神社があってよく行きましたね。魚も釣れたし、あの頃、暇さえあれば始終海にいました。何だか船に乗って海にいると落ち着くと云うか、これも私の血のせいだったのかもしれませんねえ。

もう時効だと思いますが、船の航行ルールのことや、エンジン回りのことは、ちゃんと勉強してて、海図も全部持っていたんですけど、いわゆる免許というものは持ってなかったんですね。18歳未満だったし。

ただ、ほんとに年に一回あるかないかなんですが、海上保安庁の船に呼びとめられることがあるんです。そういう時は逃げましたね。こっちは、島と島の間の細い水路とかも全部知ってるし、複雑な牡蠣の養殖いかだの間に入ってしまうと、どうにもなりません。それで目くじら立てるわけでもなく、40年前はけっこうのんびりしてました。まあ、いい訳にはなりませんが。

今もその町には、歳とった両親が住んでいて、ときどき家族で帰りますけど、海はすっかり変わりました、私がちっちゃいボートで走り回ってたあたりは、ほとんど埋め立てられて、学校や病院が建っているし、海をまたいで町どうしを大きな橋が繋げているし、牡蠣のいかだもずいぶんなくなりました。40年も経てば当たり前ですけど。

でも、ふと思ったんですが、あの時ばあちゃんと見た入江はどうなっているんだろうか。多分行き方もわかんなくなってるんですけど、今度行ってみたいなと思ったわけです。

平清盛さんの話はどうだかわかりませんが、この海で長いこと船と関わってきたご先祖さんだったことは確かかもしれませんよね。

この船酔いしない体質を考えると、やはり。

Kaizokusen

2015年12月 3日 (木)

西荻のとっつあん

このまえ「恩人」ということを考えていて、もう一人私が若い時からずっと世話になった人のことを思い出しました。その人は、私が働き始めたCM制作会社の、車輛の仕事を全部取り仕切ってた人でした。厳密にはこの会社の人ではなくて、自分で車輛部の会社をやっていて、子分も2,3人いたんですね。撮影現場にはスタジオでもロケでも、必ずそこにいた人で、松園さんと云います。

私はその現場におけるすべてのヒエラルキーの最下層にいて、ありとあらゆる用事をいいつけられるんですが、わからないことは何でも松園さんに教えてもらいました。会社の先輩もいるんですけど、現場に出てしまうと、それぞれにやる事があって、ゆっくり教えてもらってる場合じゃないし、わかんないことは松園さんに聞くように言われてました。30人ほどのこの会社で、制作部の助手というのは、私ともう一人くらいしかいなかったので、この会社の撮影現場のほとんどには私がいて、必ず松園さんもいたんですね。当時私が22歳で、松園さんが40過ぎだったと思いますが、この人、何でも知っていました、ホントに。それで教育係も兼ねてくださってたんだと思います。

何でも教えてくれるし、仕事も手伝ってくれるんですが、こっちが油断してると、よく罠にかけられました。気を抜いてるといたずらされるんです。他愛無いことですけど、ちょっと大事なもの隠したり、嘘を云ったり、こっちがはまるとほんとに嬉しそうな顔するんですね。まあ、それは、僕ら若いもんが通っていく関門のようなもんなんですが。

ただそれは、面白くなくちゃならないという、この人の不文律がありました。

いたずらは、ほんとにいろんなことを思いつく人なんですよ。

たとえば、松っつあんと私と私の助手が3人で冬の北海道をロケハンしてる時にですね、助手のO君が道を教えてもらうために、どこかのお店に入っていくわけですね。そのあと車に帰って来るんですけど、O君が車に近づいてくると、だんだん車がO君から離れていきますね、当然運転してるのはあの人ですけど。O君がちょっと走ると、そのスピードに合わせて車はまた離れていきます。外は吹雪です。O君がむきになって走るとまたスピードを上げます。そしていよいよ吹雪の中で点のように小さくなっていくO君を、私がロケハン用ハンディカメラで撮影するわけです。そして雪だるまのようになったO君がようやく車に入れた時には、もう息が上がって何もしゃべれません。

そういう時、この人ホントに嬉しそうなんですね。そのビデオをその夜、旅館でごはん食べながらみると可笑しくてですね、男三人の殺風景なロケハンが実になごむんです。

松園さんは、ずっと西荻窪に住んでたんですが、私はこの人のそばに住んでいれば、必ず車で拾ってもらえるから、撮影に遅れることがないと云う理由で、いつしか西荻に住むようになります。制作部と云うのは、いつも車輛部と一緒に一番に出て行って、一番最後に帰ってきます。そんなことなので、ある時期この人と一緒にいる時間がほんとに長かったんですけど、そのうちに、この人は本当にプロだなあと云うことがわかってきました。一つの事に対して、常に何通りもの方法を考えているし、いつも不測の事態に備えています。一緒に仕事してるうちに、それがだんだん理解できるようになりました。人のことを、はめてやろうとばかり、考えてるわけじゃなかったんです。

右も左もわからない若造が、自分のテリトリーにころがりこんできたから、仕方なく面倒見てやってるうちに情が移ったのか、いつしか身内のように扱ってくれるようになります。何年かして、それなりに仕事もわかってきて、どうにか一人前になったかなと思った頃、松園さんは私のことをさん付けで呼ぶようになりました。何だか照れ臭かったんですけど、そういうけじめの人でした。鶴田浩二のファンだったし。

その頃私が担当していた「小学一年生」という雑誌のCM「ピッカピカの一年生」という仕事は、松園さんがいなかったら絶対にできない仕事でした。

どういうことかと云うと、毎年、秋から春にかけて日本全国の今度小学校に上がる子供たちを撮影するんですが、だいたい半年で7カ所を回ることになってまして、収録はすべて松園ワゴン車に装着されたVTR機材で、2吋のテープで行ないます。私は飛行機や新幹線などを使って全国を飛び回っていて、ロケの日程が決まると、たとえば何月何日の何時に、石垣島の港に来て下さいとか連絡するわけです。撮影は昨日まで短パン穿いてた南の島から3日後には雪の北海道へ移動したりします。もちろん移動可能な日程を組みますが、台風もくれば、大雪も降るし、事故渋滞もあるし、フェリーが欠航することもあります。この人はいつも陸路と海路を駆使して、何通りものルートを考えていて、何手先も読んでいました。早く着きすぎたら、あっちこっちの馴染みの店で時間つぶしたりもしていましたが、12年間この仕事やって、約束の時間に彼の車が現れなかったことは、ただの一度もありませんでした。

車がパンクしたり故障したりした場合のシミュレーションも、いつも完璧にできてました。北国に行くと、よく夜中にものすごいドカ雪が積もる事がありますけど、朝起きると撮影車の周りだけは、雪掻きがしてあるんですね、誰にも気づかれず。そういうとこも鶴田浩二な感じでしたね。そういえば酔っ払うと、よく鶴田さんの「傷だらけの人生」と「街のサンドイッチマン」を唄ってましたね。深く酔うといろいろスタッフつかまえて説教してましたよね。そういう時クライアントの偉い人とかもおかまいなしですから、往生するんですけど、でも、みんなから愛されてましたから。この仕事は松園さんがいないと始まらないと誰もが思ってました。

それからもずっと、私たちの仕事に、いつもあの年代物のハイエースのロングボディを蹴って駈けつけてくだすったし、私達が小さい会社を作ったら、まだそんなに仕事のないその会社の専属車輛部を引き受けてくれて、よその仕事やらなくなって心配もしたけど、何だか意気に感じてくだすったみたいでありがたかったです。

でも、それから何年かして、松園さんは肺ガンで逝ってしまいました。還暦のお祝いしたばっかりだったから、思えば今の私と同じ歳でしたが、ビールとハイライトが大好きで、何より医者がほんとに嫌いだったから、いくらなんでも早すぎたんですけど。

 

そういえば、子供の頃、小学一年生の頃ですが、3年ほど西荻窪に住んでたことがあったんですけど、あとで聞いたら、松園さんもその頃に結婚して西荻窪に住み始めたそうです。それが、絶対遭遇してたであろう至近距離で目と鼻の先でした。不思議なご縁だったなと思います。

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この人が、この前に書いた平田さんとすごく仲良しで、絶妙なコンビで、何だか私の記憶の中では、いつも撮影現場で二人並んで座っていて、完全にセットなんですね。

よく二人していじられてたわけです。

 

 

 

 

2015年10月14日 (水)

成城のおじさん

大学時代の後輩で、今でもたまに会って飲むのは、一人だけなんですけど、この人は学生時代に私と同じ下宿の並びの部屋に住んでいた人で、F本君と云います。自慢にはならないんですが、私、大学にはあんまり行かなかったもので、大学関係の知り合いが少なくてですね。ただ、彼にはいろいろと世話になったんですね。

F本君は一学年下の別の学科の学生だったんですけど、私と違ってちゃんと大学に行って勉強するし、けっこう几帳面で綺麗好きでわりときちんとした人でした。

私はというと、部屋には酒瓶がゴロゴロしていて足の踏み場がなく、ただ寝るだけのことになっておりまして、在宅時には徐々に隣のF本君の部屋でくつろぐようになっておりました。自分で持っていたテレビもすっかり彼の部屋の棚に収まっていて、彼の方が遅く帰ってきたりすると、「おかえりー」とか云っておりました。まあそういう仕様がない先輩だったんですけど、仲良くしてくれて、よく一緒に酒を飲んだりしてたんです。

彼とはすごく縁があったんだと思います。多少迷惑だったかもしれませんが。

これからする話もそういうことの一つなんですけど、F本君には決まったアルバイトがあってですね、それは家庭教師なんですけど、世田谷の成城学園に親戚の家があって、そこにいとこの姉妹がいて、この二人に勉強教えてたんですね。当時たぶん中学生とか高校生くらいだったと思いますが、彼は勉強できる人でしたから教えられたと思うんですけど。

ま、それはいいんですけど、彼はそこのことを成城のおじさんの家と呼ぶんですが、家庭教師の日は必ずそこで晩御飯をいただいて帰ってくるわけです。それがいつもご馳走らしく、特にステーキを食べた日は帰ってくると、私にどんなステーキだったかを詳しく説明するんですね、頼んでもいないのに。

で、ちょっと頭に来てたもんで、今度、一度私を、その成城のおじさんの家に連れていくように言ったわけです。大変お世話になっている先輩ということでです。ステーキとか、しばらく食べてなかったし。

それで、次の家庭教師の日に、私、付いていったわけです、用もないのに。そして、計ったようにステーキを出していただきまして、いや、感動的に美味しかったのですが、ずうずうしくステーキをいただいているとですね、リビングの奥の方で、その成城のおじさんが電話で話をしてるんですけど、どうも仕事の打ち合わせらしくてですね、なんだか床がどうしたとか、壁がどうしたとか、建具のこととか、それで長さの単位は尺だとか寸だとか何間(けん)だとかで話してるんですね。こりゃ大工さんと話してるんだと思ってると、撮影日がいついつとか云うわけです。あ、そういえば成城のおじさんはテレビとか映画のセットを作るデザイナーという職業だって云ってたことを思い出したんですね。ステーキに気を取られてすっかり忘れてたんですけど。それで他にすることもないし、ずっとその電話聞いてたら、けっこう面白かったんです。何ミリのレンズだから、引きはこうで建端(たっぱ)はどうだとか、わりと聞いててところどころ意味わかって、たぶん自分の学科が土木建築だったり、友達と8mmとか16mmで映画作って遊んだりしてたせいだと思うんですけど。そこで、このおじさんはテレビや映画のセットを作る設計技師の親方のような人で、成城に家建てるくらいだから、きっと偉い人なんだなと思ったんですね。あとで聞いたら、今はテレビのCMの仕事がメインで、さっきの電話もCMのセットの打ち合わせだったと云うことでした。

その日はすっかりご馳走になって、お礼を申して、また来てくださいねと云われて真に受けたりしながら、帰りました。

 

そんなことがあってしばらくしてから、私は大学を卒業することになるんですけど、ちゃんとした就職活動もせずブラブラしているうちに、あるCMの制作会社でアルバイトすることになったんですね、ひょんなことでということなんですが。本当は、私、土木工学科と云うところにいたんで、建設会社とか、何とか組とか、市役所とか、そういうところに行かなきゃいけなかったんですけども。

そのアルバイト始めた時はそうでもなかったんですけど、30人くらいのその会社は、そのうちに猫の手も借りたいほど忙しくなってきました。

そんな時にわかったんですが、この会社が作っているCMのセットは、すべて、あの時お世話になった成城のおじさんが作っていることがわかったんです。平田さんと云いました。

ある時、会社の廊下で平田さんに会ってあいさつをした時に、

「なんでこんなとこでアルバイトしてるんだ、ちゃんと大学で勉強したことを生かして就職しなさい。」と、叱られました。

平田さんは一級建築士の資格を持っている美術デザイナーだったんです。

でも、私はその後ずっとこの会社で、制作部としてアルバイトを続けることになります。

それからは、撮影現場そのものが、私の職場となるのですが、その現場には、ことごとくこの平田さんがいらっしゃるわけです。こっちは駆け出しですから、現場でありとあらゆる失敗をするんですが、それらを全部、平田さんに見られてしまうことになります。なにかと助けていただくことも多くてですね、まあ頭が上がらなくなるんですね。こっちの弱点もようくご存知で、私が高い所が苦手だとわかってて、仕事でスタジオの天井に上がらなきゃいけなくなると、必ず私を行かせますね、嬉しそうにね。

いつかステーキご馳走になったお宅にも、打ち合わせとか、お願いした図面をもらいにとか、うかがうことも多々ありました。

撮影中はまず一緒にいますし、先述のF本君の結婚式にも並んで出席いたしました。

 

そうこうしているうちに、7年ほどして私も仕事覚えてプロデューサーという立場になりますが、やはり美術は平田さんにお願いすることが最も多かったです。一人前になったばかりで勝負かけなきゃいけない仕事があって、東京で一番大きなスタジオに、ものすごく大きな船のセットを組むことになったんですね。時間もなくて予算もきつい中、これがどんどんえらいことになってきて、スタジオにセット作ってるところを見に行ったら、あんまり見たこともないような太い鉄骨を溶接してて、スタジオが鉄工所みたくなってて、なんか立ち眩みしたの覚えてます。

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まあ、ちょっと語り草になるような船を作っちゃったんですね。でも、おかげさまでCMは狙い通りのものができて、山崎努さんが船で外国に旅する喉薬のCMだったんですけど、すごく評判にもなりました。当時、広告批評の島森さんが朝日新聞のCM評でほめてくださって嬉しかったのを、今でも覚えてます。

ただ、あとで聞いたんですけど、セット作ってる時に、あの温厚な平田さんが撮影所の大道具さん達を怒鳴りとばして大喧嘩になりそうなことがあったらしくて、ずいぶんと無理な仕事を頼んでしまったんだなと、申し訳なく思い、そっと手を合わせたことがあります。でも、そのことは最後まで私にはおっしゃいませんでした。

それから何年かして、仲間たちと小さな会社を作って独立した時も、いつも大変な仕事を楽しそうにやって下さり、何度も助けられました。そして、これもいろいろ大変だったんですけど、私達の会社で映画を作ることになった時も、当然のように引き受けてくださり、ほんとに心強かったです。考えてみるとこれほどお世話になった人も他にいません。

そのあと、病気になられて入院され、2003年にひっそりとお亡くなりになりました。73歳ですからまだまだ活躍できたのに、本当に残念でした。お別れの会は、平田さんとよく仕事をした日活のスタジオでしましたが、たくさんの人で広いスタジオが一杯になりました。

亡くなった時に思ったんですけど、ただただお世話になっただけだったです。子が親にされるようにです。考えてみると親と同じ年代なんですけど。

しばらくして、ステーキを作って下さったやさしい奥様もなくなりました。

たまたま、お宅におじゃまして、不思議なご縁で長いことお付き合いさせていただいたけど、なんであんなによくして下さったんだろうかと思います。

これもあとで聞いた話ですが、私がアルバイトから正社員にしてもらった時も、会社の偉い人に平田さんがずいぶん推して下さったそうなんです。そんなこと一言も聞いてないですし、いつも俺には正業に就けと云っていたのに。

何一つ恩返しもできてないままです。こういう人のことを恩人と云うんですね。

 

先日、久しぶりに某食品会社の立派な部長さんになっているF本君と飲んで、成城のおじさんの話をして、つくづくそういうことを思いました。

ただ、平田さんは口は悪かったなあ、思い出すと、そういうとこがまた懐かしいんですけど。

Hiratasan

2015年9月18日 (金)

寝る力

この頃少し涼しくなって思うのは、今年の夏の盛りの暑さは尋常でなかったなということと、あの頃から考えると最近はよく眠れるなということです。梅雨が明けてからしばらくは熱帯夜で、ずっと寝苦しかったですから。

エアコン掛けたりもするんですけど、やっぱり若い頃に比べると、寝る力が衰えてるというか、寝るのも能力というか体力なんだなとつくづく思えますね。若い時は、暑かろうが寒かろうが、どんな場所であろうが、寝るとなったら、寝るのに1分とかかりませんでしたからね。あれ何だったんでしょうかね。

いまは、わりと寝る間際に目が冴えてしまったり、夜中に目が覚めて眠れなくなったりということがたまにあります。たぶん歳のせいなんでしょうね。昔どんな時でも手品のように寝てしまえた先輩が、いまは睡眠導入剤を持ち歩いてたりしますし、そういうものなのでしょうか。かつては、それに加えて深酒でもしようものなら、ものすごく深いところの眠りに落ちていったものですが、いまはあんまり深酒して寝るとうなされたりしますからね。若い時はあなた、酒飲まないで寝るとうなされてたんですから。

あの頃、逆に寝ないで起きてる能力もすご高くて、だいたい2日や3日寝なくても平気でしたし、わりといつも睡眠時間が少なかったから、いざ寝ると眠りが深かったこともあるかもしてません。

なんかかつては、私達の仕事してる人は、今もそういうとこありますけど、寝ないことが自慢なところがあって、徹夜すると誇らしいみたいなとこがありましたね。

だいたいこの仕事始めた時に面接で、

「徹夜とかしても平気?」と聞かれたので、

「学校の課題で設計図面を書いた時に、3日寝なかったことがあります。」と云ったら、

「君、図面書いてる時はただ座ってるんでしょ。俺たちの仕事は走り回って3日くらい寝ないでいることがよくあるから。」

などと自慢げにおっしゃってましたから、鼻広げて。確かにその通りでしたけど。

あと、業界の超売れっ子クリエーターで、寝ないことで有名なS木さんという方は、

「今、寝るのはもったいないです、死んだらずっと寝れますから。」

とおっしゃったです。まあここまで行くと本物ですけど。

油断して寝てしまった失敗は枚挙にいとまがありません。中央線の最終で八王子のあたりで起こされて茫然とするのも一度や二度ではありませんし、東横線で渋谷と桜木町をどう考えても2往復して目が覚めたり、いろいろあります。

ずいぶん前ですけど、先代の市川猿之助のファンだったもので、歌舞伎座に芝居見物に行った時に、ちょうどその日が徹夜明けで、昼の部を観に行ったんですけど、まったく寝てなかったんですね。何とか間に合ったし、仕事が終わった開放感で、桟敷席でウイスキー飲んだのがいけなかったんですけど、踊りの部が始まったとたんに、眠りに落ちたんです。言い訳になりますが、お芝居の部の時はストーリーとかあるし、全然眠くならないんですが、踊りの部は、普段からうとうとしがちなんですね、わりと。

ただこの時は、崩れ落ちるように寝てしまったみたいで、猿之助さんが花道を去っていく時に、桟敷で寝崩れている私の方を、思いっきり睨んで行かれたそうです。そうなのです、桟敷席は花道のすぐ横だし、普通の席より一段高いところにあるから、非常に目立つんですね、ヘタすると照明もあたっちゃったりしますから。大失敗でした。

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いわゆる慢性寝不足状態なので、いざ寝てしまうと、恐ろしく寝てしまうこともありました。やはりその頃に、ときどき仲間と京都に遊びに行くことがあったんですが、数日寝ないままで着いたことがありまして、泊り先は祇園のおばあさんがやっておられた小さな宿でしたけど、いわゆるチェックインとかチェックアウトとかもなく、好きなだけ寝て、起きたら湯豆腐にビールに熱燗という天国みたいなとこで、そこで17時間ほど寝続けました。宿の方もちょっと心配になって何度か覗いたと言うとられましたが、あられもない寝姿だったと思います。

今はとてもそんな芸当はできません。人間あきらかに、寝る力というのがありますですね。これは他の体力と同じで、年齢に関係があります。

この前、うちの息子が夜ふつうに寝て、次の日の夕方まで寝てましたが、いいかげんにせえとあきれつつ、ちょっと、うらやましくもありましたな、若さが。

 

 

2015年8月27日 (木)

貯金と私

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この前、お金のことを考えることがあって、ふと思ったんですけど、今まで60年も生きてきて、なんか計画的に、自分の了見で貯金というのをしたことがないなあと思ったんですね。

貯金というのは、字のとおりお金を貯めることで、何か欲しいものを手に入れるためとか、何か夢をかなえるためとか、生きていく上で、困ったことがあったりした時のためとかに、普段の暮らしの中で意図的にお金を残しておくことなんですけど、そういうふうに思ったこともないというか、18の時から自活始めて、学生の時は親に仕送りもしてもらってましたけど、そんなに裕福な収入があったわけでもなく、お金とは成り行きで付き合ってきたというか、持ってるお金は衣食住でだいたいなくなるし、何かそれ以上必要が生じたときには、何らかの手段で借りるんですけど、そんな大金が必要になることも、そんななかったんですね。別に強がるわけじゃなく、あんまり高価なものに興味がいって、どうしても欲しくなるということもなく。

この仕事始めてからは、公私の境目がない状態で働いてたし、自分のお金の使い道をじっくり考える暇もなく、でも、気が付くと月々のお給料はいつもなくなってはいるんですね。食べるものは、働いてる時間には付いてくるし、特に値の張る衣装を着るような仕事でもないし、部屋は帰って寝れるだけのスペースがあればいいわけです。時間のかかる趣味は持てないし、お金のかかる女の人と付き合う甲斐性もないし、ギャンブルはとっくに才能のなさに気付いてやめてるし。

強いて言うと、人よりも使ったとしたら飲み代ですけど、そんなナポレオンとか高い酒飲むわけでもなく、量だけは人の倍くらい飲んでるけど、分相応な値段ですよ。だいたいツケだし、手酌ですしね。 

まあ大した収入じゃないんだけど、なんとなくあるだけはきれいに使ってしまう生活が何年も続いたわけです。大きな借金をする理由もないし、それができる信用もないし、たまにツケが残ったまんま行かなくなった飲み屋を踏み倒すくらいで、これもたいした額でもありません。

その頃働いていた会社では、給料もボーナスも現金でいただいてたんですけど、それを持って銀行に預けに行ったことはなく、もらうと借金返したりツケ払ったりして、そのまま給料袋や賞与袋から直接お金払ってるうちに、自然と無くなるわけです。まあそのくらいしかいただいてなかったということでもありますが。

ただ、漠然と、ずいぶん働いてるわりには、お金が貯まらないなとは思ってはいたんですね。で、会社の偉い人にそのことを云ったら、まあ好きでやってる仕事なんだからと云われ、それはそうかもしれないけど、それはまた違う話なんじゃないかと思ったんですね。

そうこうしてるうちに、その会社から独立して、自分達で新しい会社を始めることになったんですが、そうなると現金なもので、会社の将来のために、お金を貯めねばと考えますし、いたってまじめにそのことを考えるようになります。

それと、個人的には、会社を作るのと時を同じくして結婚したんですね、34歳でしたが。

で、それまで一人で住んでた6畳間に奥さんと住み始めて、ひと月ほどしたときに、まあ引っ越しもしなきゃいけないし、だいたい私に貯金というものが、いくらくらいあるかという話になったんですね。この話題は避けて通りたかったのですが、そうもいかず、

実は私の預金通帳に入っていたお金の金額は、マイナス16万円だったんです。マイナスというのは、当時20万円までは銀行が自動的に貸してくれるシステムになってまして、ま、そういうことだったわけです。

このことを知ったあと、うちの奥さんは、多分5分くらい床を叩きながら笑っておりましたですね。

云うまでもなく、新婚の我が家で私が経済を預かっていたのは、この1ヶ月間だけで、それ以後はずっと奥さんが経済を握っております。ちなみに、この時、奥さんの個人的な預金高がいくらくらいあるのかと質問をしたのですが、それは全く教える必要はないと言われました。それは確かにそうですが。

それから収入の中から、貯金ということをする習慣が始まったのですが、相変らず私は具体的なことは、ほとんどわかってない状態なので、自分で貯金しているという実感はないままです。

かれこれ25年ほど経ちますが、いずれにしても、貯金とか貯蓄というものに関しての才能と云うものは、ずっとないままの人間であることは、云えそうであります。

2015年7月30日 (木)

司馬先生の受け売りですけど 後篇

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この前は明治国家が誕生したとこまででしたが、この時期、多分日本中の人々が、一部の知識層を除いて、自分達が日本国民であるということを認識してなかったですね。

それまでは、自分は百姓であったり、漁師であったり、商人だったり、○○藩の侍だったりはありますが、外国のことをあまり意識することもなかったし、日本であるとか国民であるとか、あんまり思ってなかったと思います。でも、明治になってからは、そのあたりのことが、それぞれの人々の人生とかに、大きくかかわってくるんです。

まず藩というものがなくなり、そこに仕えていたお侍たちは職を失い、中央政府に雇われた役人以外は仕事がなくなりました。士農工商という身分も解体されまして、もともと武士が起こした革命だったはずが、新しい世の中には武士の居場所がなくなっちゃったんですね。

かたや新政府は、新しい秩序を作るべく、1871年には、先進国へ向け岩倉使節団を派遣します。岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら、総勢107名です。その期間は2年近くに及び、それから富岡製糸工場開業、徴兵令発布と、着々と富国強兵を急ぎます。

しかしながら、中央政府に置き去りにされた感のある武士たちの不満はつのり、その魂の行き場所は、すでに鹿児島に下野していた西郷隆盛のもとへということになりました。1874年佐賀の乱、1876年神風連の乱、秋月の乱、萩の乱を経て、1877年明治十年二月に西南戦争が勃発します。旧武士軍と、新政府の徴兵制によって新たに集められた軍隊との戦いになりましたが、その年の九月、西郷は自刃し乱は平定されます。そして、皮肉にも新政府を率いて薩摩西郷軍と敵対することになった大久保利通は、翌年、刺客によって暗殺されてしまいます。

そんな中で、明治という国家の土台は作られ始めるのですが、極東の小さな島国には、当時の国際環境というものが徐々にのしかかってくるんですね。地理的には、大陸から日本の喉元に突き出ている朝鮮半島において、清国との間に摩擦が生まれ、1894年に日清戦争が起こります。

日清戦争といっても、原因は朝鮮半島にあったわけで、実戦場はほとんど朝鮮半島でした。国の大きさからしても、日本は不利のようですが、徴兵令以降ドイツ式に変更された陸軍とイギリス式となった海軍など、貪欲に軍の強化に努めていた日本軍は約8カ月でこの戦争に勝利します。

この戦勝で、大陸での足場を固め始めた日本ですが、清国には欧米各国の思惑が渦巻いておりました。特に南下政策を推し進めるロシアは部隊を増強し満州に留めています。日本は朝鮮半島を防衛の生命線と考えていたので、そこにロシアの影響力が強まっていくことは、この上なく恐怖だったんです。近代化を始めて間のないアジアの小国は、遼東半島を巡って、徐々に大国ロシアと敵対することになっていきます。

そして、1904年、痛々しいほどの覚悟で開戦を決意することになります。

この時、日本の政府も軍も、この戦争に対しては完全に弱者の論理で挑んでいます。つまり、あのロシアに完璧に勝つということはあり得ないわけですから、せめて四分六分で有利に持ち込めそうになったら、すかさず国際的に仲裁に入ってもらえるよう、アメリカに根回しをしていたほどなんですね。

日本として戦勝の形に持ち込むためには、ロシアが要塞化した旅順を攻略し、その後、遠くロシア本国からやって来るであろうバルチック艦隊を殲滅することだったんですが、これは実に大変なことだったんです。

当初、陸軍は満州平野における決戦に勝てば、旅順の要塞は立ち腐れてしまうと考えていました。ところがバルチック艦隊が来るという話を聞いて海軍が慌てました。旅順はロシアの租借地ですから、ここにバルチック艦隊が逃げ込んだらどうにもなりません。そこで旅順は陸から落とすことになり、陸軍に、旅順を攻撃するだけの使命を持った第三軍が出来上がります。乃木希典大将が軍司令官になり、参謀長は伊地知幸介少将です。

凄惨な肉弾攻撃の戦いが始まりました。無謀な肉弾攻撃でした。

海軍は旅順港を攻撃してくれと言った時に第三軍にひとつの提案をしました。三等巡洋艦を一つ裸にして、大砲を全部提供し砲術士官も派遣しますと。しかし、ノーと言われました。どう考えても陸軍の縄張り意識からでした。この提案を受け入れていれば、旅順の攻略は早かっただろうと、司馬さんは分析しています。

かつて明治陸軍を教育したドイツ陸軍は、近代要塞というものがいかに難攻不落であるかということを説きましたが、この教育は生かされませんでした。乃木さんもドイツに留学しているし、伊地知さんもドイツに留学しています。しかも伊地知さんは大砲が専門でした。そんな人たちが海軍の大砲にノーと言い、歩兵の突撃を繰り返し、何万という兵隊が死にました。無益の殺生という声まで出ました。乃木さんの二人の息子さんも戦死しています。

結局、満州軍総参謀長の児玉源太郎が、自ら旅順に行くことになります。汽車が旅順に近づくと、汽車の窓から新しい墓が累々と見えたそうです。日本兵の墓です。児玉は怒りました。本土から新しく補充されてくる兵士は、皆この汽車に乗ってこの墓地を見るわけです。第三軍はそんなことも気がつかないのかと怒りました。

旅順に着いた児玉は乃木と二人で話し合います。児玉と乃木は同じ長州ですから、腹を割って話すことができます。談合であります。統帥上はやってはいけないことでしたが、児玉は乃木の持つ指揮権を預かることになります。

児玉という人は士官学校も何も出ていません。乃木とは違ってたたきあげの人です。この人は大砲のことなんか何も知らないのに、要塞砲に興味を持ちます。当時、横須賀の観音崎にあった大砲が旅順に送られてきてたのですが、なにしろ大きなもので、移動困難と思われ、第三軍では無視されていました。児玉はこれを使えと云いだしました。それは無理ですと、専門家たちは文句を云いましたが、児玉は強引に要塞砲を移動させます。二〇三高地の麓に据え付け、それらが活動を始めてから旅順は落ちました。音ばかり大きい要塞砲が鳴り響き、ロシアは降伏しました。

児玉は実に見事な人です。戦後は決して自分の手柄話をせず、乃木は偉いと云うばかりでした。そんなに教養のある人でもない、学問したわけでもない、ジェネラル(将軍)、アドミラル(提督)の才能というのは、長い歴史の中で何人もいないものです。児玉源太郎にはそれが宿っていました。そういった意味では、幕末の大村益次郎もそういう人かもしれません。

さて、バルチック艦隊です。海軍の秋山真之は若くして作戦立案者として海軍首脳から期待されていた人で、海軍戦略を学ぶためアメリカに勉強に行ったりしました。真之に課せられた命題は重いもので、ロシアのすべての艦隊を沈めなくてはなりません。一隻だけでも残したら、その船が日本の通商を破壊しますから。そんなパーフェクト・ゲームは不可能なんですが、そこを戦略・戦術で何とかしろと云われていました。結局、真之は、能島流水軍兵法書という戦国時代以前の海賊の戦法が書かれたものから、戦術の基本を作ります。ある人から何を古ぼけた本を読んでるんだと云われた時、

「白砂糖は、黒砂糖から精製されるものなんだ。」と言ったそうです。

そして、この人の一生のエネルギーのほとんどをこの作戦に注入しました。

東郷平八郎率いる連合艦隊は、パーフェクトゲームを達成し、日本海海戦は勝利します。

その頃、満州大陸に於いて日本陸軍は、疲労しきっており、そのことを誰よりも軍の指導者がよく知っていました。彼らは戦争という大がかりなものをしているつもりはなく、つまり、ロシアを滅ぼすなどという妄想は1ミリも持たず、極東の局地戦における判定勝ちを望んでいただけでした。ロシアがその極端な南下策をやめてくれることだけを、日本の指導部は望んでいたのです。

日本海海戦の勝利は、まさにその判定勝ちを上げるチャンスでした。小村寿太郎外務大臣は、ポーツマスにて、アメリカの仲裁による講和会議に出席し、ポーツマス条約に調印します。

しかしながら、多くの日本国民が、この条約に納得しませんでした。大きな犠牲を払ったことから、その戦利品に満足できなかったのです。

このあたりまでで、よき明治は終わり、この国の青春期も終わり、それ以降の日本人は大きく変わっていきます。大国ロシアに勝ったという事実だけが残り、軍事における分析を怠り、根拠のない自信だけが軍部を覆います。そして大きな敗戦を経験し、いまに至ります。

以下、司馬先生の講演録より。

ロシアという大きな国に勝ったということで、国民がおかしくなってしまいました。世界の戦史で日露戦争ほど、いろいろな角度から見てうまくいった戦争もないかもしれません。うまくいった戦争という表現は変な表現ですが、要は、そんなに戦争を上手に遂行した国でもおかしくなった。

軍事というものは容易ならざるものです。孫子が云うように、やむを得ざる時には発動しなければなりませんが、同時に身を切るもとでもある。

国家とは何か、そして軍事とは国家にとって何なのか。国家の中で鋭角的に、刃物のようになっているのが軍隊というものです。

 

またしても先生の受け売りでしたが、安全保障関連法案が世間を騒がせている昨今、声の甲高い、滑舌の悪い、総理の演説に不安を覚えながら、もしも司馬先生が御存命であったなら、何と言われていたのか、深く考えずにはいられませんでした。

2015年7月 8日 (水)

司馬先生の受け売りですけど 前篇

この春ごろ、ちくま文庫から「幕末維新のこと」と「明治国家のこと」という本が出てですね。どういう本かと云うと、司馬遼太郎さんが幕末から日露戦争までのことを、ずいぶんと小説に書いておられ、またそれに関して語られたことも山のように本になっているのですが、それらに載らなかったエッセイや講演や対談録を、丁寧に集めておられた筑摩書房の編集者の方がおられまして、それを、作家の関川夏央さんが改めて編集構成された本なんですね。

いろんな時期に、司馬さんが語られたことがまとめてあるんですが、やはりさすがに先生のおっしゃることはぶれてなくてですね、それらは大変興味深く、かつて読んだその小説たちのことを思い起こさせます。

 

ちょっと小説のことを、ざっくり歴史の順番に整理しますとですね。まず、

「世に棲む日々」(1971)

幕末に突如、倒幕へと暴走した長州藩。その原点に立つ吉田松陰と高杉晋作を中心に、変革期の人物群を描く長編。

「竜馬がゆく」(1963-66)

勝海舟は言った。「薩長連合、大政奉還、ぜんぶ竜馬一人がやったことさ。」

今でこそ幕末維新史上の奇蹟といわれる坂本竜馬は、この小説ではじめて有名になった。

「燃えよ剣」(1964)

竜馬とほぼ同じ年に生まれた土方歳三は、勤皇の志士の敵役であり、最強組織新撰組副長である。剣に生き、剣に死んだその生涯。

「花神」(1972)

緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、長州の村医から一転して討幕軍の総司令官となり、維新の渦中で非業の死を遂げた日本近代兵制の創始者、大村益次郎の波乱の生涯。

「峠」(1968)

幕末、雪深い越後長岡藩から、勉学の旅に出、歴史や物事の原理を知ろうとした河井継之助は、その後、藩を率い、維新史上 最も壮烈な北陸戦争に散った。

「最後の将軍 徳川慶喜」(1967)

その英傑ぶりを謳われながらも、幕府を終焉させねばならなかった十五代将軍の数奇な運命を描いた名著。

「翔ぶが如く」(1975-76)

西郷隆盛と大久保利通は薩摩の同じ町内に生まれ、薩摩藩を倒幕の中心的役割に巻き込みながら、絶妙のコンビネーションで維新を達成する。しかし、新政府の内外には深刻な問題を抱え、絶えず分裂の危機を孕んでいた。明治6年に起こった征韓論を巡る衝突は、二人を対立させ、やがて西南戦争に発展して行く。

「歳月」(1969)

明治維新の激動期を、司法卿として敏腕をふるった江藤新平は、征韓論争に敗れて下野し、佐賀の地から明治中央政府への反乱を企てる。

「殉死」(1967)

明治を一身に表徴する将軍乃木希典。ひたすらに死に場所を求めて、ついに帝に殉じた武人の心の屈折と詩魂の高揚を模索した名篇。

「坂の上の雲」(1969-1972)

松山出身の歌人正岡子規と軍人の秋山好古・真之兄弟の三人を軸に、維新から日露戦争の勝利に至る明治日本を描く大河小説。

他に、この時代を題材にした短編集も多く、「人斬り以蔵」(1969)「新選組血風録」(1964)「幕末」(1963)「アームストロング砲」(1988)「酔って候」(1965)等々あります。

 

いわゆる幕末というのは、1853年のぺりー黒船来航が起点とされていますが、そのしばらく前から日本近海には大国の船団が出没し始めておりました。そのころヨーロッパでは、18世紀半ばから始まった産業革命により、大型汽船が次々に造られていた背景があり、アジア各地では植民地化が進んでおります。ペリーにも、自国アメリカの捕鯨船の基地として、日本の港を開港させる目的がありました。

長州の思想家吉田松陰は、その何年も前から全国に情報を集め、識者を訪ね、当時の国際情勢を調べ、帝国主義の植民地化から日本を救うには、大国の文明を吸収するしかないと考え、アメリカの旗艦ポーハタン号に密航しようとして捕らえられます。その後、萩に戻され、謹慎中に松下村塾を開き、高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤博文、山縣有朋ら、その後明治維新を実現していく人材を育成します。

しかしながら、松陰自身は安政の大獄で29歳の若さで斬首されてしまいます。

翌1860年にはその弾圧を敢行した大老井伊直弼が桜田門外で暗殺され、その2年後の文久二年、坂本竜馬は土佐を脱藩、その翌年には新選組の元となる浪士組が結成されています。当時、西郷隆盛は薩摩藩内の事情もあって沖永良部島に遠島になっていますが、このあたりから倒幕に向けて、一気に時代は動きだしていきます。

1864年(元治元年)池田屋事件

                   禁門の変

                   第一次長州征伐

1865年(慶応元年)高杉晋作長州藩の実権を握る

                   第二次長州征伐

                  武市半平太処刑

1866年(慶応二年)薩長同盟締結

                   徳川慶喜第十五代将軍就任

                   孝明天皇長州征伐休戦勅命

                   孝明天皇崩御

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1867年(慶応三年)大政奉還

                   慶喜将軍職返上

                   高杉晋作病死

                   坂本竜馬暗殺

                   王政復古の大号令

1868年(慶応四年・明治元年)

                   鳥羽伏見の戦い

                   勝海舟・西郷隆盛会談

                   江戸城無血開城

                   近藤勇斬首

                   彰義隊敗退

                   明治に改元

                   会津藩降伏

1869年(明治二年)五稜郭総攻撃

                   土方歳三戦死

                   大村益次郎襲撃され没

 

こうしてみると、黒船が来てから約15年ほどの間に、これだけのことが起こり、全く違う世の中になってしまったことがわかります。

もしもこの時期、日本が清国や李氏朝鮮のような中央集権制の国家であったなら、欧米勢力によって植民地にされていたかもしれません。幕藩体制における各藩は、実は自立した存在で、農業や商業など各産業も競争原理に則って、強化され鍛えられておりましたので、それぞれにそれなりの力を持っていました。外国からこの国を見た時に、中央政府を押さえれば支配下における国であるとは、とても思えなかったはずです。

実際に明治維新を成し遂げた諸藩は、それぞれ独自の考えでこの革命にかかわりました。

個々に複雑な事情もあったのです。

長州藩では松陰の弟子たちが、欧米の脅威からの危機意識ゆえに、藩内の闘争を制して実権を握り、この藩を倒幕の方向へと傾けてゆきます。薩摩藩は西郷と大久保が岩倉具視らとの朝廷工作を通して、藩全体を倒幕に導いて行きますが、このあたりの事情を藩主の島津久光は全く知りませんでした。そして、この長州と薩摩がひとつの力にならなければ、幕府とのパワーバランスとして維新の実現はありません。この薩長同盟の斡旋をしたのが土佐の坂本竜馬だったわけです。

勝海舟は欧米のアジア侵略を防ぐには、中国、朝鮮、日本の三国が締盟しなければならないという考えの人でしたが、後に明治政府で征韓論が起きた時に、いずれ朝鮮にも日本のような新しい勢力が起こってくるから、その時にその者と手を握ればよいと云います。つまり、この国際情勢下であれば、西郷のような人が出てきて革命が起こるはずだから、その新政府と握ればよいということだったのですが、結局、勝の存命中にも、そのあとにも、それは起こりませんでした。    

明治維新というのは、江戸時代の幕藩体制、もとをただせば専制国家ではない競争原理の上に成り立った国のかたちであったことが、それを実現させたということが云えるかもしれません。   

明治という国家が産声を上げたところではありますが、ここまでの話がずいぶん長くなってしまいましたので、この先は次回ということにいたします。

以上、先生の受け売りでした。

2015年6月 5日 (金)

情報機器昨今

“スマフォ”というものが、ここまで世の中に浸透してしまうと、電車に乗ってる人がほぼ全員スマフォを覗き込んでる風景も、だんだんと慣れてくるようなもんですが、

でも、ちょっと冷静に考えてみると、相当異常な風景ではあります。

私も持っておりますが、あのちっちゃい中に、電話機能からメールから住所録にインターネット、地図にカメラにスケジュール表に、ゲームやら音楽まで入っており、それに私なんぞは、その機能の10分の1すら使ってない人ですから、スマフォ好きな人が四六時中離れられなくなる理屈も分からなくはないんですけど。

それだけの機能をポケットに携帯できていれば、便利といえば便利なんだろけど、それがイコール快適なのかというと、果たしてどうなんだろかと思うわけですね。

だいたいあのメールというのは、便利なもんで、いつでもどこでも世界中の相手に届くんですよね。LINEなんかは、先方が開けたら、そこで既読ということが分かるし、まあ多くの場合、送ったとたん伝えたいことが相手に届いたということになる訳です。でも受け取る方は、この話聞かなかったことにしたいなと思うこともある訳だし、うん聞かなかったことにしようみたいなこともある訳です。

電車の中でメール読んだり打ったりしてる人たちが皆、この情報が今受け取れて本当によかったと思っているのか、だいたい、まあいつでもいいような話がほとんどなんじゃないかと思っている私は、ひねくれ者なのでしょうか。

仕事の話であれば、職場に着いてから順番にお返事すればよいし、遊びの話ならもっとそうだし。だいたいいつでもどこでも伝わっちゃうから、歩きながらメールして、人にぶつかってる奴がいたりするんじゃないでしょうか。

 

昔の話になって恐縮なのですが、私達が世の中で働き始めた時には、携帯電話もなく、FAXすらなく、かろうじて電卓が普及したばかりの頃で、昭和ですけど。通信手段は、卓上電話と公衆電話と郵便でした。

電話で話したい相手が、その電話のそばにいるとも限らず、その場合は相手の居場所を突き止めて、そこに電話をするか、折り返しの電話を待つかなんですけど、こちらもあっちこっち飛び回ってることもあり、間が悪いとすれ違い続けたりしてました。

とにかく込み入った話のときには特に、会って話すのが基本でしたね。なかなかうまく会えない時は、あらかじめ手紙を書いて相手に届けておいてから、電話で話すこともよくありました。

夜になると事務所も閉まって、お互いの居場所もだんだんわからなくなってくるので、私が最後に立ち寄ることになっていた「バルコン」というバーでは、何件かの私への伝言と連絡先がコースターの裏側に書いてあったりしました。

ともかく、相手に情報を伝えるには、今よりある程度時間的な間があったわけですね。

そうこうしてるうちに、いつの頃だったか、FAXが登場します。

これはなかなか強力な新兵器でして、文字や画がそのまま、解像度はともかく、届くわけです。ただ、普及し始めの頃は、送り手が送ったつもりになっていても、きちんと受け取られてなかったり、よく読めなかったりと、完全なツールになっておらず、返ってコミュニケーションの齟齬をきたすこともありました。

これに関しては、送った側が送っただけで完全に意思が伝わったと思いこんでしまうところが問題なわけで、言いたいことはこれで全部送ったかんねみたいな。このあたりは今のメールにもそういうところがあります。

 

思えば、すぐに相手につながらなくてイライラしたこともあったけど、すぐにつながるということが当たり前のことではなかったから、どうせそんなもんだと思ってたところもあって、伝える中身をもう一度考えてみたり、整理してみたりして、少し余裕ができたり、悪いことばかりでもなかったかなと。

だいたい早く伝わってうれしいことはあると思うけど、情報というのは、知ってしまえば面倒なことも多いわけで、ほんとは少し間のようなものがあった方が楽なんじゃないかと思います。

それに本当のおおごとと云うのは、なんだかものすごいスピードで伝わるもんですよね。経験的に云うとです。まあこういうこと云うと身も蓋もないんですけど。

しかし、こういう高度な情報機能を持った世の中で、ビジネスマンやったり、恋人同士やったりするのも、考えようによっては大変なわけで、ハイ伝えましたよ。ハイすぐに対応してね。が、当たり前になってるわけですよね。なんか、昔は行方くらましたり、音信不通になったりするのも芸のうちみたいなとこもあって、まあ、ある意味問題を先送りするだけなんだけど、でも、先送りしながら、その問題とだんだんに向き合ってたとこがあります。今はそのあたりがなかなか難しいですよね。

ただ、色々見てると、それでも、なんだかんだ問題を先送りしたり、煙に巻いたりしながら、物事をすすめていく術を持ってる人は、やはりいるわけで、これはいつの時代も追っかけっこなのかなとも思いますが。

 

でも、初めて使った携帯電話って、1980年代の終わり頃だったけど、でかくて重くて、ホントつながらなかったなあ。街中を歩きながら話してて、角曲がると切れちゃったりしてましたね、いま思えば。

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2015年5月 1日 (金)

社員研修と、尊敬するディレクターのはなし

4月は新学期でもあり、会社にも少し新人が入ってきて、なんかあらたまった気持ちになるもんですね。それに、この会社は、けっこう若い人の割合が多いので、みんなして一学年ずつ進級するみたいなとこもあります。会社の仕事は主に、広告の映像を作ることなんですけど、今年は、新人の研修は例年通り山登りに行くとして、2年目3年目の若手社員にも社内で研修やりましょうということになったんですね。

で、その講師には、自ら名乗り出た社歴9年の新人プロデューサーのミナミという女子があたることになりまして、この人、わりとちっちゃくてパッと見、子供っぽく見えるんですけど、仕事はけっこう厳しい人で、後輩達からは一目置かれているみたいです。この人が5月に第一子出産予定で、しばらく出産育児休暇に入るので、その前にひとつ、会社の若手たちに、是非言っておきたいことがあるということで、まさに身重の体で、休日の丸一日、8時間の渾身の研修をおやりになったそうなんです。

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この講習で使うためのテキストを、前もって彼女が作ったんですけど、これがなかなか良くできてるんですね。ほんとに同業他社に売りたいくらいのもので、これも渾身のテキストになっております。

このテキストを作る少し前から、彼女は社内でいろんな取材を始めまして、先輩から若い人たちに伝えたいことなんかをインタビューしたり、いろいろな形でテキストのネタを集めたんです。

私んとこにも、質問状が来て、これには真剣に答えなきゃと思い、まじめに考えました。項目は4つあって、1つ目は、2,3年の若者へというテーマでメッセージをということで、自分の若かった頃を、はるか昔ですが、思い出しながら書きました。2つ目は、自分の仕事のベスト3をということで、これも膨大な記憶の中からなんとか選んでみましたが、なかなか難しかったですね。3つ目は、絶対観ておいてほしい映画ベスト3ということで、これも大変でしたが、古典からがいいかと思いまして、1.東京物語2.七人の侍3.アパートの鍵貸します などと書きましたね。

それで、4つ目がまた難問だったんですけど、今まで仕事したディレクターの中で、1番好きな、もしくは尊敬している方、という質問でして、これはほんとに多くの方がいらっしゃるわけです。ちょっと思い出しても、どの方も表現に関して、それぞれにユニークな面白い考えを持ってらして、本当に優秀な人たちで、私なんかはものすごく影響受けてるわけです。なかなか1番は選べないんですね。

それでいろいろ考えてたんですけど、ある人を思い出しました。

駆け出しの頃、前にいた会社で、私が一番若い制作部だったんですけど、そこにCMディレクターになったばかりの6歳年上の先輩がいました。その会社で最も制作費の安い仕事をよく二人で作ってたんです。

この人からは、いろんなことを教えていただきましたし、

「おまえ、若いのにほんとにいろんな目に会ってて面白いな。」

などと云って、よく人の失敗話を聞いて笑ってくれました。

私は、彼のことをすごく尊敬していましたし、彼が優秀な演出家であることもわかっていました。三浦英一さんと云います。

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6年ほどして、私がプロデューサーの仕事を始めた時には、彼はすでに会社で最も忙しいディレクターになっていました。その後も、実にいろいろな仕事を一緒にしましたが、そのたびにレベルを上げていたと思います。それからしばらくして私はその会社を辞めましたが、いずれまた仕事をしましょうと云って別れました。

それが1988年の終わり頃でしたが、1992年に彼は突然亡くなりました。いい仕事をたくさんしていて、次々に依頼が殺到していて、どんな仕事も手を抜かない人でしたから、過労だったと思います。その時44歳でした。

20何年も前のことですが、あの事を思い出すと、何ともいえぬ悲しさと悔しさがにじみます。

その翌年だったと思うんですけど、私は初めて市川準さんと仕事をしました。その時はすでに超売れっ子ディレクターで、映画も何本か撮っていらっしゃいました。私は最初少し緊張しましたが、やがてすぐに打ち解けることができ、そして、だんだん仕事をしていくうちに、なんだか懐かしい感じがしたんですね。

市川さんは三浦さんに似てたんです。顔が似てるんじゃないんですけど、二人は同じ年に生まれていますし、異常に映画が好きですし、二人ともコンテを描くのがめちゃくちゃうまいです。ディレクターとしての成り立ち方が近いんだと思うんですね。市川さんとお酒を飲んだりしていると、私の一方的な感覚ですが、なんか不思議な気持ちがしておりました。それからはご縁があって、いろいろな形で長くお世話になりましたが、結局そのことをお話しすることもなく、市川さんも、2008年に59歳で突然亡くなってしまわれました。

いつだったか、市川さんがとても好きな映画だからと云われて、1970年のサム・ペキンパーの「砂漠の流れ者」のビデオを下さったことがあったんですが、三浦さんも1969年のサム・ペキンパーの「ワイルドバンチ」が大好きで、この映画の出演者たちを暇さえあれば絵に描いてたのを思い出しました。

二人とも、驚くべき本当に寝ない人で、亡くなる直前まで仕事をしていたことも、共通することでした。

 

CMディレクターの質問をされたことで、想いだしたことでしたけど、この話を若い人にしてみたいと思ったんですね、ちょっと。

 

2015年3月27日 (金)

犬の賢愚の法則

やはり例年、お彼岸を過ぎると寒い日が少なくなってきて、ポカポカと暖かい日が増えてきますが、朝晩はまだ寒いことが多いですね。だからというわけではないのですが、私の寝床には毎晩犬が2匹寝ております。人間が寝床に入る時にはベッドの横の自分達の寝床で寝てるんですが、必ず夜中にベッドに上げろとワンワン云うのです。

仕方なくベッドに上げると、母犬の方は、羽毛の掛け布団の上で眠るのが好きで、私の腹のあたりに乗ることが多く、倅犬の方は何故か人の枕に乗り掛かったり、頭を乗せて横になります。こういう状況になると、私も寝返りなどの動きが制限されまして、顔のすぐ前に倅犬の尻があったり、夜中にうなされて起きると私の胸の上で爆睡している母犬がいたりして、やや窮屈なことになるのが秋から春にかけてのこととなります。まあ夏は暑いので、玄関の石の上が気持ちが良いらしく、寝室には入ってこないんですけどね。

この二匹というのが母と息子なんですが、母が10才、息子が6歳のグレーのトイプードルなんです。トイプードルと云うのはわりとちっちゃいんですけど、せまい家で一緒に暮らすと、これが、けっこうな存在感を示します。 

このブログにも書きましたけど、この母犬のマリンが、6年前に大騒ぎの出産をして、一匹だけ産んだ息子がこのチップでして、以来、我が家は人間4人と犬2匹の構成になっているわけです。

犬というのは、いっしょに暮らす人間にきちんと向き合って、じっと見つめて生きていくとこがあって、自分のことを、いつもかまってほしいというとこがあります。そこが可愛いんだけど、あんまり託されると荷が重いところもあります。距離感で云うと猫なんかの方が、お互い勝手に生きてる感じが楽な気もするんですけど、うちはカミさんが猫が苦手なので犬なんですけど、そういうとこがあって、うちは犬に、犬らしいしつけのようなことを一切しませんから、芸は何もできません。お座りもできんと思います。まあ ちっちゃい犬だからいいんでしょうけど、大きな犬だとしつけをしないと絶対に一緒に暮らすことはできませんからね。まあそういうふうに暮らしてるから、ベッドとかソファで無防備に寝てる姿が、ちょっと猫っぽいとこがあるんでしょうか、うちの犬たちは。

 

私の友人のNヤマサチコ女史曰く、動物を2匹飼っているたいていの場合、片方が賢いと、もう片方は愚かであるという法則があるそうなんです。女史は代々猫を飼っておられて、経験上あきらかにそういうことなんだとおっしゃる。彼女のブログには、頻繁にいっしょに暮らす猫の話が出てきて、読んでると確かにそういうところがあります。この話を聞いたときに、私も、はたと膝を打ちました。うちの場合も確かにその通りなのであります。

母犬のマリンは、子犬でうちに来た時から、礼儀正しくて、我慢をすることができるタイプで、まあ多少わがままなところもありますが、それは、なんかお嬢様育ちのわがままと云った感じで、いわゆる賢い子なんですね。妻は、

「この子は私に似たわ」と云ってます。

それに比べて、息子のチップの方は、我慢ということを知らない。何でもやりたいことはやる。そのくせ淋しがりで、いつもかまってかまってと云う。気が小さくて怖がりだから、舞い上がると吠えまくって、トイレなども失敗の連続。いわゆるおバカさんキャラなわけです。

たとえば、二匹を連れて散歩に行くとですね、母犬の方はきちんと私の斜め後ろを、まっすぐに私の速度に合わせて歩きますね。倅の方はと云うとですね、私の前後左右をジグザグに全く無軌道に歩きますね。紐もこんがらがるし、私もマリンもすごく迷惑なんです。それでチップは、一人だけそうやって余分に歩くもんだから、途中で必ず疲れ切ってしまい、そうすると自分のリードを噛んで引っ張って、抱っこしてくれと云うんですね。そこでマリンの方を見ると、スミマセンガ抱っこしてやっていただけますか。と、ちょっとすまなそうに眼で云うんです。散歩に行くといつもそうなります。

血の繋がった母子、母が自ら産んだ息子なのにこの違い。顔だけは似てるんですけど。

Nヤマサチコ女史の言われる、賢愚の法則が明らかに証明されております。

しかし、こうやって母犬が来て10年、愚か者が加わってからも6年となりますと、彼らがいる風景が普遍となります。

チップのことを、「この子はあんたに似たわね。」 と妻は言いますが。

Marinchip

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