2017年1月19日 (木)

2017酉年 あけました

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また、新しい年が明けました。

個人的には60歳を超えて2年が経ちまして、そのスピードは、ますます加速してきております。還暦を過ぎれば、おまけで生かしていただいてるようなところもあり、1年1年1日1日を大事に有意義に時間を使わねばなあと、肝に銘じておったのですが、性格が迂闊なもので、ついついうっかり、今までと同じように時を過ごしております。

ただ、なんとか無事に1年を過ごして、また新しい年が明けることは、ありがたくめでたいことではあります。

今年は酉年ということで、昨年の暮れに自分の年賀状作る打ち合わせしてたら、いつも頼んでる仕事仲間のデザイナーが、なんか鳥の絵とかあるといいなというので、ちょっと思い浮かんだのが、手塚治虫の「火の鳥」だったんですね。

「火の鳥」という作品は、手塚先生が漫画家として活動を始めた初期の頃から晩年まで手掛けられ、氏のライフワークとなった壮大なストーリーで、古代からはるか未来まで、地球や宇宙を舞台に、生命の本質を描く大作なのです。かつて全巻持ってたけどなあ、あれどうしちゃったかなあ。

酉年の初めに、鳥にもいろいろあるけれど、この超大作のシンボルである火の鳥は、なかなかふさわしいかなとも思いました。また、その物語は、火の鳥と関わる多くの主人公たちが、悩んだり、苦しんだりしながら、もがき闘い、運命に翻弄されてゆくお話でして、なんだか先行きが見えにくく、少し不安な今年の世相を予感させるようでもあります。そして、そんな杞憂を払拭して蘇り、大きく羽ばたいて飛翔するイメージが強くあるのも、この火の鳥なのです。

そんなことで、2017年の酉年も無事明けたわけですが、実は昨年末で、このブログページに書いてきた雑文の本数がちょうど100本になりまして、数的には一区切りということになりました。考えてみると、2004年頃に何の気なしに始めたことが、こんなに長く続くことになろうとは、その時はまったく思ってもいませんでした。ちょうど会社のホームページと連動する形で、個人のブログというのもやってみようということで、なんか書いてみようかと思ったのがきっかけだった気がします。

その何年か前からブログというのは存在してたんですが、わりとそのサービスが出そろったのは、この頃だったようです。ただ個人的には、なに書きゃいいんだろうという感じで、かつて日記というものをつけたこともなく、どうにか、月に1本書くか書かないかみたいないい加減なペースで始まりました。なんか適当な話っていうのが、なかなか思いつかないんですけど、そうは云ってもなんか書いてみようと、自分の周辺のことを少し掘ってみはじめると、それほど大したことではないのだけれど、それこそ酒飲んで人に話すような気持ちで文にしてみたら、それなりにちょっとずつ書けたんですね。それを続けてると、いろんなことを思いついたり、昔のことも思い出したりしてきて、酔っ払いの話が長くなっていくように、文もだんだんと長くなってきました。それと、チャカチャカといたずら書きなんですけど、ヘタな絵も一つ書くことに決めたら、それはそれで決まり事になってきたんですね。

そんなふうに始まりましたが、間違いなく自分のためのものでして、どなたかに読んで頂くとか、定期的に書くということでもなく、更新頻度もいい加減でしたから、12年も経って100本くらいのことなわけです。

偶然、50歳のときに始めて、そこから10年程の自分史となっておりますが、少し読み返してみると、大変興味深いですね。結構いろんなことがあったし、その間、世の中もいろいろ変わってますね。誰かに読んでもらおうと思って書いてはいなかったんですけど、たまに誰かが読んで下さったことは、励みになりました。自分のために書きながら、このブログというスタイルでなかったら、続かなかったことのように思えます。この場を借りてお礼申し上げます。

ありがとうございました。

なにぶん継続することが苦手な人でして、ひとつことを、ともかく100本まで続けることができたことには、意外な達成感がありました。

ちょっと読み返しつつ、こっからどうしようか考えてみます。

とりあえず。

 

 

2016年11月22日 (火)

引越しのあとで

少し前に、テレビで 「となりのトトロ」 をやっていて、またしても見てしまったんですけど、これほど何度も見た映画もなかなかなくてですね。1988年に公開されて以降、幾度となく放送されているし、家にビデオもありますから、子供が小さかった頃にも、何度も一緒に見ておりました。そんなことですから、見ながらにして、次のセリフも言えてしまうし、いい歳して、必ず同じところで泣いてしまったりもするわけです。そして、その度に、これは名作だなと唸るんですね。まあ、映画というのは、リピートに耐えることが、名作の条件だったりするところがあります。

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この物語の冒頭は、主人公の父娘3人がこの土地にやって来る引越しの場面なんですけど、これがなかなかいいシーンでして、このあとの様々なドラマの展開の起点になっているんですね。確かに引っ越しって、新しい何かに出会う期待と不安があって、物語の始まりとしては、うってつけの設定なのです。

ちょうど私も、会社の中で6年ぶりに席を替わる大引越しの最中でして、6年間に溜まりに溜まった本の山に囲まれて、かたずけに追い立てられておりまして、ちょっと古本屋で店番してるオヤジのような風情になっております。

そこで、ふと、これまでずいぶんと引越しをしてきたなあと思ったんですね。

子供の頃は、父親の仕事の都合で、幼稚園も小学校も中学校も転校を繰り返しておりまして、そのあと大学は上京してきましたので、この時は一人の引っ越しでしたし、一人になって何年かは落ち着いたんですが、そのうち働き始めてから、住んでたアパートが取り壊しになることが二度ありまして、まあ老朽アパートだったんですけど、その都度、住み家を変えます。

やがて結婚することになって、また別の街に越しますが、今度はその街の中で3度引越して今に至ります。勤め先が変わったり、またその場所が変わったり、こちらも大小の引っ越しが数々ありまして、考えてみると、好むと好まざるとにかかわらず、ずいぶんと引越しの多い人生じゃないかと思いますね。

子供の頃はともかく、大人になってからの引越しは、回を重ねるごとに、だんだんと大ごとになります。若い頃はお金もないし、荷物の大半はゴミだから、捨てればあらかた片づいて、軽トラック一台借りてくれば済んじゃうんで、わりと苦にならなくて、気分転換にもなるから、むしろいろんな場所に住んでみたいななどと思っていました。

でも、年齢を重ねると、いろんなことが身軽じゃなくなってくるんですね。家族もできたり、家財道具や荷物も増えてきて、これは、歳とともに人間関係やしがらみが多くなってくるのと似ております。

思うに、引越しというものは、「さよなら」と「こんにちは」で出来ておりまして、それは、街だったり、物だったり、人に対してだったりしますが、そこには、若干の寂しさと、いくばくかの期待と、何ともいえぬ不安などがありまして、いろいろな気持ちを抱えながら、新しい場所に移ってゆくんですね。

引越しには、ある意味リセット効果などもあって、まあ悪いことばかりでもなかったかなと思いますが、自分の性格にちょっと薄情なところがあるのは、引越しが多かったせいかなと思ったりするところがあります。これは自分じゃわからないんですが、ちょっと別れということに対して淡白で、わりと早めに諦めてしまうような、そこは転校生にありがちなところかもしれませんけど。

いずれにしても、人生は出会いと別れの繰り返しではあります。それがその人にとって、良いこともあれば、良くないこともあるんだけど、そういう中で新しい自分に折り合いをつけながら、みんな日々暮らしてるわけです。

だから、しんどいことがあったり、新しい何かに出会いたかったリ、自分にとってなんか変化が必要なときは、引越しをしてみるのは良いことかもしれませんね。 

なにもほんとに引っ越さなくても、自分のなかではっきりとポジショニングを変えてみるということなんですけど。

大きめの引越しでも、ちょっとした小さな引越しでもいいから、なんか新しい環境に自分をおいてみると、なんか今までと違ったことが起きることもあるかもしれません。

 

サツキとメイはトトロに会っちゃったわけだし。

 

2016年9月20日 (火)

「新井さん、どのツラ下げて帰って来たんですか会」のこと

プロ野球シーズンも終盤に差し掛かりまして、半年かけたペナントレースで優勝するというのは、それでなくても盛り上がるもんですけど、今年の広島カープの優勝に特にスペシャルな嬉しさがあるのは、それが25年ぶりであるということでして。25年前と云えば、1番-田中広輔、2番-菊池涼介、3番-丸佳浩の同い年俊足トリオが全員2歳だったりするわけですから、ずいぶんとためがあるんです。

だいたいこのチーム、1975年の初優勝の時も球団創設から25年かかっておるんですが、ただ、1975年から1991年までの16年間には6回優勝しているんだから、この頃は結構強かったわけです。そのあと25年間優勝できなかったのは、やはり資金を持たないチームの辛さでして、ちょうど1993年から導入されたFAシステムの影響で、主力選手が他チームへ移ってしまったり、かといってFAでの補強もできず、また、その頃ドラフトに逆指名制度が導入されたのも、このチームにとっては逆風になりました。チーム力低下に伴い、順位も下がり、観客動員も減り続け、球場の老朽化などもあって、しばらく冬の時代が続いておったわけです。

ただ、このアゲンストの時代、球団は手をこまねいていたわけではありません。もともとこのチームは資金がない分、新戦力を探してくるスカウト陣には定評があり、全国のアマチュア、海外の選手などを発掘し続けます。そして、その原石を磨きに磨くわけです。ともかく、カープの普段からの練習量は半端じゃなくて、昔、金本さんがカープから阪神に移籍した時に、そのタイガースの練習量の少なさに驚愕したと云います。

そして、一定の強化を続けるうちに、2007年に発覚した複数球団の裏金問題で、逆指名制は廃止となり、このあたりから逆襲に転じる契機となります。

球団も色々とファンサービスを工夫しまして、徐々に球場に観客を呼び戻し始めました。資金のこともあり、ドーム球場はできなかったけど、本場のボールパークのような魅力的なマツダスタジアムを完成させ、そこにアイデアあふれる観客席も作りました。

そんな苦労が少しずつ報われ、このところ少しずつ順位も上げて、何年か前からカープ女子などと呼ばれるおねえちゃん達も現れて、なんか盛り上がってきたところです。ちょっと前の東京ドームで行われた巨人×広島戦などは、満員の客席のほぼ半分は真っ赤で、東京にこんなにカープファンがいたのかと思えるほどの社会現象となっております。

そして、この数年少しずつ膨らんできた優勝への機運を一気に盛り上げ、その選手たちやファンの精神的支柱となったのが、黒田博樹投手です。さんざん語られていることですが、2007年に大リーグへ渡ったこの人が、一昨年、何10億と云われる大リーグのオファーを断り、広島と推定4億で契約して帰ってきたことは、ずいぶん大きな出来事でした。

彼は1997年に入団し、2007年までに103勝してチームのエースとなりますが、その間チームは低迷します。FA権を取得して2年目、悩む黒田が大リーグ挑戦を決めた後の囲み取材で、

「広島が常勝軍団だったら、ことは違っていたのか?」という記者の質問に、目を真っ赤にして、

「・・・・・・。大リーグ行きはないと思います。」と答えました。

そして、もし日本に帰って来ることがあれば、必ずカープに帰って来ると云います。

そして、ドジャースとヤンキースで合わせて79勝して、本当に帰ってきたわけです。

いや、多くは語らないけど、かっこいいです。マスコミは男気黒田と云ってはしゃぎ、カープファンは痺れました。その1年目、黒田は11勝の奮闘をしましたが、ペナントレースの成績は4位に終わります。1975年生まれの、ちょうど40歳になっていました。その黒田が、来年もやると云いました。泣けるよなあ。そこで迎えたのが今シーズンだったんですね。ファンもナインも燃えます。

そして、もう一人、攻撃の中心となったベテランに新井貴浩選手がおります。この人もある意味結果的には、優勝への精神的支柱になるのですが、ちょっと黒田とは事情が違っているんですね。

この人は1999年に入団して、2007年までに987安打を放ちチームの中心打者となっていました。しかし、チームは低迷期であり、優勝できるチームで活躍したいと願い、黒田と同じ時にFA権を行使して阪神に移ります。この時の記者会見で、

「辛いです。カープが好きだから・・・」と云って、ポロポロと涙を流しました。

黒田が海を渡ったのに比べ、新井は同じセ・リーグの阪神に行きましたから、カープファンからは野次られたりもしました。そして阪神にいた7年間はヒットも打ちましたが、腰痛に悩まされたりもして、けして万全ではありませんでした。結局優勝もしてません。

2014年、新井阪神最後の年、成績は、176打数43安打3本塁打31打点、打率.244でした。大幅減俸通告を受けた新井は、球団に自由契約を申し入れます。

この時、右打ちの長距離打者が補強ポイントであった広島が、獲得に動きました。阪神が提示した年俸7000万を下回る2000万という広島の提示を、新井は即決で受け入れます。広島は生まれ故郷でもあり、自分を育ててくれたカープで最後はプレーしたいと思ったのでしょうか。この時38歳。そして、帰って来た新井をファンは黒田と同じように、お帰りと云って暖かく迎え入れます。

そこから今年にかけての大活躍は、すでにご存知の通りなんですけど、実はこの人が8年ぶりに帰って来た2015年2月の日南キャンプで、ベテランの石原を中心に後輩達が焼き肉屋で、新井さんのことを招待した飲み会があったんですね、。この会が、

「新井さん、どのツラ下げて帰って来たんですか会」という名前の会だったそうです。

かつて自分から出ていって、選手として盛りも過ぎて、結局優勝も経験せず、ノコノコ帰って来た負い目もあったかもしれないけど、新井はこの会ですごく楽になったみたいです。仲間のユーモアに救われたということでしょうか。そして、そっから死ぬ気で鍛えに鍛えて、復活を果たしました。

このチームの25年ぶりの優勝という大きなストーリーには、2007年に出ていって2015年に帰って来た、ややとうの立った二人のベテランの、それぞれのストーリーが、少なからず作用していたわけであります。

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私は阪神ファンで、新井選手が阪神で不調のときは、ヤジり倒しておりましたが、広島に帰ってからの別人のような活躍と優勝への貢献は、素直に嬉しかったし、胴上げで黒田が泣いた時は、オジサンも泣いたです。

そういえば、昔、阪神のエースであった天才江夏は、優勝せぬまま球団を追われ、4年後に広島でストッパーとして、初のリーグ優勝と日本一を成し遂げたのでした。又、2003年に18年ぶりに阪神が優勝できたのは、広島から金本選手が来てくれたおかげでした。

野球というスポーツを見て、得られる感動というのは、つくづく感情移入できる選手の活躍だなと思いますね。

このところの阪神には感情移入できる選手がなかなか少ないのですが、金本さんが監督で帰ってきてくれて、時間かかってもよいので、ちゃんとチームを作ってくれることを期待しています。今年はとりあえず最下位くさいけど、近い将来ということで。

 

 

2016年9月 1日 (木)

萩・津和野 うたた寝旅

仕事のせいか、旅をするということには、わりと慣れておりまして、結構いろんなところへ行った記憶があります。最近は現場を離れているので、それほど彼方此方と行くことはありませんが。

昔は、時刻表を片手に聞いたこともない駅に降り立ったり、トランジットの時間がギリギリになった飛行場を全力で走ったり、自分で車を運転して1000km以上走破したり、思えばいろんなことをしておりました。

仕事での旅の目的は、ロケハン・ロケ・シナハンなど、大勢で行くことも一人で行くこともあり、よく調べてから出発する場合もあれば、急に飛ばされることもよくありました。だもんで、習慣的に旅の支度は早くてですね、長い旅でも短い旅でも、支度は出発の当日か前夜にチャカチャカとやってしまいます。チケットやパスポート以外は、たいていのことはいざとなればどうにかなりますしね。したがって枕が変わって眠れないということも全くなく、大嫌いな飛行機でも2~3杯飲んだら爆睡できます。まだ不慣れな頃、初めてハワイ便で好きなだけ飲んでいいですということがあって、本当に好きなだけ飲んで大変な思いをしたことがありましたが、気圧が低いと悪酔いすることも知らなかった頃のことです。

そういうことで、旅と云えば仕事がらみのことがほとんどだったんですが、このところは、たまにプライベートな旅にも行くようになってきました。私用だったり、家族旅だったり、仲間旅だったりしますが、そのなかで、7~8年前からたまに思いついた時に行く男三人旅と云うのがあって、ちょっと恒例化しております。「大人の遠足」とか云って、いつも2泊くらいの旅なんですけど、このメンバーで今度はどこそこ行こうかとか云いながら、飲んで盛り上がるんですね。まあ言うだけで実現しないのも多々あるんですけども。

このお二人と云うのが、S山さんとY田さんと云って、かつて一緒にいろいろお仕事した方たちなんですが、私よりも6歳ほど年上の大先輩で、二人は昔から大の仲良しなんですね。まあ、私からすると、仕事を教えて頂いた方たちなわけですが、初めて会った時は皆20代でしたから、ずいぶん長いお付き合いということになります。

そういう関係性ですから、行き先が決まると、よし、じゃさっそく準備しようとなるのですが、振り返っても誰もおりません。飛行機の手配したり、車借りたり、宿を予約したりは、私がやります。かつて3人で仕事していた時も、それやるのは当然、私の役目でしたから、ほかの二人がそれやるのは、むしろ不自然なことになるわけです。誰か私より若輩な者を加えることも考えたんですが、なかなか適任者も思いつかず。そんなことで、この会はこの三人で行くのが決まりとなっております。

どんな旅かと云うと、たとえば「静岡しんこ計画」「気仙沼ほや・さんま計画」「2月の近江路、発酵食品を訪ねる」「古都、桜と筍」「南淡路、鱧と玉葱の鍋」「平城遷都1300年、義経、西行、太閤の千本桜の旅」「屏風『親鸞』拝観」「唐津、焼き物探索と鮨」「長崎ぶらぶら旅、餃子」「カープがんばれ応援ツアー」「師走京都、ふぐ、ぐふふ」など、若干、食べ物への下心が見え隠れしますが、大人の好奇心を満たす内容となっておるのです。

今回、久しぶりに、夏どっか行こうかということになり、計画いたしましたのが、萩・津和野への旅、こちらには三人とも行ったことがなかったんですね。皆こういう仕事してるし、ベテランだし、結構いろんなところ行ってるんですけど、まあ、行ってない場所というのはあるもので、かなり有名なところではあるんですが、初見参となりました。

幕末に倒幕へと爆走し、維新を推し進める上で大きな役割を果たした長州藩の中心地である萩と、そのすべての始まりとなった松下村塾というところへ行ってみましょう。それに、津和野に流れる高津川には天然の鮎もいらすようですし。みたいな話から始まり、行ってみることになったわけです。ここでも鮎の存在が見え隠れしますけど。

旅はまず津和野に入り、肝心なことからやっておこうというわけじゃないですが、天然鮎にお会いすることから始まります。地元のお酒などもいただき、宿の近くに3軒ほどあったスナックを覗くと、ほかに客はおらず、ママさんが相当おしゃべりな人で、その話を聞いてますと、ご主人がこの街に1軒だけある骨董屋の親父である事がわかります。

で、翌日に行ってみました骨董屋さん。いや、世の中には面白い人がいるもんで、このオヤジ、と云っても私と同じくらいの歳なんですけど、若い時から集めに集めた骨董品の山の中からあらわれました。いろいろ話し込んでいるうちに、店には出していないお宝の陶器というのを二階から数点だしてきて見せてくれたんですが、値は付けられないけどおそらく数百万とかで、確かにそう言われてみると、なかなか見事なお宝でして、すっかり目の保養をさせていただいたわけです。

そんなことしながら、萩の方へ移動しまして、いろいろと名所旧跡を訪ねようと、まず、そば屋で一杯やりながら作戦を練ったんですね。ただ、西日本は、この日、一番の猛暑日でして、外を歩いてると立ち眩みするほどなんですね、皆60才超えてるし。で、タクシー会社に電話したら、2時間コースでいろいろ連れてってくれて、解説までしてくださる方がいらっしゃるとのことで、即、お願いしたわけです。

そしたら、そのそば屋まで迎えに来てくださいまして、まず、松陰神社、松下村塾から始まりました。このガイドさんは、すでにおじさんなんですが、おそらく子供の頃から萩で教育を受けられ、いかに吉田松陰先生が維新において重要な役割を果たしたか、また松下村塾で講義を受けた多くの弟子たちが、若くして国づくりの中心になって働いたことなどを、いつも聞かされて育ち、この萩という地にすごく誇りを持たれている方と思われます。2時間ほど、車で市内をあちこちと移動し、車を降りて炎天下の萩の街を一緒に歩きながらいろいろと解説をしてくださったわけです。

いや、やはりためになったと云うか何というか、あの掘っ立て小屋のような松下村塾から、明治という国家を作った多くの人材を輩出したことなど、実際に街を歩きながら聞かせていただいた話には、実にリアリティがありました。150年も前の話というよりは、まだ150年しか経っていない話の実感というのか、そんなことを三人とも感じ入っていたのですが。この学習コースも終わりに近づいた頃、炎天下の疲れも出られたのか、二人の先輩は軽い鼾とともに、心地よい眠りに落ちて行かれました。ガイドさんが

「話がちょっと難しかったかなあ。」と云われたので、

「いえ、そんなことありません、ちょっと旅の疲れが・・前半はちゃんと聞いてましたから。」などと申し上げたようなわけです。

しかし、この会を始めた頃から比べると、みんなよく寝るようになりましたね。宿でもどこでも、隙あれば寝てます。昼酒飲めばイチコロだし、うたた寝、昼寝は得意技ですね。みなさん、それなりの年齢だし。まあ、気持ちよくうたた寝できるのは、いい旅してるってことでしょうか。

ともかく、元気でなによりです。さて、次はどこ行くかなあ。

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2016年8月 1日 (月)

お好み焼き文化圏

大雑把に云えば、この国の西の方で育った人にとって、お好み焼とか、たこ焼とか、きつねうどんであったり、いわゆるメリケン粉で構成された食べ物というのは、食生活において重要な位置を占めます。特にお好み焼というのは、粉物ソース味の分野で中心的な食品であります。

私が育った神戸だったり広島だったりという町には、大げさではなくお好み焼屋が街の1ブロックに一軒はありました。繁華街には大きめの鉄板で何人かの兄ちゃんが焼いてくれる大型店もありますが、多くは、おばちゃんが一人で焼いているような、小ぶりなお店で、鉄板の周りに7~8人並べばいっぱいになるような店です。だいたい昼食時はいっぱいですが、そのあとはパラパラで、夜になるとそこでビール飲んだりするんですね。お客さんは老若男女、子供から年寄りまで、だいたいが顔見知りであったりします。私が子供の頃ですからずいぶん昔のことですが、多分、今も変わってないんじゃないでしょうか。どうだろ。

ところで、一言でお好み焼といってもですね、土地によっても店によっても、色々と違いがあります。東の人から見ると、どれもメリケン粉中心で材料も同じようなもんだし、味は最後にこってりかけるあのお好みソースの味になってしまうのだから、どれ食べてもそれほど変わらないんじゃないかと思われるでしょうけど、それがそうでもなくてですね、それは店によっても、ちょっとした作り方によってもけっこう違いがあるんですよ、これが。

細かいこと云いだすときりがないんですけど、お好み焼には大きく分けて二つの分類がありまして、お気付きかも知れませんけど、関西風と広島風というのがあります。いわゆる全国区で一般的にお好み焼と呼ばれているのは、関西風でありまして、広島地区で焼かれているスタイルを広島風と呼びます。ただ、広島では、けっして自分達で広島風とは呼びませんが。

両方の地区で育った私としては、どちらが良くてどちらが美味しいというのはなくてですね。それぞれにちゃんと美味しいわけですが、これは似て非なるものではあります。

わかりやすく云えば、関西風はメリケン粉を溶かせた生地と、具を、まず混ぜてから鉄板で焼くのですが、広島風はまず生地だけを薄く広げて焼き、その上にいろんなものを載せて行きます。ここからは多少細かくなりますので、私が焼く時の手順をご紹介することにします。

まず、鉄板に薄く伸ばした生地の上に、鰹節をたっぷりとかけ、千切りキャベツをどっさり、これは山のように載せ、その上からたっぷりもやしを、フワッとひろがるように載せます。 崩れそうになっても怯まず、その上に天かすを大さじ一杯ほどかけ、青ネギをかけます。その上にイカ天です、これは薄いイカを天ぷらで揚げたもので、広島ではどこでも売ってますが、関東ではなかなか手に入りません。多少塩コショウをしてから、豚バラ肉をきれいに広げてかぶせるように並べますね。その上からおたまで軽く生地をかけたら、お好み焼の両側から素早くコテを差し入れて一気に裏返します。この山のように盛り上がった物体を引っくり返すのが、技術的には最も難易度の高いところですが、ビビらずにやります。ここで大切なのはスナップを利かせることです。

たいていの場合、具が多少散らかったりしますが、コテでまた集めて整えれば、見てくれは良くなりますから大丈夫です。このあとは、しばらく蒸し焼き状態にしますが、ボーっとしてる場合ではなく、横の空いたスペースでソバを炒めます。ソバは市販の焼きソバで構いませんが、お店では生の中華麺を湯掻いたものを使うことが多いです。この時少しウスターソースをかけてソバに下味をつけます。この焼きソバを丸く広げた上に先程のお好み焼を載せましたら、その横に卵を割りまして、コテで素早くお好み焼の大きさに広げ、その上に焼きソバに乗っかったお好み焼を載せ、この重なった物体を一気に引っくり返します。ここはある程度スピードが必要で、技術的難易度が2番目に高い工程です。ここもスナップ大事です。

ここまでくれば、ほぼ完成、あとはお好みソースをかけますが、ソースは地元で作られているオタフクソースというのが一般的です。細かく云えば他にもたくさんソースはありますし、いろいろなソースを混ぜたりする方もいらっしゃいますが、それほど大きな違いはないかと思われます。その後、おこのみで青のり、かつお、マヨなどをかけて召し上がれとなります。

このお好み焼を作るうえで、その味を左右する最も大事なことは、各工程における焼き加減、つまり鉄板の温度と焼き時間かと思われます。

ちょっと饒舌になっちまいましたが、一応こんな風に焼かれておるわけです。

広島風は関西風に比べると、こんなふうにわりと手が混んでいて、引っくり返す時の緊張感もあったりしますから、基本的にはお店の人に焼いてもらって食べます。お店でプロの焼き手のテクを観察して、家に帰って自宅の鉄板で練習をして技を身に付けていくわけです。同じように、関西風は自分で焼いて食べれる店もありますし、こうやってお店で覚えた技や、材料に関する知識を、自宅で研究します。西の方ではたこ焼きを含めた粉物の製作体制が、どこの家庭でも整っているのです。

街でも家でも、そのようなメリケン粉環境の中で、私たち住民のメリケン粉摂取率は非常に高いと云えます。ジョコビッチのグルテンフリーダイエットとかは、ありえませんね。街中で四六時中、好きな時に食べられますから。高校の頃は、週に何度かは昼休みに学校の塀を乗り越えてお好み焼屋行ってました。ときどき生活指導に捕まって体罰くらったりしてましたけど、怯みませんでしたね。どこの高校も同じようなもんだったと思います。

ただ、不思議なんですけど、そのあと東京で暮らし始めた時、お好み焼のことは暫くすっかり忘れてました。何だか全く別の文化圏に来ちゃったような、外国で住み始めたような、思い出すと懐かしいんだけど、もうすでに諦めてるみたいなとこがあった気がします。

お好み焼文化圏に仕事で行ったり、旅したり、帰郷したりすると、なんか旧友に会ったような気持ちになるんですけど、それは東京で求めても仕方のないことと思ってるんです。多分、好物というよりも主食に近い感覚なのかもしれません。

 

ただ、そうこうしてるうちに、東京にもだんだんお好み焼屋が出来てきまして、広島風の店も今では普通にいろんなとこで見かけるようになりました。広島のアンテナショップに行けば、本場のソースもイカ天も手に入るようになり、家庭で地元と同じ味が再現できるようになりました。新幹線の移動時間がどんどん短くなるのに比例するように、お好み焼は益々近くに存在するようになってきます。

そうなったらそうなったで、東京のお好み焼屋に行くと、わざと割り箸を割らないで、小さなコテだけで鉄板からお好み焼を食べたりして、まわりの人たちが、それを珍しそうに見たりすると、いかにも、

「あ、わたし、お好み焼文化圏の人間ですので。」

みたいな顔したりするんですね。なに威張ってんだかなあ。

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2016年6月24日 (金)

永遠の嘘をついてくれという歌

ちょうど10年前、2006年のある日、録画したビデオを見ながら酒飲んでたんですね。それ何のビデオかと云うと、その年の9月にあった「つま恋2006」というコンサートで、主に吉田拓郎とかぐや姫が出ていて、8時間延々と歌ってるわけです。

どうしてこれを録画しようと思ったかと云うと、僕らの世代にはこの2006年のつま恋に繫がる1975年のつま恋の記憶というのがあってですね、31年前の8月に「吉田拓郎・かぐや姫コンサートインつま恋」というのが2日間にわたって行われたんですが、何だか覚えているのは、静岡県のつま恋に5万人もの人が集まって、相当大変なことになったことがあったんです。そんなこともあり、同世代としては懐かしさもあって見てみようと思ったんですね。

1975年に話を戻しますと、この時、吉田拓郎29歳。この人は1960年代からフォークソングの世界で台頭し始め、その後シンガーソングライターとして数々の曲を生み、多くのファンの支持を集めます。1972年には「結婚しようよ」が大ヒット。フジカラーのCM音楽も話題になり、1974年には「襟裳岬」がレコード大賞を獲りました。ちょっとメジャーになりすぎて、フォークの世界の方々からは軟弱だと批判や攻撃を受けたりしましたが、ともかくこの頃には、アーチストとしての地位を確立しておりました。

また、1969年にアメリカで「ウッドストックフェスティバル」という大野外コンサートが4日間も続けて行われて、「ウッドストック」という記録映画も評判になっていて、拓郎さんはそれ的なことやりたかったようです。

ただ、いくらなんでも一人だと、時間的にも体力的にも持たないので、仲間でもあり後輩でもあるかぐや姫を呼んだんですけど、実はかぐや姫はその4か月前に解散してまして、でも、なかば強引に連れてきちゃったみたいですね。

ただ、かぐや姫の「神田川」が大ヒットしたのが、1973年でしたから、解散したとはいっても、この頃のこの人たちは、全盛期と云ってよいと思いますが。

1975年て、私は21歳でして、つま恋には行ってませんけど、この方たちの曲はラジオやレコードでよく聴いております。

吉田拓郎さんがフォークの活動を始めたのは、地元の広島の大学生の時で、その頃私は中学高校と広島の子でしたから、ちょっと親近感もありました。フォークソングとは、みたいなことを語り始めると長くなりそうだし、よくわからないんですが、フォークの人たちは基本的に自作自演です。その前は、自分で曲作る歌手は加山雄三さんくらいでしたから、吉田拓郎は、フォークの世界から出てきて、シンガーソングライターと云うジャンルを作った草分け的な人でした。この人の歌にはいつもあるメッセージがありますが、それまでのプロテストのにおいがしたり、背景に学生運動を感じるフォークソングに比べると、それは自身の生き方だったり、恋愛的なものが含まれていたりしました。いつの間にかこの人のことをフォーク歌手とは云わなくなっていたと思います。

そんなことを思いながら、懐かしい吉田拓郎の歌を聴いてたんですけど、ある曲の途中で、突然、舞台の下手からスペシャルゲストの中島みゆきが登場してきます。会場も盛り上がりまして、吉田拓郎と二人でこの歌を歌い始めたんです。私、この時初めてこの曲を聞いたんですが、ある意味ものすごく二人の歌が胸に刺さったんですね。中島みゆき作詞作曲「永遠の嘘をついてくれ」という歌です。ただこれ中島さんが作った曲だとは思わなかったんです。なんか字あまりな感じとか、詩の中身も、見事に拓郎節になっており、ゲストの中島みゆきが吉田拓郎作の歌を歌ってるように思えたんです。

でもこの歌には歴史があってですね、「永遠の嘘をついてくれ」は、1995年に中島さんが吉田拓郎へ贈った歌だったんですね。

1994年頃、泉谷しげるの呼びかけでニュ-ミュージックの大物が集まったチャリティコンサートがあって、吉田さんはそこで中島みゆきの名曲「ファイト!」を弾き語りで歌ったんだそうです。その時吉田さんは、自分が歌いたい歌はこんな歌なんだと強く思ったといいます。この時期、納得のいく歌が作れていなかったのかもしれません。吉田さんは、1995年のニューアルバムのレコーディングの直前に、中島さんに会って、

「もう自分には『ファイト!』のような歌は作れない。」と云って、

異例中の異例のことですが、曲を依頼します。

中島さんは、あの1975年にデビューしています。歳は6才年下で、ずっと吉田拓郎の大ファンであり、音楽的にも多大な影響を受けました。この時、吉田拓郎からの依頼を彼女はどんな思いで受け止めたんでしょうか。

そして、吉田さんがバハマにレコーディングに出発する直前に、中島さんからの渾身のデモテープが届いたのだそうです。

そういうことを知った上でこの歌を聴くと、かつての自分のヒーローに対する中島みゆきの想いが、メッセージが、強くこの曲に込められていることが、よくわかる気がします。拓郎の歌がなければ、中島みゆきもいなかったかもしれないという気持ちが、そこにはあったかもしれません。

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作詞・作曲 中島みゆき  永遠の嘘をついてくれ

 

ニューヨークは粉雪の中らしい

成田からの便は まだまにあうだろうか

片っぱしから友達に借りまくれば

けっして行けない場所でもないだろう ニューヨークぐらい

 

なのに永遠の嘘を聞きたくて 今日もまだこの街で酔っている

永遠の嘘を聞きたくて 今はまだ二人とも旅の途中だと

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ なにもかも愛ゆえのことだったと言ってくれ

 

この国を見限ってやるのは俺のほうだと

追われながらほざいた友からの手紙には

上海の裏町で病んでいると

見知らぬ誰かの 下手な代筆文字 

 

なのに 永遠の嘘をつきたくて 探しには来るなと結んでいる

永遠の嘘をつきたくて 今はまだ僕たちは旅の途中だと

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ 一度は夢を見せてくれた君じゃないか

 

傷ついた獣たちは最後の力で牙をむく

放っておいてくれと最後の力で嘘をつく

嘘をつけ永遠のさよならのかわりに

やりきれない事実のかわりに

 

たとえ くり返し何故と尋ねても 振り払え風のようにあざやかに

人はみな望む答えだけを 聞けるまで尋ね続けてしまうものだから 

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ 出会わなければよかった人などないと笑ってくれ

 

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ 出会わなければよかった人などないと笑ってくれ

 

「永遠の嘘をついてくれ つま恋2006 中島みゆき&吉田拓郎バージョン」9‘15“

は、その後ipodに入れて、ときどき走ったりする時とかに一人で聴いています。何だか励まされて元気出る気がするんですね。自分にとって重要な曲と云うのが、いくつかあるもんですけど、この歌もその一つになっています。

ただ、世の中には似たような人がいるもんで、何年かして、ある飲み会の時にわかったんですけど、あの放送を見て、同じようにあの曲が胸に刺さってた人がいたんですね。古い友人のM子さんと云う人なんですけど、やはり同世代であります。

だよねだよねだよねえ、みたいなことになり、行きましたね、酔った勢いでカラオケ。

私が拓郎パート、彼女が中島みゆきで、唄ったわけです。

で、わかったことは、聴くのとやるのは全く違うことだということでして、

あたりまえのことですけど。

 

2016年6月 1日 (水)

CM出演いろいろ

テレビのCM制作と云うのを仕事にしていると、当たり前ですけど、一年中、身の回りでCMの撮影というものが行われておりまして、それはロケであったり、スタジオ撮影だったり、ものすごく遠くの国まで行ったり、ついそのあたりの会社の横の路地だったりするんですけど、多かった時は自分が担当している仕事だけでも、年間何10本も撮影したりしました。

被写体はというと、それはありとあらゆるものでして、CMですから世の中の商品と呼ばれるものは何でもですし、それを使用する人、摂取する人、語る人、等々。又、あらゆる風景、自然現象、動植物、創作物、等。ともかくカメラを向けて映るものであればすべてです。

撮影方法にも色々あって、基本的には三脚にカメラを固定して撮るのですが、相手が動けば、上下左右に振り回したり、カメラをレールの上に載せて移動したり、クレーンに載せたり、自動車やヘリに載せたりします。ハイスピード撮影というのは、撮った画がスローモーションになりますし、逆に微速度撮影というのは、何時間もかけて動く、たとえば花が咲くところなどを、何秒かのスピードに再生して観ることができます。

とかとか、一言で撮影と云っても、実にいろんなことをやっているわけです。

そんな中、様々なカットを撮っていく上で、その画の中に自分が出てしまうことがあります。わりと多いのは、手元カットというもので、何かを使っている時の手のアップ、何かを押す指のアップとか、まあ手に限らず、足だったり、身体の一部だったりするんですが、そういう場合はカメラの周りにいる誰かで間に合わせることがよくあります。相当その形に意味があったり、美しくなければならない場合は、ちゃんとした手タレさん足タレさんなどに来て頂くんですけど、それほどじゃないことも多いんですよ。

ただ、それを動かすには、けっこう上手い下手がありまして、だいたいスタッフは慣れているからうまい人が多いんですが、被写体としてフレームの中でカメラマンや監督がどう動いてほしいのかを理解して、そのように動けることが大事なわけです。

それと出演ということで、よくあるのが、群衆だったり通行人だったり、いわゆる背景とかに入ってくる複数の人々というものなんですね。これはエキストラと呼ばれる専門の方たちにお願いするんですが、その中に私たちスタッフが紛れ込むこともよくありまして、その場合は監督の狙い通りに背景の人々が動くように誘導を手伝ったりするんですけど、当然ながら、よおく見ると画面に映ってることはままあります。ただ、映っていると云っても、点のように小さかったり、大きくても一瞬だけで通り過ぎて行ったり、たいていの場合、完成したフィルムを見て、それが誰だかわかるような映り方はまずしないんです。

私、以前一本の30秒CMの中に、全部違う格好で4回出たことがあってですね、これはある街の朝の様々な風景を積み重ねたもので、たくさん人が出てくるんですけど、その中で私がやったのは、ラーメン屋の親父と花の市場で働く人とバスを待つサラリーマンと釣り人なんですが、誰が見ても同じ人間が4回も出てるとは思わないんですね。ただ、これを仲間や家族が見ると、私だと気づいて大笑いになるんです。これは、その監督に完全に遊ばれてるんですが、それくらい私達裏方がお手伝いで出演する時は誰だかわからないように撮られてるわけです。

まあ、たいていの場合がそういうことなんですが、稀に誰だかわかるように出てしまうことがあるんですね。

それは出演者として何らかのキャラクターを探している時に、全く無名な人でそういう雰囲気の人みたいな探し方になる事があり、なまじ芝居の経験がある人より、いっそ素人という選択肢になる事があります。そういう時、なんとなく候補になって、そのうち成り行きで出演者に決まっちゃうことがあるんです。私達裏方スタッフというのは、演技者としては完全に素人なんですが、撮影現場ということに関して云えば、非常に慣れていてですね、ヘタだけど上がらずにできるというメリットがあります。はなからあきらめてるから、変に上手にやろうとも思いませんし、そのあたりが適度な素人感が出てちょうど良いこともあるんですね。

世の中の演出家と呼ばれる人は、実に普段から身の回りの人のことをすごく観察してまして、それはその仕事の習性でもあるのですけれど。で、キャスティングに困ったりした時、急に思いもかけない人のことを思い出したりしてですね、これが意外となじんだりするから不思議なんですね。

何年か前に、突然ある監督からそのようなことで呼ばれたことがありまして、この方は現在たくさんいらっしゃるCMディレクターの中で、私が最も尊敬している大先輩でもあり、当然ながら二つ返事でやらせていただいたんです。

それはよかったんですが、これがものすごく目立つ役でして、お医者さんの役なんですけど、構成上、本物のお医者さんが出ちゃったみたいな素人っぽさが欲しかったんだと思うんですね。

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カメラマンもよく知っている方で、そのせいでもないんでしょうが、すごく大きな顔で映してくださり、しかもセリフありの長台詞でして、いっしょに出てる有名女優さんや有名男優さんよりもセリフが多かったりしたんですね。

参ったなあと思っていたら、完成したDVDをプロデューサーの方が持ってきてくださって、見せていただくと、恐ろしく私、目立っているわけです。しばらくして、テレビで放送が始まると、こういう時にかぎって、けっこうすごい放送量でして、たいていの人が見てしまうなと思われました。

恐れていることは、その通りになります。

マンションの郵便受けで新聞取ろうとしてたら、後ろから来た同じマンションのご主人が、この人、本物のお医者さんなんですけど、

「テレビ出てますよね。医者で。」と云われました。

当然、私が医者でないことはよくご存知です。

電話もメールもジャンジャン来ます。会社の近所の昼ご飯食べに行くところなどでも、かならず、

「見ましたよお。」などと云われ、

家族からはほんとに恥ずかしいと云って抗議を受けます。カミさんは、私が医者だと思い込んだ近所の方々に、いちいち言い訳するのが億劫だったようです。

私がときどき酒を買いに行く酒屋さんに、カミさんが買い物に行ったら、

「あ、そういえばこの前、先生が犬連れてみえましたよ。」と、おじさんに云われ、

『先生?あちゃあ。』

昔から我が家の自転車を一手にお世話して頂いてる自転車屋さんでは、

「そういえば息子さんそろそろ受験ですよね、やっぱり医学部ですか?」と聞かれ、

ああ、この方たちはあのCM見て完全に間違ってるとわかり、往生しておりました。

言わずと知れた名監督ですので、見事に本当の医者にみえるように完成されたわけです。お見事でした。

こういう仕事してると、習慣もあって気軽にフレームの中に出てしまいますが、時に大ごとになる事もあります。

それからまたしばらくして、近所の鮨屋に行ったら、やはりそのことを云われましてですね、、オヤジがいうには、その数日前に近所で私と仲良しの本物の役者が来たらしく、この人とは古い付き合いで、当然私の正体を知ってるんですが、

「なんだかんだ言って、あの人、出るの好きなんだよな。」と云って笑ってたそうです。

そうでもないんだけどなあ。そういうとこもあるかあ。 

2016年4月28日 (木)

火がある、酒がある、膝が笑う。

ちょうど2年前に、ここに書いたと思うんですが、会社の新入社員研修キャンプというのに連れていかれて、かなりきつい登山をさせられて往生した話だったんですが、このキャンプ、4月のこの時期に毎年やっているのですね、我社。

去年も誘われまして、ちょうど別の用件と重なっていて、行かなかったんですが、正直に云えば一年前の辛い記憶もあって、出来たら行きたくないなというのが本音だったんです。だらしないといえばそうなんですけど、でも、どっかでさぼっちゃったなというまじめな気持ちもあってですね、で、今年もそのキャンプがやってきたわけですよ。今年は別件もなく、俺、山登りしんどいから行きたくないとは、ちょっと言えない空気もありまして。

だいたいこのキャンプを取り仕切ってるボーイスカウト出身のO桑君と、転覆隊出身のW辺君にとっては、スキップで登れるほどの山だし、この合宿には外すことのできぬメニューなわけです。

「どうだろうか、皆が山から下りてきたところで、温泉で合流というのは?」

などと申してみましたが、二人とも一笑に伏せるだけでした。ま、ありえないですね。

目指す日向山(ひなたやま)は、標高1650m、キャンプ地からは登りっぱなしの約3時間です。登山隊構成員は、新入社員6名に、有志社員7名、車輛部の若者1名、私とゲスト隊員として加わったコピーライターのH川女史、その隊列の前後をW辺キャプテンとO桑キャプテンが固めるという布陣です。

きつい坂を登っていくとですね、だんだんと前方に若者たちがかたまってきて、なにやら楽しそうな笑い声が途切れない状態なんですが、私とH川さんは少しずつ離されていくんですね。これをO桑キャプテンが、シープドックのように私達が群れからはぐれないように、見張りながら行くわけです。登り始めた時は、私もH川さんも無駄口叩いて冗談飛ばしたりしてたんですが、ものの30分くらいで全く無口な人と化しておりました。

「ひなたやま」なんて可愛らしい名前だし、このあたりでは小学生が遠足で登る初心者向け登山だと、キャプテンたちは云うですが、初心者だろがなんだろが、つらいもんはつらいですよね。当然ですが、2年前より2歳年とってるわけだし、おまけに2年前は途中まで車で上がったけど、今回は下からだし、この今回増えた行程が特にきつくてですね。膝が笑うと云いますが、よく云ったものだと思いましたね。その一週間前に、宮古島ゴルフ合宿というのに行って、3日で4ラウンドというバカなことしてきたせいもあるんですが、ほんとに膝が大笑いしておりました。いや、きつかった。

ただ、頂上をとらえた時の達成感というのが、登山というものの醍醐味なんでしょうね。この頂上からの景観がほんとに素晴らしいのですよ。全員で記念撮影しまして、そのまま私は地べたに突っ伏して倒れました。これも2年前と同じだったと思います。

しかし、若さというのは果てしないですね、突っ伏した私の横で、新入社員たちは何度も何度もジャンプしながら山バックの写真を撮り続けております。何なのだ、あのパワーは、と思いながら、考えてみますと、私より40才年下なんですから当たり前といえば当たり前ではあります。年齢差40って江戸時代なら孫ですよ。

このあと膝は笑いっぱなしで、私は風林火山の山本勘助のような歩き方で、山道を降ります。どうにかこうにか温泉に着いて、ふやけるほど湯につかり、疲れ切った身体にゴクゴクと生ビールを入れたあたりから、おじさんは徐々に蘇りますね。やがて、薪に火がつけられキャンプが始まりました。そおなんです、このカラカラ、クタクタ、スカスカの状態に、酒と肉を注入するのです。酒池肉林です。オリャーー。

私は、このためにやってきたのだぞ。そして、あのつらい山登りもそのためだったのだ。俄然、元気が出てきます。そのあたりは、山では無口だったH川女史も、私と同じ考えだったようです。すでに焚火を囲んで、持参した酒を皆にふるまってニコニコ元気におなりになってます。

私達がいつもキャンプしてるこの場所は、薪で焚火ができる今や数少ないキャンプ場でして、O桑君は薪で肉を焼かせると天才だし、私はこの焚火を見ながら呑んでいればいつまででもそうしていられるくらい焚火のことは好きなんですね。昔から、焚火見ているとなんか安らかな気持ちになるというか、落ち着くんですよね。原始人のDNAなんでしょうか。

そういうことで、30代とか40代の頃に、自分でキャンプできるような人になれるといいなと思って、いろいろ本買って勉強してわりと詳しくはなったんですけど、ようく考えてみると、あれだけのことを労苦をいとわず一人でやりきる勤勉さはないかなということに気付きまして、それからはキャンプも別荘ライフも、もっぱらどなたかのところに寄せていただくというパターンになっております。それなので、この場所でずっと焚火を見ていられるこのキャンプは大好きなのですが、あの日向山とセットというところが、やや躊躇するとこではあるんです。

毎回、究極に疲れきったところに酒が入ってきて、肉がジュージューいって、火に癒されるのが、決まり事ではあります。

この新人研修キャンプというのは誰が考えたか、よくできていて、2泊3日のキャンプを仕切るうえにおいて、人々の移動から考え、色んな道具をそろえ、食材を仕込み、酒を考え、薪も準備し、進行も考え、設営し、撤収し、自分達ですべて完成させるというのは、確かにいい勉強になるんだろうな、これからの仕事をやるうえで、と思いますね。

私が個人的に、この研修でいつも思いいたるのは、あの辛い辛い山登りの後、あの天国のような夜が来るという、人生、苦しいあとには、いいこともあるよという教訓のようなものなんですが。

でも、若者たちはあんまり登山はこたえてなかったから、しみじみそんなこと思ってるのは、私だけでしょうが。

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2016年3月17日 (木)

断酒・その後

報告ですが、2月1日から29日までの1ヶ月、何とか禁酒することに成功しました。

出来るかなあと思っておりましたが、途中で挫折することもなくです。終わってみると、へえ、意外とやれちゃうもんだなあと思いましたが、やっぱり1ヶ月は長かったですね。

ひと月ぶりに飲む酒は、確かにうまかったし、同志AZさんと健闘をたたえあった酒は10時間にも及びましたが、なんか特殊な暮しから、もとの暮らしに戻ったようなことで、意外と淡々としたものではありました。

やめてる間は、なるべく酒のことは考えぬようにして、夜、人と会食することは極力避け、酒が飲みたくなるような食べ物も極力避けて、過ごしておりました。

飲まないと、眠れなくなるんじゃないかという心配があったんですけど、それは杞憂でありまして、むしろよく寝れて身体も休まり、とりたてて禁断症状に苦しむということはなかったです。

ただ、日が暮れると酒呑みたくなるのは、長年の条件反射でして、それをあえて当り前のように飲まないでいるというのは、けっこう大変なことでしたね。なんかこう、間がもたないわけですよ。普段、いかに酒呑みが、酒呑んで時間をつぶしているのかがよくわかります。これにかわる新しい過ごし方がすぐに見つかるのでもなく、飲まなきゃ晩御飯もすぐに終わっちゃうし、急に夜の街を走るというのもなあ、この時期寒いしなあ。やはり月並みですけど、本を読んだり、映画を観たりということになるのかな、と思ったわけです。

そこでいろいろと、本屋を物色したり、アマゾンで注文したり、映画をipadに取り込んだりと、準備はしておりました。でも、映画観るのも、本読むのも、その気になればわりと早くできちゃうし、なんか、冬眠する時に食糧ため込むような気持ちになると、1ヶ月ってずいぶん長く感じるんですよね。

そんな時、ふと、そうだ「鬼平犯科帳」 24巻だ。と思ったわけです。まあいつかは読もうと思ってはいたんですけど、この小説は1967年から1989年まで連載されたもので、全135作ありまして、かなりの分量は分量だし、きっかけがないままだったんですが、この断酒1ヶ月にはうってつけだなと。

で、「鬼平犯科帳」ですが、おもしろいです。さすが、長きにわたって多くのファンを持つこのシリーズ、エンタテイメントとしてよくできてるんですよ。一話一話は文庫本が50ページくらいで完結してるんですけど、お話はいろんな要素が微妙につながっていて、ひとつの世界ができております。実に様々な登場人物が出てくるんですけど、それぞれにきちんとキャラクターが描かれており、何だか似たような話かなと思うと、全然違っていて、意外な展開が待っておりまして、池波正太郎先生、成るほど達人でいらっしゃいます。

あれよあれよという間に、10巻ほど読んでしまいまして、まだ14巻もあるのですから、これはなかなかに、良い思いつきだったんですが、ただ強いて言うと、ひとつ問題がありまして、ここに出てくる長谷川平蔵さんはじめ、この江戸の街の人たちが、けっこう酒好きなのですね。そして、実にうまそうに飲むんですよ。ストーリーの中で、よく張り込みをしたり、密会したり、待ち伏せをしたりするんですけど、そういう時、実に都合の良い場所に居酒屋や屋台や蕎麦屋があります。それと長谷川平蔵の役宅に人が訪ねてくると必ず酒を出しますねこの人。そういうシーンで、別段、贅沢なもんじゃないんですけど、ちょっとした肴をあてに飲む酒というのが本当にうまそうで、禁酒してる身にはこたえるわけで、その都度閉口しておりました。

そういうせいでもありますが、同志AZさんと、断酒明けはどこで何を飲もうかという話になった時に、

「昼間から蕎麦屋で、野沢菜に炙った鴨で、冷や酒。」

ということになりました。人の欲望は、わかりやすいです。

 

ただ、私的には1ヶ月の禁酒というのは、大変なことだったわけで、その成果というのが知りたくて、人間ドックを受けたクリニックに行って再度血液検査してもらったんですね。そしたら、禁酒した効果は確かに出ていますが、根本的な問題は解決されてないので、引き続き節制してくださいとのことでした。

考えてみると、そりゃそうだよな。この何10年にも及ぶ不節制に対して、たかが29日間酒やめたからって、物事が画期的に変わるということもないですよね。

そして、この1ヶ月の体験が何をもたらしたかというと、一応酒やめることは、いざとなればできるかなということと、とにかく、ただの習慣だけで毎日酒飲むのはやめたほうがいいなということだったでしょうか。

初めての経験ではありましたが、自分はやはり酒が好きなんだなということも、よくわかりました。ただ、いい歳なんだし、身体のことも考えて、これからは酒といい付き合いをしなきゃと、ちょっと殊勝なことを思ったり、少しそういうこと考えたわけですね。

 

しかし、長谷川平蔵は、歳のわりに飲みすぎとちゃうかなあ。

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2016年2月18日 (木)

断酒

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どういうわけか、2月の1ヶ月間、酒やめることになったんですね。

きっかけは、昨年末の人間ドックで、腸にポリープが見つかりまして、2月の初めに切除することになり、内視鏡でやるんですけど、そのあと自宅で1週間ほど大人しくしてなきゃいけなくて、まあ、その間酒飲んじゃいけないわけです。

ので、禁酒の予定は1週間だったんですが、そのまま1ヶ月酒を断ってみないかと、ある方からそそのかされたんですね。その人はAZさんと云って、今はリタイアされてるんですが、かつて広告を制作されていて、伝説のCMプランナーと云われた人なんですけど、私が昔から尊敬してる先輩で、今は酒飲み仲間なんです。

AZさんは2月に酒抜くことにしたみたいで、どうしてそういうことしようと思ったのか聞いてみたんですが、この方、最近お医者さんのお友達が多くて、かなり人間の身体に関しての医学的知識を身に付けられてまして、まあ、もともと知識には貪欲な方なんですけど、こんなふうに云われるわけですよ。

「お互い60年以上生きてるわけで、その間、人間の内臓というのは、休みなく働き続けてるんだよね。寝てる間もです。そこに、毎日のように酒を飲み続けてきたのね。彼らにしてみたら、勘弁してほしいわけですよ。ここに来て1ヶ月くらい酒をやめてあげると、ずいぶん長年の疲れが取れるんじゃないかと思ったわけよ。」

「じゃ、なんで2月にしようと思ったわけですか。」

「それは、一年のうちで2月が一番日数が短いじゃない。」

「はあ」

「実際それやると、かなり内臓の機能は回復するみたいよ。」

と。

それで、もう一つ思い出したことがあって、1月にある人から年賀状が来たんですが、この人も業界の大先輩で、音楽プロデューサーのA田さんというんですけど、“ちょい”じゃない悪オヤジで、昔から、飲む打つ買うの三拍子の人なんですね。で、年賀状の文面ですが、

「元気でお過ごしですか。

私、昨年末にめずらしく体調を崩し緊急入院。

16日間の絶食と点滴生活・・・・・。

おかげで血圧と体重が正常値に戻った。

おまけに“有馬記念”も的中と大忙し。

現在リハビリの毎日です。

2016年 健康で平和な良い年であります様に。」

とありました。あまり反省は感じられないのですが、良かったです。そういえば、この人、今まで酒切らしたことなかったと思いますよ。

 

確かにそうです。習慣ということもありますけど、もうずいぶん長いこと酒飲み続けてますもんね。

ちなみに、貧乏であんまり飲めなかった学生時代を除いて、続けて酒を抜いたことがどれくらいあったろうかと、思い出してみたんですが、

昔、ソルトレイクってところで、CGの制作をしたときに、連日徹夜になったのと、この街の多くの人が入信している宗教の宗派が、酒飲んじゃいけなくて、どこに行っても酒が置いてなかったことがあって、この時、多分5日間ほど飲めなかったのが最長だったんじゃないかと思うんです。

そんな私がですよ、一カ月も酒を抜くことができるのだろうか。2月に入って、2週間ほどが過ぎましたが、私もAZさんも今のところ挫折してません。禁断症状とか出るとやだなと思ってたんですが、そう決めてしまうと意外と大丈夫で。まだ油断はできないですけど。

ともかく、それなりに長く生きてきて、何だってこんなに酒と切っても切れないことになってしまったのか。物心ついてから、どうして酒を飲み続けているのか。納得していただくに、有効な理屈はこれと云ってございません。

「酒呑みの自己弁護」という、山口瞳先生の名著がありますが、痛く共感したのを覚えております。

酒呑みというのは、「ちょっと一杯やるか。」という呼びかけに、無上の悦びを覚えます。ちょいと気の利いた肴でもあれば、この上ないです。そして、言ってみれば、いつまでも飲んでいられます。それが、気の合う仲間となら最高ですし、ある意味、たいていの場合、誰とでも、二人でも三人でも大勢でもいいし、一人でももちろん、かまいません。

酒には、嬉しかったり楽しかったりする気持ちを増幅する作用があり、盛り上がるとドンチャン騒ぎにもなります。ただ、不機嫌だったり、哀しかったり辛かったりする気持ちも増幅されますので、ちょっと良くない酔っ払いになる事もあるんですが。それに、適量を過ぎると、わりと、しばしば過ぎる傾向にあるんですが、迷走することもあります。

ということで、酒が人生にとって、どうしても必要かというと、そんなこともなく、プラスになる時もあればマイナスの時もあります。トータルで云えば、どっちもどっちと云うことでしょうか。でも、飲んでしまうんですね、習慣的に。

昔、この仕事を始めて、間がない頃、あこがれの鈴木清順監督があるビールのCMを作られたときに、制作進行で付かせてもらったことがあって、もう、そばにいれるだけで、ただ幸せだったんですけど、何だか心に沁みるいいCMだったんですね。

焼鳥屋のカウンターで、大人の男が一人(高橋悦史さんなんですけど)ビール飲んでるだけなんですが、その店の壁に女の人の絵があって、ふっとその絵を見るみたいな話で、そこにナレーションが入って、

「酒、煙草、女、ほかに憶えし事もなし・・・」 って云うと、

トク、トク、トク、とビールが注がれるわけです。

駆け出しの男としては、なんかいいよなあ、男だよなあとか思ったわけですよ。

つまり、この頃すでに、私の価値観には、男の人生には酒というものが組み込まれてるんですね。そして、ずっと組み込まれたままなんです。

煙草はやめれたんですけど、だから酒もやめられるんじゃないかと云うと、それとこれはちょっと違う気がしますね、やはり。

酒やめたら、もしかしたら、健康診断の数値が良くなって、健康になって長生きできるかもしれないけど、別の意味での健康を損なってしまうかもしれない。世の中には、酒を飲めない人も、酒が嫌いな人もいて、そういう人でとても仲良くしている人も結構いるんですけど、自分が酒と縁を切る事は出来ないんだろうなと思うわけです。

私なりの、なんの説得力もない自己弁護ではあります。

ということで、一ヶ月間、断酒できたとして、そのあと画期的に人生が変わるとは思えないのですが、ともかく、見たことのない景色を見てみようと云う、未踏域への冒険のような気持ちでいるわけです。

大げさですけど。

 

 

 

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