2017年11月28日 (火)

風が吹いても痛い病

この歳になって仲間が集まると、まず始めの30分から1時間くらいは、病気とその治療の話になるんですね。それほど深刻な話は出ないけど、まあ当然ながら、身体のあちこち弱ったり傷んだりしてくるわけで、経年劣化というか自然の流れなんです。

そんな中で、けっこうな痛みを伴うのに、あんまり人から同情されない病気というのがあって、いわゆる「痛風」なんですけど、これ同情されないどころか、ともすると失笑苦笑の対象になったりします。何故かと云うと、この病気の原因は、いわゆる暴飲暴食とか、不摂生とか云われていて、酒のみが好きな高価な食材をたくさん食べた時に起こる贅沢病であると、世間からは思いこまれているもんで、発病しても基本的には自業自得でしょと思われちゃうんですね。

その痛風持ちである私としては、ちょっとそれには異議を唱えたいところもあるんですけど、大まかには当たっておるわけなんです。

たとえば、身体丈夫であんまり病気したことなくて、ただ不摂生を繰り返すことで起きる病であれば、あんまり同情されないし、おまけに、「いたたたたたたあ」となると、むしろ滑稽にすら映るんですね。たしかに誰かが発病したという話を聞けば、同情する気持ちもあるけど、かなり興味本位に状況を知りたがるとこはあります。白状するとですね。

どういうふうに痛いかという話なんですけど、多くの場合、それは足首から先のどこか、親指の付け根とか、くるぶしとか、その時によって、その人によって、微妙に違うんですけど、足首の先のどこかに激痛が走るわけです。そして多くの場合、そこが腫れあがります。

それは、風が吹いても痛いというたとえで、この病名が付いたくらい痛いわけですよ。

私事で恐縮ですが、私はたしか40歳くらいの時に、東北の山奥で仕事でロケをしていたときに、初めてその症状が出たんですが、朝からだんだん痛み出した左のくるぶしが尋常でないことになってきまして、椅子から立ち上がれなくなったんですね。周りにいる人たちは撮影中なんで、みんな気が立ってますし、誰もそんなことに気付く人もなく、どうにか傍にあった照明用の機材の棒を杖にして、

「ちょっとひどく足くじいたみたいなんで、病院に行ってくるわ。」

みたいなこと言って、脂汗流しながら車までたどり着いて、幸い右足は痛くもなんともないので自分で車運転して、山の麓の診療所まで行ったんですね。そこのお医者さんは、ただ足首が腫れあがってるんで、捻挫だと思って、丁寧に湿布してくれたんですけど、どう考えても捻挫した憶えもないんですね。その後何日か山の中にいて、毎日酒も飲んでたんですけど、痛いには痛いんだけど、だんだんそのピークは過ぎたみたいで、帰る頃には腫れも少し退いてきたんですね。ただ気になったもんで、東京に帰ってから、年に一度の健康診断してもらっているお医者さんに電話して症状を話したら、

「ああっー、それ、痛風だな、ムカイさんの尿酸値の数値なら、間違いないですねえ。」と云われたわけです。

ここで解説しますと、この先生がおっしゃった尿酸値というのは、血中のある値で、この数値が危険域を超えると、血液中に結晶のようなものができて、これが鋭く尖ったコンペイトウみたいな形をしてまして、どうも足のあたりの血管の中で引っ掛かることによって、血管壁がダメージを受けて炎症を起こし、周囲の神経組織を刺激することで、激しく痛むということらしいのです。

この解説が、専門的に相当いい加減であることはご容赦いただくとして、まあそんな感じなわけです。

じゃなんで、この尿酸値が上がるのかというと、プリン体という成分が多く含まれた食物を多量に摂取すること。たとえば各種レバーとか、白子とか、アン肝とか、カツオ、イワシ、エビだとか、いかにも酒のみが好きそうなものたちを肴に深酒して不摂生してると、覿面と云われています。

そんな事なんで、酒ばっか飲んで、うまいもん食って、遊んでる奴がかかる贅沢病とか云われていて、世間からの同情が薄いんです。

ただ弁解を少しすれば、この病気の原因の一つには、遺伝の影響ということもあって、極めて体質的な病気とも言えるんですね。たとえば、女の人はどんな酒飲みでもかかりませんから。

で、私の周りを見渡すと、結構お仲間はいてですね、私が発病した時も、すぐに相談に乗って下さる先輩は、いろいろいらしたんですね。そして、この痛風にまつわるエピソードというのは、気の毒なんだけど、なんだか小さく笑ってしまうものでして、そういう話がいくつもあるんですが、ためしに一つ紹介しますと。

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ずいぶん昔の話なんですが、私の大先輩のY田プロデューサーと、クライアントで出版社のS社のN川さんの話なんですけど、当時、このN川さんはまだ20代であったにもかかわらず、痛風を患っておられ、その日は家で脂汗かいて寝てらしたんですね。そこに、札幌にいるY田さんから電話がかかるんです。携帯もない時代だから仕方ないんですけど、自宅にかかる電話ってかなり、緊急を要するもんではあって、N川さんはなんだろうと思い、2階で寝てたから、痛い足を引きずりながら死ぬ思いして、長い時間かけて階段下りていったそうなんですよ。そしたら、

「あ、どうも、仕事は問題なく進んでます。ところで、今、すすきの大通りにいるんですけど、先週N川さんとロケハンした時、一緒に行ったキャバレーなんですけど、あれ、どの角曲がるんでしたっけ?」

という明るい電話だったそうで、N川さんは静かに受話器を置いたそうです。

云ってみれば、N川さんにとってみれば、災難なんですけど、この話何回聞いても笑ってしまうんですね。

その後、Y田先輩も、見事発病され、私もそうなり、今は、3人で一緒にお酒飲んだりしてますが、どうもこの痛風にまつわる話は、笑える話が多いんですね、なんでなんですかね。

ただ、なめていると大きな病気につながってしまうこともありますよと、主治医からは云われておりまして、

皆さん、体質改善に節制をしなければならんのです、実は、、まじめに。

 

 

 

2017年9月 6日 (水)

バイトに学んだこととか

この春頃から、うちの会社の採用に応募してくれる学生さん向けに、会社のこととか、この業界で働くこととかについて、月2くらいで会社のFacebookにコラムみたいなもの書いてたんですけど、、自分の息子くらいの年齢の若者に何か書くにあたって、自分が若い頃のことを思い出したりしてたんですね。

ただ、考えてみると、私の場合、あの時期ほとんど就活ということをしてなくて、今の仕事に就いたのも、本当にひょんなことで、アルバイト始めたことがきっかけだったんですね。そういうことを思い出したんですけど、この仕事のアルバイト始める前にも、学生のときには、結構いろんなバイトやった気がします。

大学一年の夏休みに、どっかでバイトして金貯めようと思って、学生の夏休みのアルバイト紹介所みたいなところがあって行ってみたんですけど、北海道とか軽井沢とかで、ひと夏働くコースとかあって、なんかいいなと思ってたら、結局、炎天下の大森の工場で3週間ていうコースになってしまい、これが、いや、暑かったんですわ。

鉄工所の雑役工という仕事で、一日中、荷物運んだり、ハケで塗料を塗ったりヤスリかけたり、工場の中は一切冷房とかなくてサウナ状態。始めた頃はとにかくクタクタで、工場街の定食屋で食べる昼飯もどんぶりのメシ食えなくて残したりしてました。ただ、だんだん慣れてきて、多少仕事になってきたんですけど、それはただ要領が良くなっただけのことであって、工場の死角でさぼってるとこ見つかっては、どやされて追い立てられたりしながら、毎日どうにかこうにか定時まで働いたわけです。

この工場には当然プロの工員さんがちゃんといるんですが、その中には僕らよりぜんぜん年下の少年たちもたくさんいて、彼らは一年中働いてるわけで、僕たち学生さんは甘っちょろいなということも、痛感せざるを得ないんですね。でも、逃げ出したい気持ちを押さえながら、予定の日数が終わってバイト料もらってから帰郷したんですけど、なんか不思議な達成感はあったんですね。

それから、ここに書ききれないくらい、いろんなバイトやりましたね。家庭教師は柄じゃないからやんなかったけど、なんか、いずれ楽で効率の良いバイト探すんですが、そんな都合のいい話はなかなかなくてですね。働きに対して報酬はどれもまあ妥当なわけです。それより、働いてるといろいろ面白いこともあり、それなりのやりがいもあったりして、なんか楽してるわりに、ずいぶんお金もらった仕事もあったけど、そういうのはちょっと気持ち悪いわけですよ。やっぱ額に汗しなきゃ仕事じゃないんだよなみたいな、殊勝なこと思ったりするわけです。

多少割がいいのは、運転の仕事で結構やりました。車の免許でも、あればそれでちょっと有利だったりするんですね。おかげでずいぶん道は憶えましたしね。

食べ物屋もいろいろありまして、ある時期、友達とローテーション組んで、自由が丘で焼き鳥焼いてたことがあって、当時、私ガリガリに痩せていて、吉田拓郎の“結婚しようよ”のせいじゃないけど、髪の毛が肩より下まで伸びてて、髭も伸び放題で、ちょっと十字架のイエスさまな感じだったもんで、よく酔っ払いの客から、

「おい、キリスト、3本焼いてくれ。」とか、

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「キリスト、一杯おごるぞ、飲め。」とか、

「キリスト――!モツ焼いてくれい、モツ。」とか云われて、

「ちょっと、お店にキリスト関係の方いらしたら困るからやめて下さい。」とか云ってましたが。

あと、一番長くやったのが、デパートのお中元とお歳暮の配送なんですけど、夏と冬に約一カ月ずつなんですが、毎日軽トラに満載した100個~200個くらいの荷物をさばくわけです。私の担当地区は、一ツ橋、神田神保町、九段、富士見町界隈が主だったんですが、たまに丸の内の官庁や大企業のビル街とかに行くことがあって、ただ私の恰好は、一見すると、明らかに過激派学生なもんで、そこらじゅうで職務質問されて、全く仕事にならないんではずしてもらったこともありましたね。ただ、仕事って長くやってると上達するもんで、数年やったら、その配送所では私より仕事を早くこなせるバイトはいなくなって、新米の倍のスピードで仕事上げてましたね。だから稼ぎは良くてですね、半年間でできる借金は全部このバイトで返してましたから。自慢になりませんけど。

このバイトが良かったのは、荷物を届けた先の人が、個人でも会社でも必ず喜んでくれることで、贈り物がきていやな顔する人いませんしね。何か今でも覚えてるちょっと嬉しかったことが何件かありましたね。

そんなふうに、働いてお金稼ぐのは、どんな仕事でも大変なんだなということを教わったり、働いてると結構いろんな人に会って、東京にはほんとにいろんな人がいるんだなあというのも面白かったし、ためになった気がします。

アルバイトは、大人になって働く前の入り口の練習みたいなところがあるけど、仕事に楽なことはないし、簡単なものもないこともわかり、でも、やってると意外に楽しいこともあることも色々わかって、プロになるということを、ほんの少しだけ学習できる場かもしれんなと思ったわけです。

そんなこと思いながら、、これから社会に出て働く若者たちには、この先、仕事にまつわるいろいろな泣き笑いを経験しながら、いろんなプロになってくんだろなと、なんか応援したい気持ちになったんだなこれが。

 

2017年6月20日 (火)

MANCHESTER BY THE SEA

先週、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」という映画を観たんですけど、久しぶりに何かが心に残ってしまう映画だったんですね。いい映画みたいですよという周辺の評判を聞いてから行ったんですけど、最近なかなか自分から映画館に行ってみようと思うことが少なくなっており、それは、自分の年齢と、世の中の映画の配給が合ってなくなってるせいもあるんでしょうが、昔のように、ちょっと思いつきで観てみようかということに、消極的になっているところがあります。東京で公開されてる映画の本数は決して少なくはないから、実はいい映画を見落としているかもしれないですけどね。

古い友人で脚本を書いているF田さんに、この映画を観たことを云ったら、

「見ました、見ました。近頃の映画の中ではマトモな方だと思います。『ラ・ラ・ランド』なんかも、ア・ラ・ラ・ランドやもんねえ。映画も文学も世界的に幼稚になってしまいました。」

などと、厳しいことをおっしゃってましたけど、たしかに、想像の範囲を越えてこちらに踏み込んでくるような映画体験というのは減っているのかもしれんですねえ。まあ、おっさん達は、長いことさんざん映画観てきてますから。

この「マンチェスター・バイ・ザ・シー」という題名は何だろうかと思ったら、地名なんですね。ボストンの近郊の海に面した町で、ボストンの裕福な人のリゾート地であり、ブルーカラーの人々が多く働いている町なんだそうで、なので、この題名は日本で例えると、「横須賀ストーリー」とか「鎌倉物語」みたいなことかもしれません。

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物語は、ボストン郊外でアパートの便利屋として働きながら、たった一人で暮らしている主人公のリー・チャンドラーと云う男が、生まれ故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに帰ってくるところから始まります。彼の兄のジョー・チャンドラーが病気で倒れ、リーが到着する1時間前に息を引き取るんですが、、ジョーが残した遺言には、ジョーの息子の、リーにとっては甥にあたる16歳のパトリックの後見人にリーを指名してあったんです。兄は弟をこの街に戻したい意図があるんですが、リーは、この街に本当につらくて重い過去があり、ここに戻ることはできなくて、甥を連れてボストンに帰ろうとします。

一方、パトリックの方は、この街で友達にも恵まれ、バンド活動やホッケーをしながら、二人の女の子を二股にかけたりして高校生活を楽しんでおり、また、父が残した船を維持しながら、この街で暮らすことを考えています。

映画は、このかみ合わない二人を追いながら、つらい過去のことや、周辺の人々も描きながら進んでいきます。この映画の脚本は本当によく練られていて、その精度が実に素晴らしいんですね。主演のケーシー・アフレックが、

「物語や場面、登場人物の関連性に矛盾点がまったくない素晴らしい脚本があったから、僕は迷わずに信頼して進むだけだった。」と云ってます。

脚本を手掛けたのは、ケネス・ロナーガン。そもそも、この映画はプロデュース・監督・主演を、あのマット・デイモンが務める予定でした。そこで、彼が脚本家として絶大な信頼を寄せるケネス・ロナーガンに脚本を依頼したんだけれど、デイモンのスケジュールが合わなくなって、結果的には監督もこの人がやることになり、主演は、デイモンの親友のベン・アフレックの弟であるケーシー・アフレックということになります。いろんな偶然が良い化学反応を生んだこともあったかもしれないけど、マット・デイモンは「力ある役者と脚本、そしてケニーの演出によって、この映画は忘れられないものになった。」と語っています。脚本も、演出も、そして、主人公リーの孤独と悲しみを体現したケーシー・アフレックの渾身の演技も、見事に実を結んでいます。

加えて言えば、パトリック役のルーカス・ヘッジズも、リーの元妻役のランディを演じたミッシェル・ウイリアムズも、様々な役者やその設定も、この映画にとって、みなプラスに働いていたと思えます。

 

ただ、この映画は、観る者を、救いや解決に向かわせることをしません。主人公がつらい気持ちから解放されたり、再出発したり成長したりするわけではなく、ある意味何も変えられない。本当に大事な何かを失ってしまった時、その悲しみから逃れることはできないし、人は出口を見失います。そんなことを思わざるを得ない映画なんだけど、でもなぜか観る者を孤独にはしないんですね。

だから観終わって元気が出るわけじゃないんだけど、ちょっとだけしみじみ祈るような不思議な気持ちになる。でも、いい映画だったのです、なんか。

2017年4月19日 (水)

「牯嶺街少年殺人事件」という映画

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この前、会社で集まって飲んでたんですけど、その時のメンバーが、普段忙しくてなかなか集まれないクリエーターの人達でして、実に面白い話が続いたんですけど、その中で、最近Tさんが観たある台湾映画の話になりまして、これがともかくすごい映画らしくて、Tさんの話を聞いていると、これ絶対にみんな見とかなくちゃということになったんですね。

「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」と云うこの映画は、1991年にエドワード・ヤン監督によって発表され、マーティン・スコセッシやウォン・カーウァイらが絶賛し、映画史上に残る傑作として評価されたんですが、版権の問題だったのか、日本では初上映以来25年間DVD化もされず、その間、全く見る機会を失っておりました。私などは、この映画でデビューした主役の少年が、今やアジア映画の大スターであるチャン・チェンであったことすら知らなかったほどです。

しかし、この度、エドワード・ヤン監督没後10年にあたり、4Kレストア・デジタルマスター版となり、又、本作完成時のバージョンである3時間56分版として、日本で上映出来ることになったんだそうです。

そこで、ちょっとあわてて観に行きました。東京都区内での上映は2館、それほど大きくない映画館ですが、知っている人は知っていて、ほぼ満席です。そして、さすがと云えばさすが、これは期待にたがわぬ傑作でありました。ただ、今までに観てきた名作映画ともすこし違っていて、それはちょっと新しい映画体験でありました。

3時間56分という長さは、かなり長い映画の部類になります。ちょっと思い出しても、長い映画と云えば、「アラビアのロレンス」3時間27分、「七人の侍」3時間27分、「ジャイアンツ」3時間21分、「風と共に去りぬ」3時間51分、「黒部の太陽」3時間16分、「ラストエンペラー」3時間39分、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」3時間25分とかとかあります。ただ、今回のこの映画は、長いということの意味が、ちょっと違うような気もします。

長い映画には、出演者が多いという傾向があります。そのたくさんの登場人物たちが、たくさんのエピソードを作って、それがストーリー全体をダイナミックに動かしていくという、いわゆる大河ドラマ的スタイルになってるんですね。

この「クーリンチェ少年殺人事件」も、そういうところがないわけじゃないのですが、そのたくさんのエピソードが、直接ストーリーを動かしているというよりは、この映画全体の背景の空気を作っているところがあるんですね。そういうことだから、ひとつひとつの場面を全部おぼえておかなくても、ストーリーを追う上であんまり大きな影響はないんです。

監督は、自ら少年時代に過ごした台湾社会の空気の息苦しさをを再現し、この映画にリアリティを持たせるため、100に及ぶ人物キャラクターを設定し、そのすべてに来歴と、物語が終わって以降どうなるかについての、膨大なバックストーリーを制作して、300話分のTVシリーズができるくらいの物語素材を開発したそうです。

そのことが、登場人物達の不思議なリアリティと、長い時間見ているうちに物語の中にぐいぐいと引っ張りこまれていく、この映画の力になってるのだと思いますね、間違いなく。

映画としての設計図の企みはできたとしても、実際に映像として定着させる上で大きな壁だったのは、出演者たちの多くが未経験に近い少年少女たちであり、彼らの演技指導に一年以上費やさねばならなかったこと、また、スタッフの60%以上、キャストの75%がこの映画でデビューを飾るという現実は、製作に3年を要するということになっていきます。

エドワード・ヤンという監督が、この映画に注いだエネルギーというのは、冷静に想像するに、ちょっと計り知れないところがあります。 

映画は、主人公の小四(シャオス―)一家と、ヒロインの小明(シャオミン)を中心に、多くの登場人物と出来事を折り込みながら、むしろ淡々と進みますが、観客は気が付くと、この映画の中に徐々に入り込み、様々な記憶を共有してゆきます。そして、やがて、主人公たちと共に、最後の事件に遭遇することになるんですね。

たしかに長い映画ではあるんですけど、見終わったあとで、この映画のあらゆるシーンは、すべて必要であり、この長さには意味があるんだなと感じさせられます。

そして、自らやり遂げると決めた仕事を、妥協せずに最後までやりきった、今は亡き 

エドワード・ヤンという映画監督に敬意を表したいと思いました。

 

ともかく、遅ればせながら、観ておけて良かった映画でありました。

2017年3月30日 (木)

学芸大のBAR「一路」のこと

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東横線の学芸大学駅から2~3分のところに、「一路」という名前のカウンター7席程の小さなバーがあります。ここのマスターが良川さんと云いまして、かつて六本木の伝説のBAR「BALCON」のマスターだった方なんですね。

いつ頃のことかと云えば、1970年代の途中から、2004年の春まで、約30年続いたBARでして、私も70年代の終わり頃から店を閉めるまでお世話になりました。まあ、お世話になったというか何というか、私の場合、このBARに棲んでるんじゃないかみたいな頃がありまして、携帯電話もない時代、

「あいつなら、たいてい夜中にBALCONにいるよ」

と云われてて、ここに伝言残しとくと私がつかまるので、よく電話がかかった時期がありました。

六本木通りの明治屋の裏あたりだったんですけど、優に30人は入れるBARで、夕暮れから翌朝近くまで、毎晩、大いににぎわっておりました。

このBARは、有名なインテリアデザイナーの内田繁氏の作品であり、開店当初はデザイン界のお客さんが多かったようですが、そのうちに我々広告業界の人達が増えていったようです。ともかくいろんな意味ですごく居心地のいいBARで、私達は本当にお世話になったんですね。

そんなこともあり、良川さんとは個人的にも長いお付き合いをさせていただきまして、たまに店を抜け出して近所に飲みに連れてってもらったり、土曜日の朝に店閉めた後、一緒に海に行ってカワハギ釣りして、当時湯河原にあった良川さんの家で、釣った魚さばいて宴会やったり、ほんとによく面倒見てもらいました。

そのBALCONが、2004年の春に突然閉めてしまったいきさつは、このブログにも書いたんですが、当時ほんとに驚いたんです。そのあと、頼まれて六本木でBARをやったりされたんですが、しばらくしてから学芸大の今のBARを始められたんですね。それが多分10年位前のことだったですが、思えば30歳でBALCONを始めて30数年、良川さんも60代になられておりました。

私も気が付けば50代、酒の量も前よりは減って、ちょっと生活圏から離れた学芸大のお店には、しばらく足が遠のいておりました。

ここ数年のことですが、BALCONでさんざん一緒に飲んで、よく仕事した人達が、次々に60歳を超えて節目を迎え始めまして、その度にあのBALCONの話が出るようになったんですね。そこで、良川さんが作ってくれた、あの懐かしいサイドカーやドライマティーニやハーパーやジンやウォッカやなんだかんだ飲みながら、良川さんに会いたいねという話になって、学芸大に電話したんですが、この数年連絡が取れなくなってたんです。

そのことが、このところずっと気になってたことの一つだったんですけど、今年2月になってから、良川さんが店を開けてるみたいだよという情報が入ります。友人のNヤマサチコさんからのメールでしたが、今年になって「一路」で飲んだという、どなたかのブログを、仕事仲間が見つけてくれたみたいで、そのブログには良川さんの写真も載っていて、あのBALCONのことも書いてありました。まさに朗報であります。

すぐに電話して行ってみました。まず私の仕事の後輩達と6人で、もちろんあの頃お世話になった奴達です。そして、あの頃なにかと云えばBALCONに溜まって飲んでたレギュラーメンバーにも知らせました。皆、当時30代40代でバリバリにCMの仕事してまして、時代も最盛期で、それぞれにいつも大仕事を抱えてた人達でした。

重たい仕事かかえながら、いつも明るく飲んでましたね。たまに暗いこともあったけど。

よく飲んだけど、結構まじめに働くことは働いて、みなさん、名の知れたクリエーターにおなりになりました。そして、今やバリバリの60代です。すごいメンバーが揃って、6人が「一路」のカウンターに並びますと、なかなか壮観でありました。

ほんとはあと一人大物が加わって7席を埋めるはずでしたが、急な用事でかなわず、また近いうちに集まることになりそうです。いずれにしても、ちょっと恒例化しそうな会ではあります。

それにしても、良川さん、73歳におなりになっても、あのキリッとしていながら泰然自若のバーテンダーのキャラクターはなんにも変わっておりませず、マティーニもサイドカーもまったくあの頃のままの旨さでして、お見事でした。

2017年2月24日 (金)

開脚ストレッチ大作戦

わたくしこと、身体が硬いということにおいては、人後に落ちない人でして、このことには自信すら持っておりますが、何の自慢にもなりませず、むしろ引け目と申した方が正しいかと思います。

これはずいぶんと昔からでして、体育の時間に柔軟体操などをしておりますと、よく

「ふざけてないで、真面目にやりなさい!」

などと、注意されたのですが、本人はいたって真面目にやっているわけです。

たまに、旅館などに泊まった時に、マッサージの方に来て頂くことがありますが、必ずといってよいほど、

「からだ、かたいですね。」と云われます。

いわゆるギックリ腰というやつも、30代半ばでやってまして、これはそこまでに積み重ねた不摂生も起因してるんですけど、身体の硬さも大きいと思われます。

もっとも、もともと硬いうえに暴飲暴食暴喫煙に睡眠不足を重ね、その硬さに磨きをかけてしまったふしもあり、何度目かにギックリやった時にかかった鍼灸治療師のトーゴーさんには、その後長いことお世話になることになるんですが、この人からは、

「おまえの背中には、鉄板入ってるのか?」と云われました。

それからギックリ腰に対する恐怖は少し教訓になったので、多少の運動とストレッチのようなことはやるようにしてるのですが、基本的なこの体質は、きちんと改善されることは無いままです。

そんな去年の秋ごろ、今や私の大切なお友達のAZ先輩から、

「『ベターッと開脚』できるようになる本を知ってますか?」

と云われ、全く知らなかったんですけど、

「その本、今度会う時に一冊あげるから、一緒にやってみよう、開脚!」と誘われ、

あ、そうそう、このAZさんも、ものすごく身体が硬いんですね。

ともかく、一緒にやってみることにしたわけです。

聞くところによると、この本は、すでに何百万部か売れてる大ヒット本で、気が付けば、大きな本屋さんの目立つところにドカンと平積みしてあります。

この本書いた人は、大阪のヨガインストラクターのちょっとスタイルのいいわりかし美人のおばちゃんで、その後ときどきテレビで見かけるようになります。

すごいのは、この本に書いてある指導に従って、開脚してベターッと胸を床に付けれるようになった人が続出していることなんですね。ま、そう書いてあるし、そういう人たちの写真も載ってるわけです。

それと、もう一つすごいのは、そこに書かれてるやんなきゃいけないストレッチが、一日5分くらいの実に簡単なことだということで、これは、AZさんも力説しとられます。

「これなら、僕にもできるかな。」と思ったんですね。

そこで次の朝から始めました。カミさんのヨガマット借りて、あとはタオルが一本必要なだけで、全くたいしたことではないんです。当然やってる間はちょっとあちこち痛かったりしますが、あんまり痛くすると逆効果だと書いてあるし無理はしない、だいたい5分かそこらですしね。やってると犬が寄ってきて邪魔するんですけど、その間は廊下から閉め出しとけばよいわけです。こんなことで、ほんとに開脚できるようになるんじゃろかと思いつつ、だまされたと思ってやってみたわけです。

 

それで、結果から申しますと、全く開脚できるようにはなりませんね。私の場合、やっぱり筋金入りに身体が硬いようです。1300円の本で開くようにはならないんですね、やっぱり。

ただ、負け惜しみじゃないんですけど、これ何だか身体には良いように思います。ちょっと身体のあちこちがシャキッとする気がするし、ランニングで痛めてた膝もちょっと良くなった気がするし、とりあえず、まだ続けてはおります。まあ5分かそこらですし。

それからしばらくして、AZさんと飲んだときに、

「開脚できるようになりましたか?」と尋ねたんですけど、

AZさんも、やっぱり開かないようで、この方もやはり筋金入りだったみたいで、またしてもお互いに仲間意識を強めたようなことでした。そして、

「脚は開かないんだけど、これやってると、身体になんかシンが入るような気がして、続けてはいるんですよ。」と、私と同じようなことを、遠くを見るように申されました。

 

その後、あらためてこの本見て思ったんですけど、この本に載ってる開脚できるようになった成功者の写真は、みんな、おばさんかおばあさんなんですよ。

このストレッチっておばさん向けってことないかなあ。どうなんですかねえ。

おじさんとしては。

 

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2017年1月19日 (木)

2017酉年 あけました

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また、新しい年が明けました。

個人的には60歳を超えて2年が経ちまして、そのスピードは、ますます加速してきております。還暦を過ぎれば、おまけで生かしていただいてるようなところもあり、1年1年1日1日を大事に有意義に時間を使わねばなあと、肝に銘じておったのですが、性格が迂闊なもので、ついついうっかり、今までと同じように時を過ごしております。

ただ、なんとか無事に1年を過ごして、また新しい年が明けることは、ありがたくめでたいことではあります。

今年は酉年ということで、昨年の暮れに自分の年賀状作る打ち合わせしてたら、いつも頼んでる仕事仲間のデザイナーが、なんか鳥の絵とかあるといいなというので、ちょっと思い浮かんだのが、手塚治虫の「火の鳥」だったんですね。

「火の鳥」という作品は、手塚先生が漫画家として活動を始めた初期の頃から晩年まで手掛けられ、氏のライフワークとなった壮大なストーリーで、古代からはるか未来まで、地球や宇宙を舞台に、生命の本質を描く大作なのです。かつて全巻持ってたけどなあ、あれどうしちゃったかなあ。

酉年の初めに、鳥にもいろいろあるけれど、この超大作のシンボルである火の鳥は、なかなかふさわしいかなとも思いました。また、その物語は、火の鳥と関わる多くの主人公たちが、悩んだり、苦しんだりしながら、もがき闘い、運命に翻弄されてゆくお話でして、なんだか先行きが見えにくく、少し不安な今年の世相を予感させるようでもあります。そして、そんな杞憂を払拭して蘇り、大きく羽ばたいて飛翔するイメージが強くあるのも、この火の鳥なのです。

そんなことで、2017年の酉年も無事明けたわけですが、実は昨年末で、このブログページに書いてきた雑文の本数がちょうど100本になりまして、数的には一区切りということになりました。考えてみると、2004年頃に何の気なしに始めたことが、こんなに長く続くことになろうとは、その時はまったく思ってもいませんでした。ちょうど会社のホームページと連動する形で、個人のブログというのもやってみようということで、なんか書いてみようかと思ったのがきっかけだった気がします。

その何年か前からブログというのは存在してたんですが、わりとそのサービスが出そろったのは、この頃だったようです。ただ個人的には、なに書きゃいいんだろうという感じで、かつて日記というものをつけたこともなく、どうにか、月に1本書くか書かないかみたいないい加減なペースで始まりました。なんか適当な話っていうのが、なかなか思いつかないんですけど、そうは云ってもなんか書いてみようと、自分の周辺のことを少し掘ってみはじめると、それほど大したことではないのだけれど、それこそ酒飲んで人に話すような気持ちで文にしてみたら、それなりにちょっとずつ書けたんですね。それを続けてると、いろんなことを思いついたり、昔のことも思い出したりしてきて、酔っ払いの話が長くなっていくように、文もだんだんと長くなってきました。それと、チャカチャカといたずら書きなんですけど、ヘタな絵も一つ書くことに決めたら、それはそれで決まり事になってきたんですね。

そんなふうに始まりましたが、間違いなく自分のためのものでして、どなたかに読んで頂くとか、定期的に書くということでもなく、更新頻度もいい加減でしたから、12年も経って100本くらいのことなわけです。

偶然、50歳のときに始めて、そこから10年程の自分史となっておりますが、少し読み返してみると、大変興味深いですね。結構いろんなことがあったし、その間、世の中もいろいろ変わってますね。誰かに読んでもらおうと思って書いてはいなかったんですけど、たまに誰かが読んで下さったことは、励みになりました。自分のために書きながら、このブログというスタイルでなかったら、続かなかったことのように思えます。この場を借りてお礼申し上げます。

ありがとうございました。

なにぶん継続することが苦手な人でして、ひとつことを、ともかく100本まで続けることができたことには、意外な達成感がありました。

ちょっと読み返しつつ、こっからどうしようか考えてみます。

とりあえず。

 

 

2016年11月22日 (火)

引越しのあとで

少し前に、テレビで 「となりのトトロ」 をやっていて、またしても見てしまったんですけど、これほど何度も見た映画もなかなかなくてですね。1988年に公開されて以降、幾度となく放送されているし、家にビデオもありますから、子供が小さかった頃にも、何度も一緒に見ておりました。そんなことですから、見ながらにして、次のセリフも言えてしまうし、いい歳して、必ず同じところで泣いてしまったりもするわけです。そして、その度に、これは名作だなと唸るんですね。まあ、映画というのは、リピートに耐えることが、名作の条件だったりするところがあります。

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この物語の冒頭は、主人公の父娘3人がこの土地にやって来る引越しの場面なんですけど、これがなかなかいいシーンでして、このあとの様々なドラマの展開の起点になっているんですね。確かに引っ越しって、新しい何かに出会う期待と不安があって、物語の始まりとしては、うってつけの設定なのです。

ちょうど私も、会社の中で6年ぶりに席を替わる大引越しの最中でして、6年間に溜まりに溜まった本の山に囲まれて、かたずけに追い立てられておりまして、ちょっと古本屋で店番してるオヤジのような風情になっております。

そこで、ふと、これまでずいぶんと引越しをしてきたなあと思ったんですね。

子供の頃は、父親の仕事の都合で、幼稚園も小学校も中学校も転校を繰り返しておりまして、そのあと大学は上京してきましたので、この時は一人の引っ越しでしたし、一人になって何年かは落ち着いたんですが、そのうち働き始めてから、住んでたアパートが取り壊しになることが二度ありまして、まあ老朽アパートだったんですけど、その都度、住み家を変えます。

やがて結婚することになって、また別の街に越しますが、今度はその街の中で3度引越して今に至ります。勤め先が変わったり、またその場所が変わったり、こちらも大小の引っ越しが数々ありまして、考えてみると、好むと好まざるとにかかわらず、ずいぶんと引越しの多い人生じゃないかと思いますね。

子供の頃はともかく、大人になってからの引越しは、回を重ねるごとに、だんだんと大ごとになります。若い頃はお金もないし、荷物の大半はゴミだから、捨てればあらかた片づいて、軽トラック一台借りてくれば済んじゃうんで、わりと苦にならなくて、気分転換にもなるから、むしろいろんな場所に住んでみたいななどと思っていました。

でも、年齢を重ねると、いろんなことが身軽じゃなくなってくるんですね。家族もできたり、家財道具や荷物も増えてきて、これは、歳とともに人間関係やしがらみが多くなってくるのと似ております。

思うに、引越しというものは、「さよなら」と「こんにちは」で出来ておりまして、それは、街だったり、物だったり、人に対してだったりしますが、そこには、若干の寂しさと、いくばくかの期待と、何ともいえぬ不安などがありまして、いろいろな気持ちを抱えながら、新しい場所に移ってゆくんですね。

引越しには、ある意味リセット効果などもあって、まあ悪いことばかりでもなかったかなと思いますが、自分の性格にちょっと薄情なところがあるのは、引越しが多かったせいかなと思ったりするところがあります。これは自分じゃわからないんですが、ちょっと別れということに対して淡白で、わりと早めに諦めてしまうような、そこは転校生にありがちなところかもしれませんけど。

いずれにしても、人生は出会いと別れの繰り返しではあります。それがその人にとって、良いこともあれば、良くないこともあるんだけど、そういう中で新しい自分に折り合いをつけながら、みんな日々暮らしてるわけです。

だから、しんどいことがあったり、新しい何かに出会いたかったリ、自分にとってなんか変化が必要なときは、引越しをしてみるのは良いことかもしれませんね。 

なにもほんとに引っ越さなくても、自分のなかではっきりとポジショニングを変えてみるということなんですけど。

大きめの引越しでも、ちょっとした小さな引越しでもいいから、なんか新しい環境に自分をおいてみると、なんか今までと違ったことが起きることもあるかもしれません。

 

サツキとメイはトトロに会っちゃったわけだし。

 

2016年9月20日 (火)

「新井さん、どのツラ下げて帰って来たんですか会」のこと

プロ野球シーズンも終盤に差し掛かりまして、半年かけたペナントレースで優勝するというのは、それでなくても盛り上がるもんですけど、今年の広島カープの優勝に特にスペシャルな嬉しさがあるのは、それが25年ぶりであるということでして。25年前と云えば、1番-田中広輔、2番-菊池涼介、3番-丸佳浩の同い年俊足トリオが全員2歳だったりするわけですから、ずいぶんとためがあるんです。

だいたいこのチーム、1975年の初優勝の時も球団創設から25年かかっておるんですが、ただ、1975年から1991年までの16年間には6回優勝しているんだから、この頃は結構強かったわけです。そのあと25年間優勝できなかったのは、やはり資金を持たないチームの辛さでして、ちょうど1993年から導入されたFAシステムの影響で、主力選手が他チームへ移ってしまったり、かといってFAでの補強もできず、また、その頃ドラフトに逆指名制度が導入されたのも、このチームにとっては逆風になりました。チーム力低下に伴い、順位も下がり、観客動員も減り続け、球場の老朽化などもあって、しばらく冬の時代が続いておったわけです。

ただ、このアゲンストの時代、球団は手をこまねいていたわけではありません。もともとこのチームは資金がない分、新戦力を探してくるスカウト陣には定評があり、全国のアマチュア、海外の選手などを発掘し続けます。そして、その原石を磨きに磨くわけです。ともかく、カープの普段からの練習量は半端じゃなくて、昔、金本さんがカープから阪神に移籍した時に、そのタイガースの練習量の少なさに驚愕したと云います。

そして、一定の強化を続けるうちに、2007年に発覚した複数球団の裏金問題で、逆指名制は廃止となり、このあたりから逆襲に転じる契機となります。

球団も色々とファンサービスを工夫しまして、徐々に球場に観客を呼び戻し始めました。資金のこともあり、ドーム球場はできなかったけど、本場のボールパークのような魅力的なマツダスタジアムを完成させ、そこにアイデアあふれる観客席も作りました。

そんな苦労が少しずつ報われ、このところ少しずつ順位も上げて、何年か前からカープ女子などと呼ばれるおねえちゃん達も現れて、なんか盛り上がってきたところです。ちょっと前の東京ドームで行われた巨人×広島戦などは、満員の客席のほぼ半分は真っ赤で、東京にこんなにカープファンがいたのかと思えるほどの社会現象となっております。

そして、この数年少しずつ膨らんできた優勝への機運を一気に盛り上げ、その選手たちやファンの精神的支柱となったのが、黒田博樹投手です。さんざん語られていることですが、2007年に大リーグへ渡ったこの人が、一昨年、何10億と云われる大リーグのオファーを断り、広島と推定4億で契約して帰ってきたことは、ずいぶん大きな出来事でした。

彼は1997年に入団し、2007年までに103勝してチームのエースとなりますが、その間チームは低迷します。FA権を取得して2年目、悩む黒田が大リーグ挑戦を決めた後の囲み取材で、

「広島が常勝軍団だったら、ことは違っていたのか?」という記者の質問に、目を真っ赤にして、

「・・・・・・。大リーグ行きはないと思います。」と答えました。

そして、もし日本に帰って来ることがあれば、必ずカープに帰って来ると云います。

そして、ドジャースとヤンキースで合わせて79勝して、本当に帰ってきたわけです。

いや、多くは語らないけど、かっこいいです。マスコミは男気黒田と云ってはしゃぎ、カープファンは痺れました。その1年目、黒田は11勝の奮闘をしましたが、ペナントレースの成績は4位に終わります。1975年生まれの、ちょうど40歳になっていました。その黒田が、来年もやると云いました。泣けるよなあ。そこで迎えたのが今シーズンだったんですね。ファンもナインも燃えます。

そして、もう一人、攻撃の中心となったベテランに新井貴浩選手がおります。この人もある意味結果的には、優勝への精神的支柱になるのですが、ちょっと黒田とは事情が違っているんですね。

この人は1999年に入団して、2007年までに987安打を放ちチームの中心打者となっていました。しかし、チームは低迷期であり、優勝できるチームで活躍したいと願い、黒田と同じ時にFA権を行使して阪神に移ります。この時の記者会見で、

「辛いです。カープが好きだから・・・」と云って、ポロポロと涙を流しました。

黒田が海を渡ったのに比べ、新井は同じセ・リーグの阪神に行きましたから、カープファンからは野次られたりもしました。そして阪神にいた7年間はヒットも打ちましたが、腰痛に悩まされたりもして、けして万全ではありませんでした。結局優勝もしてません。

2014年、新井阪神最後の年、成績は、176打数43安打3本塁打31打点、打率.244でした。大幅減俸通告を受けた新井は、球団に自由契約を申し入れます。

この時、右打ちの長距離打者が補強ポイントであった広島が、獲得に動きました。阪神が提示した年俸7000万を下回る2000万という広島の提示を、新井は即決で受け入れます。広島は生まれ故郷でもあり、自分を育ててくれたカープで最後はプレーしたいと思ったのでしょうか。この時38歳。そして、帰って来た新井をファンは黒田と同じように、お帰りと云って暖かく迎え入れます。

そこから今年にかけての大活躍は、すでにご存知の通りなんですけど、実はこの人が8年ぶりに帰って来た2015年2月の日南キャンプで、ベテランの石原を中心に後輩達が焼き肉屋で、新井さんのことを招待した飲み会があったんですね、。この会が、

「新井さん、どのツラ下げて帰って来たんですか会」という名前の会だったそうです。

かつて自分から出ていって、選手として盛りも過ぎて、結局優勝も経験せず、ノコノコ帰って来た負い目もあったかもしれないけど、新井はこの会ですごく楽になったみたいです。仲間のユーモアに救われたということでしょうか。そして、そっから死ぬ気で鍛えに鍛えて、復活を果たしました。

このチームの25年ぶりの優勝という大きなストーリーには、2007年に出ていって2015年に帰って来た、ややとうの立った二人のベテランの、それぞれのストーリーが、少なからず作用していたわけであります。

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私は阪神ファンで、新井選手が阪神で不調のときは、ヤジり倒しておりましたが、広島に帰ってからの別人のような活躍と優勝への貢献は、素直に嬉しかったし、胴上げで黒田が泣いた時は、オジサンも泣いたです。

そういえば、昔、阪神のエースであった天才江夏は、優勝せぬまま球団を追われ、4年後に広島でストッパーとして、初のリーグ優勝と日本一を成し遂げたのでした。又、2003年に18年ぶりに阪神が優勝できたのは、広島から金本選手が来てくれたおかげでした。

野球というスポーツを見て、得られる感動というのは、つくづく感情移入できる選手の活躍だなと思いますね。

このところの阪神には感情移入できる選手がなかなか少ないのですが、金本さんが監督で帰ってきてくれて、時間かかってもよいので、ちゃんとチームを作ってくれることを期待しています。今年はとりあえず最下位くさいけど、近い将来ということで。

 

 

2016年9月 1日 (木)

萩・津和野 うたた寝旅

仕事のせいか、旅をするということには、わりと慣れておりまして、結構いろんなところへ行った記憶があります。最近は現場を離れているので、それほど彼方此方と行くことはありませんが。

昔は、時刻表を片手に聞いたこともない駅に降り立ったり、トランジットの時間がギリギリになった飛行場を全力で走ったり、自分で車を運転して1000km以上走破したり、思えばいろんなことをしておりました。

仕事での旅の目的は、ロケハン・ロケ・シナハンなど、大勢で行くことも一人で行くこともあり、よく調べてから出発する場合もあれば、急に飛ばされることもよくありました。だもんで、習慣的に旅の支度は早くてですね、長い旅でも短い旅でも、支度は出発の当日か前夜にチャカチャカとやってしまいます。チケットやパスポート以外は、たいていのことはいざとなればどうにかなりますしね。したがって枕が変わって眠れないということも全くなく、大嫌いな飛行機でも2~3杯飲んだら爆睡できます。まだ不慣れな頃、初めてハワイ便で好きなだけ飲んでいいですということがあって、本当に好きなだけ飲んで大変な思いをしたことがありましたが、気圧が低いと悪酔いすることも知らなかった頃のことです。

そういうことで、旅と云えば仕事がらみのことがほとんどだったんですが、このところは、たまにプライベートな旅にも行くようになってきました。私用だったり、家族旅だったり、仲間旅だったりしますが、そのなかで、7~8年前からたまに思いついた時に行く男三人旅と云うのがあって、ちょっと恒例化しております。「大人の遠足」とか云って、いつも2泊くらいの旅なんですけど、このメンバーで今度はどこそこ行こうかとか云いながら、飲んで盛り上がるんですね。まあ言うだけで実現しないのも多々あるんですけども。

このお二人と云うのが、S山さんとY田さんと云って、かつて一緒にいろいろお仕事した方たちなんですが、私よりも6歳ほど年上の大先輩で、二人は昔から大の仲良しなんですね。まあ、私からすると、仕事を教えて頂いた方たちなわけですが、初めて会った時は皆20代でしたから、ずいぶん長いお付き合いということになります。

そういう関係性ですから、行き先が決まると、よし、じゃさっそく準備しようとなるのですが、振り返っても誰もおりません。飛行機の手配したり、車借りたり、宿を予約したりは、私がやります。かつて3人で仕事していた時も、それやるのは当然、私の役目でしたから、ほかの二人がそれやるのは、むしろ不自然なことになるわけです。誰か私より若輩な者を加えることも考えたんですが、なかなか適任者も思いつかず。そんなことで、この会はこの三人で行くのが決まりとなっております。

どんな旅かと云うと、たとえば「静岡しんこ計画」「気仙沼ほや・さんま計画」「2月の近江路、発酵食品を訪ねる」「古都、桜と筍」「南淡路、鱧と玉葱の鍋」「平城遷都1300年、義経、西行、太閤の千本桜の旅」「屏風『親鸞』拝観」「唐津、焼き物探索と鮨」「長崎ぶらぶら旅、餃子」「カープがんばれ応援ツアー」「師走京都、ふぐ、ぐふふ」など、若干、食べ物への下心が見え隠れしますが、大人の好奇心を満たす内容となっておるのです。

今回、久しぶりに、夏どっか行こうかということになり、計画いたしましたのが、萩・津和野への旅、こちらには三人とも行ったことがなかったんですね。皆こういう仕事してるし、ベテランだし、結構いろんなところ行ってるんですけど、まあ、行ってない場所というのはあるもので、かなり有名なところではあるんですが、初見参となりました。

幕末に倒幕へと爆走し、維新を推し進める上で大きな役割を果たした長州藩の中心地である萩と、そのすべての始まりとなった松下村塾というところへ行ってみましょう。それに、津和野に流れる高津川には天然の鮎もいらすようですし。みたいな話から始まり、行ってみることになったわけです。ここでも鮎の存在が見え隠れしますけど。

旅はまず津和野に入り、肝心なことからやっておこうというわけじゃないですが、天然鮎にお会いすることから始まります。地元のお酒などもいただき、宿の近くに3軒ほどあったスナックを覗くと、ほかに客はおらず、ママさんが相当おしゃべりな人で、その話を聞いてますと、ご主人がこの街に1軒だけある骨董屋の親父である事がわかります。

で、翌日に行ってみました骨董屋さん。いや、世の中には面白い人がいるもんで、このオヤジ、と云っても私と同じくらいの歳なんですけど、若い時から集めに集めた骨董品の山の中からあらわれました。いろいろ話し込んでいるうちに、店には出していないお宝の陶器というのを二階から数点だしてきて見せてくれたんですが、値は付けられないけどおそらく数百万とかで、確かにそう言われてみると、なかなか見事なお宝でして、すっかり目の保養をさせていただいたわけです。

そんなことしながら、萩の方へ移動しまして、いろいろと名所旧跡を訪ねようと、まず、そば屋で一杯やりながら作戦を練ったんですね。ただ、西日本は、この日、一番の猛暑日でして、外を歩いてると立ち眩みするほどなんですね、皆60才超えてるし。で、タクシー会社に電話したら、2時間コースでいろいろ連れてってくれて、解説までしてくださる方がいらっしゃるとのことで、即、お願いしたわけです。

そしたら、そのそば屋まで迎えに来てくださいまして、まず、松陰神社、松下村塾から始まりました。このガイドさんは、すでにおじさんなんですが、おそらく子供の頃から萩で教育を受けられ、いかに吉田松陰先生が維新において重要な役割を果たしたか、また松下村塾で講義を受けた多くの弟子たちが、若くして国づくりの中心になって働いたことなどを、いつも聞かされて育ち、この萩という地にすごく誇りを持たれている方と思われます。2時間ほど、車で市内をあちこちと移動し、車を降りて炎天下の萩の街を一緒に歩きながらいろいろと解説をしてくださったわけです。

いや、やはりためになったと云うか何というか、あの掘っ立て小屋のような松下村塾から、明治という国家を作った多くの人材を輩出したことなど、実際に街を歩きながら聞かせていただいた話には、実にリアリティがありました。150年も前の話というよりは、まだ150年しか経っていない話の実感というのか、そんなことを三人とも感じ入っていたのですが。この学習コースも終わりに近づいた頃、炎天下の疲れも出られたのか、二人の先輩は軽い鼾とともに、心地よい眠りに落ちて行かれました。ガイドさんが

「話がちょっと難しかったかなあ。」と云われたので、

「いえ、そんなことありません、ちょっと旅の疲れが・・前半はちゃんと聞いてましたから。」などと申し上げたようなわけです。

しかし、この会を始めた頃から比べると、みんなよく寝るようになりましたね。宿でもどこでも、隙あれば寝てます。昼酒飲めばイチコロだし、うたた寝、昼寝は得意技ですね。みなさん、それなりの年齢だし。まあ、気持ちよくうたた寝できるのは、いい旅してるってことでしょうか。

ともかく、元気でなによりです。さて、次はどこ行くかなあ。

Utatane

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