泣きながら生きていくのだ
昨年の暮れも押し迫ったある日、会社に行くと、いつか「早春スケッチブック」のDVDを貸してくれたFさんと、転覆隊のW君が、熱く語り合っていました。どうも仕事の話ではないようで、朝のお茶を淹れながら、なんとなく聞いていると、ある映画の話らしく、二人がいかにその映画で泣いたかという話であります。Fさんは、顔の形が変わってしまうくらい泣いたそうで、人に会う前には観ないほうがよいと言っております。
そんなだかよお、ほんとかよおとか、思っていると、二人が私を発見し、
「まだ、観てませんよね。」「絶対、観るべきです。」「泣きます。絶対」
などなど、何がなんでもあなたは絶対に観るべきだとおっしゃる、二人して。
新宿のなんたらいうシネコンで1日1回しか上映してなくて、多分もうすぐ終わってしまうといいます。ちなみに上映は昼の12:30から2時間だそうで。そう言われると気になりますよ、やっぱり。12:30かあ、年内だと今日しかなさそうだなあ、などと思いつつ、その日の昼過ぎに会うことになってた方に、2時間ほど予定をずらせていただくことをお願いしたら、OKしてくださり、行きました、新宿。
いや、泣けた。目からも、鼻からも、水分は出つくしました。
それは、厳密に言うと映画ではなく、3年前にフジテレビで放送されたドキュメント番組でした。「泣きながら生きて」 その題名を覚えていました。たしか録画したけど、観るのを忘れていたのです。放送から3年後、何らかの理由があってこの映画館で上映されているようです。
中国のある家族、お父さんと、お母さんと、娘と、3人の家族を10年間追い続けたドキュメントでした。つきなみですが、感動しました。
以下、お話に触れます。
1989年に、丁 尚彪(てい しょうひょう)さんという中国人男性が、上海から日本にやって来ます。35歳、多分私と同じ年の生まれです。
この人の青春時代、中国は、まさに文化大革命(1966~1976)の時期です。彼は、作物もろくにできない痩せた僻地に隔離され、強制労働を強いられます。苦境のなかで結ばれた奥さんと、その後、上海に帰ってきて、1980年頃、娘さんが生まれます。
若いころ、全く教育を受けることができなかった丁さんは、日本語学校のパンフレットを手にしたことから、日本に行って日本語を学び、日本の大学に進学して、新しい人生を手にしようと決意しました。ただ、入学金と授業料は、合わせて42万円。それは、中国で夫婦が15年間働き続けなくては得ることができないお金でした。夫婦は親戚や知りあいを訪ね歩いて借金をして費用を工面します。
でも、それは悲劇の始まりでした。丁さんが入学した日本語学校は、北海道の阿寒町にありました。過疎化を打開したい町と、町から施設などを借り受けることで、経費を安くすることのできる学校経営者との思惑が一致して設立された学校だったのですが、ここには仕事がありません。おまけに冬は氷に閉ざされてしまいます。中国から来た生徒たちは、働いて借金を返しながら勉強するつもりでいたのです。つまり、ここでは生きていくことができません。
丁さんには多額の借金があり、賃金の安い中国に帰ることはもうできません。何とか東京にたどり着くも、学生でなくなった彼にビザは認められず、不法滞在者になってしまいました。摘発されれば強制送還です。
丁さんは、身分を隠し、身を粉にして働きました。1日に3つの肉体労働をこなし、眠る時間以外はすべて働きました。銭湯の空いてる時間にうちに帰れず、流しで体を洗い、昼飯代を惜しんで晩飯の残りで弁当を作り、そして、借金を返し、自身が生きていく最低限の費用以外は、すべて上海の妻子に送金し続けました。
日本に来て7年目の春、1996年、番組の制作チームが彼と出会います。ディレクターは張麗玲さんと云います。丁さんの暮らす小さな木造アパートの壁には、7年前に別れた当時小学4年生の娘の写真が貼ってありました。
1997年の2月、制作チームは、丁さんの東京で働く様子を撮影したVTRを持って、上海の奥さんと娘さんを訪ねました。8年ぶりに目にする父であり夫の姿、そして、彼がその間どれほど苦労したか。妻と娘は涙するほかありません。でも、奥さんは、丁さんから送られたお金には、一切手をつけていませんでした。自分は、縫製工場で働いて生計を立てて、送金されたお金はすべて娘の教育費に充てるつもりなのです。娘の琳(リン)ちゃん、この子がまたほんとに優秀で、この時、中国屈指の名門校、復旦大学付属高校3年生です。そして、アメリカで勉強して医者になりたいという夢を持っています。父と母は、この娘の夢に自身の希望を重ね合わせているのです。
努力の末、彼女はニューヨーク州立大学の医学部に見事合格します。アメリカに旅立つ娘、上海空港での母娘の別れ、母はただ号泣します。
ニューヨークへ向かう途中、東京での24時間のトランジットで、父と娘は8年ぶりの再会を果たします。
「少し太ったな、ダイエットしたほうがいいな。」
父は、何の意味もない、つまらぬことしか言えません。
あっという間の24時間、不法滞在者の父は空港まで送りに行くことができません。空港では身分の照会を求められることがあるからです。父は一つ手前の成田駅で電車を降ります。
一人電車に残る娘は号泣します。父もホームで泣いています。彼女は泣きながらスタッフに言いました。
「私、知ってるの。お父さんが心の底から私を愛してくれていることを。」
それは、東京、上海、ニューヨーク、3人の離れ離れの生活の始まりでもありました。家族が信じる希望のために、父も母も働き続け、娘は勉学に励みます。その後、母は、異国で暮らす娘に会うために、アメリカに行こうとしますが、当時の国際環境の中で、これがなかなか実現できません。ビザが下りないのです。日本人からみるとピンとこないことですが、何年も何年も許可が下りないのです。
数年後ビザがとれて、母はアメリカに旅立ちます。東京でのトランジットは3日間です。10数年ぶりの夫婦の再会です。嬉しい時が流れますが、二人にとっては、わずかな時間に過ぎません。また、成田駅での別れが訪れることを、観ている私たちも知ってしまっています。切ない・・・・・
この別れのシーンで私の涙は、完全に尽きてしまいました。もう目からも鼻からも何も出ません。
それから数年後、娘は立派な医師になりました。丁さんは、東京での役割を終えます。妻の待つ上海へ帰る前に、丁さんは、あの北海道の阿寒町を訪れます。無事に家族の夢を果たせた後で、恨みごとの一つも言いたいだろうかと思いましたが、彼はこう言いました。
「15年前日本に来た時、人生は哀しいものだと思った。人間は弱いものだと思った。でも、人生は捨てたものじゃない。」
日本という国に対しても、
「戦争に負けたあと、ここまで再生した日本の国の人たちに、私は学ぶべきことをたくさん教えられました。感謝しています。」
みたいなことを言われました。
中国には、こんなに優しくて、強くて、素晴らしい人が暮らしてるのだな。いままで少し違ったイメージを持ったこともありますが、ずいぶんと改まった気がしました。
そのことで思い出したことが一つ。
子どもの頃、神戸に住んでたんですけど、隣に大邸宅があって、李さんという中国の大家族が住んでたんです。僕と同年代の2男3女の兄弟姉妹がいて、よく遊びに行きました。ここのご主人は若い時に苦労して、日本で中華料理店を成功させた人だったんですが、ちょうど文化大革命のころ、中国に里帰りしたときに、行方不明になり、それから何年もたってから疲れ果てて戻ってこられました。そんなこともとっくに忘れていたころ、あの阪神淡路大震災が起きました。僕がかつて住んでいた町内は、古い町でほとんど倒壊してしまったんですが、この李さんの邸宅は鉄筋コンクリートで、壊れなかったんです。李さん一家は、周りの被災した人たちをみんな家に入れてくれて、ごはんを食べさせてくれたそうです。何日も何日も。その中にはうちの親戚の者もおりまして、大変助けられました。
この時も、中国の人のことを尊敬したのでした。
しかし、泣いた。
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