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2013年4月

2013年4月30日 (火)

歩くということ 登山編

新入社員研修キャンプというのをやったんですね、うちの会社らしいんですけど。たしかに山の中に行って、いろんな共同作業とかやると、キャラクターもわかるし、仲良くもなるし、お互いゆっくり観察したり、話をしたりするには、いい機会になるんですね。

新入社員は6名、新入社員以外は、仕事もあるし行ける人だけでやりましたが、キャプテンは、O桑君とW辺君です。この二人は山の中に行ったりキャンプするには不可欠な人なんですね、経験上。

今回は金曜日の朝に出発して、昼過ぎにはいつもの山梨のキャンプ場に到着しました。ここは、ほんとに何もないところなので、これからすべての設営が始まります。テント張って、火熾して、机や椅子出して、買い出しして、晩飯の下ごしらえして、いろいろやってるうちに日は暮れていきます。4月とはいえ、南アルプスの山の中は寒く、焚火と酒であったまります。他にやることもなく、ただ深酒するんですね。はじめ緊張気味だった新人君たちも、そこそこにほどけてきますね。初日は10名そこそこなので、いつもの社員旅行キャンプの騒々しさはなく、なかなか風情のあるキャンプらしい夜となります。

次の朝、ちょっと宿酔の頭で歯を磨いていると、だんだん後発のメンバー達が到着してきます。昨日は仕事していて、今朝東京を発った人たちです。

人数も増えて、盛り上がってきたところで、今回の企画の目玉でもある登山となります。日向山という標高1650mの山で、恒例の登山なんです。前回の社員旅行キャンプの時には、私、登山コースを選ばず、麓のサントリー白州蒸留所で一日中ウイスキーの試飲をするコースにいて、この登山が意外とハードだったという話は後で聞いてはいたのですが、実際のとこよくわかってなかったんですね。

ただ、キャプテンのW辺君いわく、                            

「今回はハイキングコースの入り口まで車で行きますから、そんなにきつくないですよ。前回は下から行きましたから。」みたいな話で、

確かに看板にはハイキングコースって書いてあるしで、油断してたんですが、これが登り始めると相当こたえたわけです。なんせ、ひたすらきっつい登りっぱなしで、ハイキングってこういうことだっけと。そう思ってるのはどうも私だけで、若い人たちは冗談言いながら和気あいあいと笑いながら登ってますし、二人のキャプテンは、もともとこういううことが大好きな人達ですから、私とは違います。

O桑君はニコニコしながら、

「まだ700mしか歩いてないですよ。」などと励ましてくれますが、

私からすると、7kmは歩いたんではないかと思えるのです。

「いや、自分にはかまわず、みんな先に行ってください、マイペースで追いかけるから、頂上で弁当食べてるとこに追いつくから。」

などと申して、最後尾を歩いてたんですが、相変わらず道はきつい登りっぱなしで、まだ行程の半分にも至っておりません。

ふと、回れ右したら楽になるなという誘惑と向き合い始めた時、気になって引き返してきたO桑君が呼びとめました、さわやかな笑顔で。・・行くしかないです。

なさけないですが、あごが上がるというのはこういうことだとわかりました。おかしいなあ、これでもかつては、仕事で屋久島の急勾配を縄文杉まで6時間かけて登ったのになあなどと思いましたが、考えてみれば、あれはもう10年前です。それから10年間自分を甘やかせ続けたむくいです。老化もありますが、ひどいもんです。

なんとか頂上に着きました。晴れわたった日向山山頂は、死ぬおもいして登った甲斐のある(おおげさですが)素晴らしい景観でした。でしたが私は、しばらくただ仰向けになって天を仰いでいました。涙目でした。塩のきいたお弁当、美味しかったです。Sanchou

みんなで記念撮影して、自分もここで一緒に写れてよかったなあと思っていた頃、

W辺キャプテンから下山の合図がありました。

「帰りは今来た道じゃなく、別の、もう少し険しい道をおります。ときどき鎖にぶら下がったりしながら下ります。頑張ろう。」

えっ、今来た道、じゅうぶん険しくないですか? しかし、こうなったら自棄です。

新人たちに背中を見せるわけにはいきません。さっき見せかけたけど。

帰り道は、私に言わせれば、道とは呼べませんでした。わかりやすくいえば、崖です。そこにもハイキングコースという表示が出てました。この辺、どうかしてます。

崖を転がるように降りた私たちは、キャンプ場近くの温泉につかりました。浸みました、生きててよかった(おおげさですが)。露天風呂に入っていたら、ポツポツと顔に雨があたり始めました。今夜のキャンプは雨です。

ただ、二人のキャプテンは全く動じません。まあ、あらゆるケースを経験してる人達です。むしろ新人たちにとっては、予期せぬこの状況は、よい研修になるとおっしゃってます。そうですね。そうかもしれませんね。

せまいけど屋根の付いた洗い場を利用して、その周りに何枚もターフを張って作られた会場で、雨の夜の大宴会が始まりました。参加の人数もうんと増え、キャンプファイアーは燃え盛り、いよいよ盛り上がってまいります。昼間の疲れから先に寝てしまうかと思いましたが、山登りとは違って酒宴には強いようなんですね、私。

しょうがないなあ。

 

 

 

2013年4月 2日 (火)

春、家族、旅

この春、久しぶりに家族で旅行したんですが、4人そろって旅したのって、いつ以来だったか、すぐに思い出せないくらいなんですね。子供も大きくなると、それなりに自分の都合で忙しくしてるし、親と一緒に行動しなくなりますから。

ただ、この春に上の娘は就職して社会人になることになり、下の息子も高校卒業して大学行くことになって、そういえば、しばらく広島の祖父母にも顔見せていないなということがあり、そろって帰郷したわけです。

私と妻は同郷でして、妻の父は7年前に、母は4年前に他界いたしましたので、こちらの祖父母へは、お墓参りをして、就職と進学の報告をし、伯父伯母にも久しぶりに顔を見せることができました。また、私の方の父母は、おかげさまで、まずまず元気にしておりまして、しばらくぶりに孫に会えるのを楽しみにしておりました。

広島に着いて1日目はお墓参りをして、2日目は九州の太宰府へ向かいます。孫が受験するときには、祖父母が学問の神様である太宰府天満宮へお参りに行ってくれており、まあ今回はそれのお礼参りということになります。

広島から博多は新幹線でほぼ1時間、そこから太宰府までが20分くらいなので、ちょっとした小旅行です。その日はお参りをすませた後、父母がこちらに来た時に何度か泊まったことのある温泉宿にお世話になることにしました。古いけどなかなか良い宿で、みんなで温泉に浸かってゆっくりすることができました。

夕食の前に、私の父母が子供たちにお祝いを渡してくれたんですけど、そのときにある話をしてくれたんですね。

父は昭和3年生まれの84歳、母は昭和4年生まれの83歳です。

二人ともさすがに高齢で、足腰も弱くなっており、ペースメーカーが入っていたりもして、かなりゆっくりしか歩くことができないんですが、でも、なんとかこうやって孫たちと旅ができたことは、本当に嬉しいことだと云いました。そして、80歳を越えて生きていられることはありがたいことですが、これもいろいろな偶然の積み重ねなんだと云いました。

それから、昭和20年の8月6日の話をしてくれました。

Genbakudomu_3 その時、父は17歳、母は16歳です。二人とも広島に住んでいました。この日は、月曜日だったそうです。父は広島の旧制高等学校の学生で、学校の寮にいて、その朝早く広島市内に用事があってバス停に並んでいたら、バスが満員で乗り切れなくて、仕方なく反対方向のバスに乗って実家に向かったそうです。実家に着いて少ししてから、原爆が炸裂しました。実家の窓ガラスは全部割れたそうですが、爆心地から10km離れていたので、命は助かりました。後から、父が乗れなくてあきらめたバスに乗った方たちは全員亡くなったことがわかったそうです。

母は女学校の生徒でしたが、広島市のはずれの工場に動員されて、そこで武器や軍服などを作っていたそうです。でも爆弾がピカッと光った時は熱かったと云っていました。当時、学校の授業はほとんどなく、みんな工場にいたらしいですが、月曜日の午前中だけは、勉強をしたい生徒が希望すれば授業を受けることができ、その日市内の校舎で授業を受けた女学生はやはり全員被曝して亡くなってしまったそうです。母は勉強が苦手で、その授業を希望しなかったことが運命の分かれ目になりました。

80歳代の祖父母と、大人になるかならないかの孫たちとは、普段なかなか接点がありませんが、祖父母が青春時代に体験した戦争の話には、痛く感じるところがあったようでした。86日、歴史に残ったこの日に、ひとつ間違っていれば、自分の存在すら無くなってたかもしれないわけですから。

そのあと食事して、その夜に感謝して、みんなでカラオケをやりました。

娘はなぜか中島みゆきを何曲か熱唱してました。息子はミスチルを唄い、じいさんは、小林旭の「昔の名前で出ています」を唄っていました。

選曲にはまったく接点ありませんでしたが、やはり。

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