ギャンブルう
少し前に、「いねむり先生」という本を読んだのですが、なかなかよかったんです。
伊集院静さんが、生前の色川武大さんとの出会いと交流をベースにしたもので、主人公のこの先生に対する尊敬とか愛情とかが、独特な味わいで書かれています。
色川さんという人は、若かった私にとっても非常に興味深い存在でした。直木賞はじめ数々の文学賞を受賞する小説家であると同時に、博打打ちとしても本物の人で、その経験をもとにした麻雀小説は、阿佐田哲也というペンネームで書かれ、当時大人気でした。
そんなことで無頼派小説家などと呼ばれていたけど、たまにTVとかで見かけると、もの静かではにかみ屋のおじさんといった風情で、優しそうな人でした。そのギャップもちょっとミステリアスで、心惹かれたのかもしれませんが。
懐かしくなったので、昔読んだ「麻雀放浪記 青春篇」を、もう一度読んでみました。
自身の体験をもとにしている上に、文章力が見事で、リアリティが半端なく、やっぱり名作でした。この小説は、和田誠さんが1984年に映画化していて、これもかなりよくできていて話題になったものです。
私が阿佐田さんの麻雀小説をよく読んでいたのは、東京に出てきて大学生になり、うんざりするほど麻雀をやっていた頃でした。金がなく、勉学に熱心でなく、時間と体力だけがうんとある若者にとって、麻雀はこのうえない友達でした。自分の下宿でも、先輩のアパートでも、駅前の雀荘でも、やったやった。
下宿は雀荘と化し、麻雀の役の中でも非常に難易度の高い役満が出ると、その役の名称(例えば、大三元とか四暗刻とか大四喜とか)を、短冊に書いて署名をして壁に貼っていったのですが、しまいには六畳間を一回りしてしまいました。それにあきたらず、阿佐田さんの小説に出てくるような、積み込みの練習をして試してみたり、仲間と二人組んでサインを決めてから、とある街の雀荘に乗り込んでみたり、と。いま思えば、その世界にあこがれて、いっぱしのギャンブラーのつもりでいたのでしょうか。愚かな者でございました。
その頃、パチンコもよくやりました。暮らしていた街のパチンコ屋から、その私鉄沿線の各駅のパチンコ屋まで、傾向と対策を駆使して挑んでいました。勝つと大きいこともありますが、負けることも多く、だいたいトータルすると負けてるんです。遠くの駅のパチンコ屋まで出かけて、帰りの電車賃まで使い切って歩いて帰ったこともよくありました。
土日は、競馬ですか。朝からなじみの喫茶店のカウンターで競馬新聞読みながらコーヒー飲んで、ある時は仲間たちの分も引き受けて並木橋まで馬券買いに行ったり、誰かが行ってくれる時は、そのまま雀荘に行って、ラジオの競馬中継聞きながら麻雀打ってたり、学生の分際でなめたまねしてましたね。
元手は乏しいわけで、競馬の予想や解説は、真剣に読んだり聞いたりしましたが、私は好んで寺山修司の解説を聞いていました。当時、表現者としての寺山にはかなり影響を受けた世代でしたし、彼の競馬解説には、独特な物語のような面白さがあったんですね。でも、あんまりあたらなかった気がしますけど。私は、その頃テレビで寺山の解説を聞きすぎて、完全にモノマネができるようになっていました。そしてそれがきっかけで、競馬解説だけでなく、芝居や映画や文学を語る寺山修司のマネもやるようになりました。
これは余談です。
20歳の頃の私は、こうやって大人の男の世界にあこがれて、いきがっていたんだと思います。背景に、男は博打打ちだ、男は江夏だ、みたいな空気ありましたから、あの頃。そして、深い深いギャンブルの世界の、ほんの入り口を垣間見てたのでしょう。可愛らしくも。
だいたい、元手もなく、たまに分不相応の実入りがあったかと思えば、すっからかんのピーになって息をひそめたり、かといって、大きく動いて破滅してしまう迫力もなく、トータルすれば負けているのが世の常で、いつの間にかその熱も冷めておりました。
ある時、憑きものが落ちたように。
それから、あまり自分からギャンブルをやることはなくなりました。若い時に食べすぎて食あたりをしたのかもしれませんが。この先も、博打の本当の魅力のようなものはわからぬままのような気がします。色川さんや、伊集院さんや、寺山さんや、友達のマンちゃんのようなギャンブラーには、私はなれないのだと思います。やはり。
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