小さな大投手、逝く
昭和5年の生まれでしたから、76歳でした。寿命といえばそれまでなのかもしれませんが、まだまだ生きていてほしかったです。
この人は妻のお父さんですので、私としては、結婚してからの18年間、お世話になったことになります。
元プロ野球選手で、ピッチャーをしていました。その後、コーチをして、監督をして、解説者もして、ずっとプロ野球界にいた人でした。
昭和25年、創設されたばかりの地方の小さな球団の入団テストを受けて採用され、その年に新人投手として15勝を挙げてから、長いプロ野球人生が始まりました。
身長が166cmで、野球選手としてはかなり小柄でしたが、それから8年間2桁勝利を続け、その間、球団の勝ち星の4割以上を挙げました。弱小ゆえに解散の危機に立たされた球団を救い、昭和30年には、年間30勝を達成して、リーグを代表する投手になりました。
それでも、14年間の現役時代、チームがAクラスになることは一度もありませんでした。
昭和38年シーズン終了後、引退。621試合に投げ、通算197勝208敗、1564奪三振、通算防御率2.65という数字は、やっぱりちょっと、ものすごい数字ではあります。
私も現役時代をほとんど知らないほど、昔の話です。当時は、今のような投手の分業制も無く、エースは完投が当たり前、勝てそうな試合がピンチになると、リリーフにも行ったそうです。
「もっと強いチームにいたら、もっと勝てたでしょうね。」
と、よく言われましたが、その度に、本人は真顔で否定していました。
「小身・弱小・貧乏を、逃げ場にしたくなかった。」
というのが、当時からの口癖で、本当に負けることの大嫌いな人でした。そのエネルギーで戦い続けた結果が、自分の記録だと言っていました。
あらためてこの数字を眺めてみると、ずいぶんしんどい試合が多かったことが想像できます。ピッチャーという役割からくる性格もあり、かなりワンマンで、わがままなエースでもあったようです。勝ちにこだわり続け、投げて、投げて、また投げて、それでも、負け数のほうが勝ち数を11個上回りました。
いつだったか二人で話していたときに、もう一度生まれ変わっても、やっぱりピッチャーを仕事にしたいと言ったことがありました。数字的には、負け数のほうが多かったけど、しんどくて悔しいこともあったけど、この仕事が本当に好きだったんだなと思いました。
よく、夜遅くまで野球の話を聞かせてもらいました。聞き手としては物足りなかったろうと思いますが、野球ファンとしては、本当に面白くてためになる話でありました。
かつて、勝負の鬼といわれた人も、晩年は穏やかな人でした。
義父が亡くなったちょうどその時、うちの息子は、小学生最後の少年野球大会に出場しており、ベスト8をかけ、三塁手として戦っていました。義父にとっては唯一の男子の孫が、野球をやっていることは、やはりうれしいことのようでした。もう少し先まで見せてあげたかったなと思うと切なかったです。
それからしばらくしてから、夏の甲子園が始まりました。
駒大苫小牧の田中君や、八重山商工の大嶺君や、早実の斉藤君を見てどう思ったか、ゆっくり話を聞いてみたかったです。
2006/9
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