この夏のいろいろ
今年の夏は、久しぶりのカンヌ行きに始まり、久しぶりの家族旅行にも行き、その間、久しぶりにタイガースが好調で、オールスター戦も見に行ったりして、いろいろと盛りだくさんです。そうこうしているうちに8月になりました。8月というのは、お盆ということもあり、終戦記念日があったり、原爆記念日があったりして、鎮魂の気持ちの深まる時期です。今年は、終戦60年の節目であり、また御巣鷹山の飛行機事故から20年というタイミングで、世間全般、例年に増してその気持ちが深いように感じられます。
50年も生きていると、自分のまわりの沢山の人達を亡くしていることがわかります。
今年初めてのお盆を迎えた御霊もあります。この世に生かされている私たちは、こうやって時々、亡くなった人達のことを偲び、なんとか気持ちの折り合いをつけながら生きてくんだなと思います。
8月11日の新聞に、御巣鷹山日航機墜落事故の、ある遺族の記事がありました。読んで泣きました。要約して紹介します。
以下記事より。
1985年の早春。1組の夫婦が埼玉の2DKのアパートで新婚生活を始めた。半年後、初めての里帰り。だが、妻は羽田をたったまま、神戸の実家に帰らなかった。妻の母は事故後、うつ病と診断される。そんな義母の姿を知り、夫の康治さんは一周忌後、骨つぼを抱き新幹線にとび乗った。「遺骨は返そう。お母さんが由美を守らなくちゃと思って生きてくれれば・・・」 納骨のあとの別れ際、儀父母は繰り返した。「まだ、康治君は若いんだから」 しばらくして、康治さんが手紙を書いても、神戸から返事が来なくなった。「家族だと思っているのに」切なかった。
会社では立ち直ったかのように、月230時間の残業をしたが、1人家に戻るとむなしくなる。時に、繁華街をさまよった。6年で4度引越した。事故から8年後、一つ年下の女性と再婚した。一緒に登った御巣鷹山の尾根を号泣しながら歩く姿に、新たな人生を歩もうと決意した。
今年、康治さんは部長に昇進した。ガリガリだった青年は、おなかの出っ張りを気にするようになった。「君は、若いんだから」あの時、由美さんの両親が繰り返した言葉をかみしめる。感謝と今の暮らしを伝えたくて、今年、遺族の文集「茜雲」に文章を寄せた。
『あの日命を落とした先妻の両親は、25歳という若かった私を再起させるために、自ら縁を絶つように音信を潜めました。時がたつにつれ、私はそれが究極的な愛情であることを、思い知るようになりました。前向きに生きて幸せになろうと決意を深めていきました』
思いは届いていた。「康治くん、再婚したって。よかったなあ。会社も勤続20年やって。」
御両親は、7月上旬「茜雲」を手にした。康治君と会うことはないだろう。それでも、心穏やかに、それぞれの生活を送ればいい。
1995年の阪神大震災。家がつぶれたが、朝食を作っていた義母は、テーブルの下に逃げて一命をとりとめた。墜落事故後に結婚した由美さんの兄夫婦の長女(19)に亡き娘の面影を見る。残された自分たち家族の幸せを、由美さんが支えてくれたように思う。20年前に帰ってくるはずだったふるさと神戸。夫婦は近く、市内の高台にお墓をつくろうかと考えている。
コメント