薄情のすすめ その2
この前の続きです。「薄情」と云いますと、やはり相手への愛情が浅く、自己中心の考えで、協調性に欠けた自分勝手の性格ということになりますね。薄情者と云うと冷たくてやな奴ということです。ただ、難問を解決するために、障害を突破したり、摩擦を覚悟で目的を果たすような時、誰かがこのやな奴にならざるを得ない局面というのはあります。その狭間で何をどう選択するのか、ことは単純ではないのですね。
龍馬が書いた“薄情の道忘るる勿れ“という文言の、意味の深さです。
司馬さんが「竜馬が行く」の連載を産経新聞で始めた時、同時期に連載を開始したのが「新選組血風録」と「燃えよ剣」でして、このお話の中心にいるのが、新選組鬼の副長・土方歳三なんですが、この人は薄情というか冷酷無比な人でして、司馬さんは、
「新選組のことを調べていたころ、血のにおいが鼻の奥に溜まって、やりきれなかった。ただ、この組織の維持を担当した者に興味があった」と言ってます。
この時代の多くの青年たちは、尊皇攘夷思想にかぶれていたんですが、土方にはそう言った形跡は感じられません。かれの情熱の対象は新選組という組織だけだったかもしれず、そういうように考えたとき、この男はかれの仲間たちとはちがい、とびはなれて奇妙な男だという感じがしたそうです。そもそも、司馬さんは奇妙な男が好きで、彼が書いた、石田三成、黒田官兵衛、大村益次郎、河井継之助、江藤新平、秋山真之といった面々は、周囲とはどこか噛み合わないタイプが多いんですけどね。
そして、この新撰組という組織は、はげしく時流に抵抗し続けます。
昭和37年に司馬さんが執筆を開始した二つの小説の主人公は、竜馬も土方も1835年(天保6年)生まれの同い年です。全く違うポジションで、全く違う方向性で、同じ幕末を生きて、坂本は1867年享年32歳で、土方は1869年享年34歳で、世を去るんですが、その二つの話を同時期に一人の作家が書いていることには、ちょっと不思議な気持ちになるのですね。
思い返すに、私が「新選組血風録」と「燃えよ剣」を読んだのは「竜馬が行く」を読む少し前だったと思うんですね。何の気なしに読み始めたら、一気に土方歳三にハマったと思います。その勢いで竜馬に行って、吉田松陰、高杉晋作と続き、司馬遼太郎マイブームがやってくるんですが、考えてみると、この時すでに、本が出版されてから20年近く経ってたかもしれません。
この新選組の話というのは、ある意味時代に逆行した人たちの滅んで行くストーリーの側面があって、小説の後半、鳥羽伏見以降は、敗戦に次ぐ敗戦ということになって、仲間たちもだんだんにいなくなってゆきます。
そんな中、この土方という人は、なんだかぶれない人なんですよね。
武州多摩郡石田村(現在の日野市あたり)の農家の出で、剣術道場の仲間たちと、将軍警護のために集められた浪士組に応募するところから、舞台は幕末の京へと移り、文久3年(1863)から明治2年(1869)の新選組時代は、まさに激動期となります。そんな中で、この人は黙々と自身の意思に従って己の道をゆきます。
「燃えよ剣」の土方は後半になっても失速しない。新選組は崩壊したが、土方は旧幕軍の歴戦の勇士として最後まで抗戦を続ける、小説の下巻のほぼ半分が敗走する場面です。負けていく過程が丁寧に書かれている。最後まで一緒に戦った中島登(のぼり)は、晩年の土方について、だんだん温和となり、従う者たちは赤子が母親を慕うようだったと書き残しています。司馬さんは、負け戦を重ねていくにつれ、土方が精神的に成長し、人間的に豊かになっていくことを書きたかったのかなあ、と。
最後の場面、馬上の土方が部下たちに言う。
「おれは函館へゆく。おそらく再び五稜郭には帰るまい。世に生き倦きた者だけはついて来い」
単騎で、硝煙が立ち込める戦場へ土方の姿が消えていく。
やっぱ、かっこいいよな、薄情者だけど。
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