ヤスヒコさんへ
たぶん、神様が会わせて下さったんだろなと、思えるような人が、たまにいらっしゃるものですが、そういう人に限って、ある日、急にいなくなってしまいます。
私にとっては、実に絶妙なタイミングで登場されて、それからずいぶんと長い間、ただこっちがお世話になっただけで、先週、ふっと旅立たれてしまいました。
なんて云うか、とてもチャーミングな、頼りになる兄さんみたいな人でした。
その人は、ヤマモトヤスヒコさんという、映像の演出家で、私はテレビコマーシャルのディレクションをお願いすることが多かったのですが、仕事の時は、尊敬を込めて監督と呼んだり、ヤマモトさんと呼んだり、時に親しみを込めてヤスヒコさんと呼んだりしました。我々の業界では、とても有名なディレクターで、この人を知らない人はいません。
いつ頃、この人に出会ったのだろうかと考えてみると、ずいぶん前になります。ちょっと正確に思い出そうと思って、古い仕事の手帳を探してみました。前の会社の1984年の手帳です。ずいぶんと物持ちが良いでしょ。
それを見ると、その年、私は実に滅茶苦茶に働いてまして、すごい本数だし、役割も、本来のプロダクションマネージャーに加え、仕事によってはプロデューサーやったり、ディレクターやったりしてます。そんな1984年の3月頃のページを見ると、ヤスヒコさんと出会った仕事が始まっていました。車のTVCMですが、いつものことながら、車の仕事は、なにかと大ごとでしたね。たしか広告会社から企画が上がってきていて、当時、漫才から離れて売り出し中だった北野武さんと車を1対1で撮ろうというもので、これから演出家を決めようという段階でした。たしかベテランカメラマンのミスミさんが先に決まっていて、彼の推薦でヤスヒコさんに決まったと思います。仕事はいろいろ普通に大変だったんですが、4月の中頃に撮影して、ラフ編集が終わった頃に、ヤスヒコさんが倒れて入院してしまうんですね。
この頃のヤスヒコさんは、フリーのディレクターとして世間から評価され始めていたところで、大きい仕事を続けていたから、忙しさに本人が慣れてなくて、ひどく疲れがたまってしまったようでした。
私はプロダクションマネージャーでしたが、このフィルムの完成までの残りの作業は、ヤスヒコさんの代わりに全部やりました。誰か他のディレクターにお願いする手もありましたが、自分はヤスヒコさんの助監督みたいな気持でいましたから、そうしました。
それから2カ月くらい静養された気がしますが、彼の復帰を待っている業界の人達はたくさんいて、私と同じ会社にいた山ちゃん先輩Pもその一人で、その年、ヤスヒコさんといいフィルムを仕上げていました。それも車でしたね。
その頃のTVCMのメディアは、他のメディアに比べて、ハッキリとハイクオリティー、ハイセンスだったと思います。ヤスヒコさんの作るフィルムもまさにそうでしたが、その中に彼の個性がある意外性として加わり、いろんな名作が生まれていたと思います。当時、業界も元気で、優秀で面白いCMディレクターがたくさんいましたが、その一角に確実に存在した強い個性でした。
その表現の上で、他者と違う強さを出すために、ディレクターというのは、時に、強引さや我儘を発揮することもあるんですけど、ヤスヒコさんのことを悪く云う人には、会ったことがないのは、お葬式に来ていたみんなが言っていることでした。怒ったりもするけど、必ずフォローもするのだよね。
そうこうしているうちに、私にはちょっとした転機がやって来るんですが、いろいろハチャメチャにやってきたけど、次の仕事で、きちんとプロデューサーとしてデビューすることになったんですね。とても斬新で面白い企画の仕事でした。例の手帳を見ると、8月の10日と11日に撮影してるんですけど、この時、この仕事を、是非ヤスヒコさんにやってほしいと思いました。元気になったヤスヒコさんが快諾してくれて、ほんと嬉しかった。
その時、今思えば若かった。29歳と35歳です。この作品に主演して下さる、当時の若手人気女優さんと、そのマネージャーに、企画コンテを説明するために、ヤスヒコさんと二人で、赤坂ヒルトンホテルティールームに会いに行ったんですけど、二人ともアロハ着てたのもいけなかったんだが、しばらく雑談してなごんだ時にマネージャーから、
「プロデューサーとディレクターは、まだ見えないんですか?」と聞かれ、
「それが私たちなんです。」と答えて、女優さんに爆笑されましたっけ。
企画が良くて、ヤスヒコさんが良かったから、仕事は成功しまして、自慢のデビュー作になりました。ともかく成功することが大事な業界だから、私のデビューもうまくいって、どうにか居場所が見つかり、その後、たくさんの仕事をご一緒していただきました。
山ちゃん先輩も大事なレギュラーの仕事をお願いしてたし、同期のマンちゃんも色々お世話になり、それから4年ほどして、山ちゃんマンちゃんと私とで会社を作ることになった時も、すごく応援していただいたんですね。その応援がなかったら、たぶん僕らの独立も難しかったと思います。
なにか、誰かが物事を後ろ向きに考え始めたりする時、ポジティブに空気を変える力を持っている人でしたね。元気ない人を、どうにか元気にさせようとするとこがあって、だから、みんなヤスヒコさんが好きだったし、あの笑顔を忘れないんじゃないかな。
監督という仕事に向いている人だった。
告別式が終わって、お寺の境内に出たら、それまで覆っていた雲がどんどん切れ始めて、突風が吹いて、その辺りの物をなぎ倒しました。それはヤスヒコさんの悪戯か。いつも穏やかで、にこやかだったけど、それとは裏腹な彼の烈しさも、ふと思い出しました。
ヤスヒコさん、ずいぶん褒めた手紙になりましたが、息子さんも挨拶で言われてたように、いつも、
「もっと、褒めて。もっと、褒めて。」って、おっしゃってたから、つい。
夢に出てきてくれたら、もっと褒めますよ。
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